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第4話 金禄公債、武士たちの最後の財産

久坂乃枝:没落士族の家を守ろうとする、聡明な娘。

架空の人物

1876年:明治9年

榊原清衡:24歳


明治九年。

士族たちのもとに、金禄公債が渡される。

かつては、禄として米や金が支給された。

それが、これからは公債という紙になる。


士族たちは戸惑う。

ある者は落胆する。

「これを持っていれば、今まで通り食えるのか」


ある者は焦る。

「早く現金に換えねば、家がもたぬ」


ある者は一発逆転に縋る。

「これを元手に事業を始めれば、士族もまだ立て直せる」


この時点で、町には士族を狙う者たちが現れ始めていた。


公債を安く買い叩く商人。

高利貸し。

怪しい鉱山話を持ち込む者。

士族授産を名乗る事業家。

公債を担保に金を貸す者。

「必ず儲かる」と言って出資を募る者。


清衡は、それを見て危機感を抱く。

沢村が言った言葉が、現実になった。

紙の読み方を知らぬ者たちが、紙を渡される。


珍しく休みを取り、東京の榊原家に戻った清衡は、家の中に重い沈黙が満ちていることに気づく。


榊原家にも、金禄公債が届いていた。

父・宗矩は、その紙を長く見つめている。

かつての奉公。

徳川への忠義。

家名。

武士としての年月。


それらが、一枚の証券になったように見える。

宗矩は低く言った。

「奉公が、紙切れになったのか」


父は怒鳴らない。

泣きもしない。

ただ、時代が終わったことを腹の底から理解してしまったようだった。


兄・直之は、その紙を見て苛立っている。

「こんな紙を眺めて、武士が生きていけるものか」


直之は、金禄公債を売って何かを始めようと考えていた。

「武士が座して利子を待つなど、恥ではないか」

「これを売り払い、剣術道場を始める手元資金にすべきだ」

「あるいは塾を始めるか、知人の士族授産事業に参加すべきだ」


清衡は、少し間を置いてから口を開く。

「そもそもの話として、まずこの紙が何なのかを見なければなりません」


父と兄の視線が清衡に向く。

清衡は言った。

「これは現金ではありません。ですが、ただの紙でもありません」


父が問う。

「では何だ」


清衡は答える。

「国が、利子を払うと約束した紙です」


兄が言う。

「ならば売ればよいではないか」


清衡は首を振る。

「売れます。ですが、額面通りに売れるとは限りません」


清衡は、家族に分かるように説明した。


公債には額面がある。

利子もある。

だが、売る時の値段は変わる。

急いで売れば、安く買い叩かれる。

全部現金にすると、将来の利子収入を失う。

全部持ち続けると、生活費が足りない時に詰まる。


説明を終えた後、清衡は続ける。

「全額売り払うのは危険すぎます」

「兄上。動くことが悪いのではありません。ですが、全てを賭けて動けば、外れた時に家が残りません」


直之は怒る。

「では、何もするなと言うのか」

清衡は正面から兄の顔を見て答えた。

「違います。まず、家が死なぬよう、傷を小さくする形に分けるのです」


清衡は、金禄公債を五つに分けるべきだと説明する。

「一つ目は生活費です。一年分は確保すべきでしょう」

米代。

使用人への支払い。

家の維持費。

日々の雑費。

ここを無視すると、どれほど公債を持っていても、目の前の生活で詰む。



「二つ目は借金返済分です」

「ここで重要なのは、無理にすべてを返すことではありません」

「借金を消すために生活費まで消せば、また借金をすることになります」

借金がある場合は、利息の高いものから返す。

ただし、全部返して手元資金がなくなるのも危ない。



「三つ目は教育費、医療費にします」

「弟が私塾に通う費用、妹たちの嫁入りや稽古ごとの費用、母上の薬代などです」

