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第3話 郵便と電信、世界の値段

1868〜1875年:慶応4年〜明治8年

榊原清衡:16歳〜23歳


慶応四年、初夏。

清衡は、父・宗矩の紹介状を懐に入れ、横浜へ向かった。


まだ十六歳。

榊原家の次男として見れば、早すぎる旅立ちだった。

だが、家の帳簿を見れば、遅すぎるくらいでもある。


江戸の屋敷に残れば、自分一人分の米が要る。

横浜へ出れば、少なくとも食い扶持は減る。

うまくいけば、わずかでも家に金を入れられる。


そして何より、横浜には金の流れがある。

江戸とは空気が違った。



道を行く異人。

洋館。

商館の看板。

生糸を運ぶ人足。

両替商。

船の汽笛。

見慣れない貨幣。

英語で怒鳴り合う外国人。

日本語と英語と中国語が入り混じる港の声。



清衡は圧倒された。

父や兄にとって、横浜は不気味な異人の町だった。

だが清衡には、違って見えた。

横浜は、金と情報の港だ。


清衡は、父の紹介状を持って沢村俊庵を訪ねる。

沢村俊庵は、元幕府外国方の通訳補助である。


維新後は職を失い、横浜で外国商館と日本商人の間に入り、翻訳、仲介、文書作成で食っている。

口は