「これは、絶対に無くせない資金です」

ここには、清衡の金融に対する信念がある。

金は、ただ増やすためにあるのではない。

人を守るためにある。



「四つ目は、利子を受け取るために残す部分です」

「これは家を一気に豊かにするものではありません。ですが、時間は買えます」

「最後に、余裕がある場合のみ、事業への投資に分けます」

直之が顔を上げる。


清衡は続ける。

「もちろん、米相場や怪しい会社は避けます。一点賭けも避けるべきです」

「信用できる商人との小さな取引、兄上の私塾の準備、あるいは無理のない範囲の事業参加。その程度に抑えるべきです」


直之は苦い顔をした。

「それでは、大きく立て直せぬ」

清衡は静かに答える。

「はい。大きく立て直す策ではありません」

「すぐに潰れないための策です」

そして最後に、清衡は家族の目を見ながら言った。

「公債は、家を一度で立て直す槍ではありません」

「家をすぐに潰さぬための盾です」


榊原家で公債の使い道を決めてから、半月ほどが過ぎた。

ある日、父・宗矩が清衡に声を掛ける。


宗矩は、まだ完全には納得していない様子だった。

「我が家の公債の使い道を考えてくれただろう」

「はい」

「わしの旧縁から、相談に乗ってほしいと言われているのだが……」


清衡は少し黙った。

人の家の金に口を出すのは重い。


横浜で相場表を読むのとは違う。

一つ間違えれば、恨まれる。



それでも、父の頼みを断ることはできなかった。

「家のために、できる限りのことはいたします」


さらに時間が過ぎ、清衡のもとに複数の相談者が来るようになった。

ただし、彼らの多くは清衡を完全に信じているわけではない。


むしろ半信半疑だった。

「若造に何が分かる」

「武士の家計を商人のように計るのか」

「公債など持っていても、腹は膨れぬ」


清衡は、一人一人の話を丁寧に聞く。

見るものは、家族の人数、借金、毎月の支出、病人の有無、子どもの教育費、売れる家財、収入の見込み、公債の額面、すぐ必要な現金、そして何年家が持つか。


清衡は何度も同じことを言う。

「全部売ってはいけません」

「全部握りしめてもいけません」

「一発逆転に使ってはいけません」

「まず、家が何年持つかを見ます」

評判に反して、その仕事は驚くほど地味だった。

清衡はこの時点では、投資家というより、士族向けの家計相談人のような立場になっていた。


いつものように相談者を待っていると、珍しい女性客が訪れる。

久坂乃枝と名乗る少女は、自分の事情を語り始めた。


彼女から聞いた事情をまとめると、こうだった。

父は誇り高い旧士族。

しかし、商売や証券のことは分からない。

久坂家にも金禄公債が渡された。


だが父は、それを怪しい事業に投じようとしている。


具体的には、士族授産を名乗る鉱山開発の話だった。

典型的な詐欺とまでは言えない。

だが、失敗しやすい士族投資の話である。


一発逆転感が強い。

士族の再起話に見える。

収益見込みも大きく語りやすい。

だが実際には、運搬費、人件費、採掘費が重い。

さらに、出資金を食われやすい。


乃枝は涙ながらに言った。

「父は、武士が利子を待つだけの身になるくらいなら、再び家名を立てる方に賭けると言っています」

「私は何が正しいのか分かりません。ただ、不安なのです」

「士族の間で証券に詳しいと評判の清衡様に、どうか見ていただきたく参りました」


乃枝は、父が持ち帰った事業計画書や契約書を清衡に見せる。


清衡は、その紙を読む。

横浜で商館文書を見てきた清衡には、危険な事業の匂いが分かる。


彼が見る点は、出資金の返還条件、配当の保証、事業失敗時の責任、代表者の自己資金、収入見込み、運搬費や人件費、公債を担保に取られる危険、そして損をした時に誰が損をかぶるかだった。


清衡は乃枝に言う。

「この計画は、儲け話ではありません」

「失敗した時に、誰が損を負うかを隠した計画です」

乃枝は息を呑む。


翌日、清衡は久坂家に向かい、この事業について説明を行う。


乃枝の父は怒った。

「我らの再起を邪魔するのか」


清衡は静かに、穏やかな眼差しで答える。

「再起を止めているのではありません」

「家を丸ごと賭けることを止めています」


さらに清衡は言う。

「この鉱山に賭ければ、当たった時には家名が戻るかもしれません」

「ですが外れた時には、奥方の薬代も、娘君の嫁入り道具も、すべて消えます」


乃枝は横で話を聞きながら、清衡の本質に気づく。

この人は、金を増やす話をしているのではない。

家を残し、守る話をしているのだ。


清衡は、久坂家の公債を整理する。

全額を怪しい鉱山事業に入れるのではなく、分ける。


一部は生活費として現金化する。

高利の借金を一部返済する。

乃枝の弟妹の教育費を残す。

病人がいるなら薬代を残す。

公債の一部は売らずに利子を受け取る。


事業に参加するなら、失っても家が潰れない範囲にする。

乃枝の父は、まだ不満を持っていた。

「それでは大きくは取り戻せぬ」


清衡は答える。

「大きく取り戻す策ではありません」

「すぐに失わないための策です」


清衡の助言によって、久坂家は大儲けしない。

しかし、公債をすべて失わずに済む。

それが、清衡にとっての勝利だった。


金禄公債の相談が増え始めた頃、清衡は久しぶりに横浜の沢村を訪ねる。

清衡は、金禄公債のことを沢村に話した。

「士族たちは、公債を渡されました」

「ですが、その多くは額面と価格の違いも、利子の意味も分かっておりません」


沢村は少し笑う。

「言っただろう。紙の読み方を知らん連中が、公債を渡されるとな」


清衡はうなずく。

「はい。ですが、思っていたよりひどい」


沢村は問う。

「安く売ってるか」


清衡は答える。

「売っています。あるいは、怪しい事業に丸ごと入れようとしています」


沢村は煙管を置いて言った。

「なら、お前の仕事はもう横浜にはないな」


清衡は驚く。

「横浜に、ないのですか」


沢村は清衡を見る。

「清衡」

「はい」

「もう、お前は横浜で紙を写しているだけの若造じゃねえ」

「私は、まだ沢村様から学ぶことばかりです」

「学ぶことは一生ある。だが、いつまでも師匠の後ろに座っている奴は、何も始められん」


沢村は煙管を置いた。

「お前の仕事は、相場表を読むことじゃねえ」

「では、何でしょうか」

「相場表を読めねえ奴に、相場の怖さを教えることだ」


清衡は黙る。

沢村はさらに言った。

「紙は、読めたつもりの奴を一番騙す」

「士族どもも同じだ。公債を渡されたからといって、証券を読めるわけじゃねえ」

「だから、お前が行け」


清衡は深く頭を下げた。

沢村は背を向ける。

「横浜で見た世界の値段を、今度は古い武家屋敷の台所で使ってこい」

この日、清衡は沢村の弟子から、士族を守る相談役へ進むことになった。


清衡は、東京の榊原家の一角で、本格的に士族の相談を受けるようになる。

仕事がひと段落した頃、父・宗矩が声を掛けた。


宗矩は、清衡が旧士族の相談を受けていることを複雑に思っていた。

宗矩にとって、銭勘定は本来、武士が表立ってするものではない。

だが、清衡に助けられた士族たちが頭を下げに来る。


宗矩は何も言えなくなる。

宗矩は清衡に言った。

「わしには、お前のしていることが正しいのか、まだ分からぬ」


清衡は頭を下げる。

宗矩は続けた。

「だが、家を売らずに済んだ者がいるのも事実だ」


父の言葉は、認めたというには遠い。

だが、否定だけではなくなっていた。


冬の寒さが強まる頃、乃枝が礼を言いに来る。

そこで、清衡の仕事場を見る。


そこには、旧士族たちの相談帳が積まれていた。

しかし、清衡一人では整理しきれない。


清衡は数字には強い。

だが、相談者の話を聞き、家ごとの事情を整理し、約束を記録するには手が足りない。

乃枝は帳面を見て言った。

「このままでは、誰の話がどこまで進んだのか分からなくなります」


清衡は少し驚く。

乃枝は続けた。

「人の家を守るなら、数字も約束も残さねばなりません」

その言葉は、清衡にとって意外だった。


清衡は数字を見ていた。

乃枝は、人と約束を見ていた。

そこから、清衡の相談仕事は乃枝との二人三脚で進むことになる。


だが、清衡と乃枝の相談仕事がすべてうまくいったわけではなかった。

清衡が相談に乗った士族の一人が、忠告を聞かずに公債を売り、怪しい事業に出資して失敗してしまう。

その男はは、後になって怒って言った。

「もっと強く止めてくれればよかったのだ!」


その日の夕方、仕事終わりの片づけをしている時

乃枝が言う。

「人は、正しいことを聞けば従うとは限らないのですね」

清衡は答える。

「だからこそ、正しい数字を分かる言葉にしなければならない」


清衡は強く痛感する。

正しい助言だけでは足りない。

人が理解し、納得し、思いとどまれる形にしなければならない。

一軒一軒、帳簿を見て助言するだけでは限界がある。

公債だけでは足りない。

国内だけでは狭い。

一つに賭ければ、家が沈む。

清衡は帳簿の端に書く。

公債のみでは足りない。

株式のみでは危うい。

国内のみでは狭い。

一家のみでは偏る。

ならば、少しずつ分けて持つ仕組みが必要だ。

ただし、一人で持てば危うい。

一家だけで抱えれば偏る。

一つに賭ければ、家ごと沈む。

ならば、分ける仕組みが要る。

その考えが、清衡の転生直後の発想が脳裏に再び現れてきた。



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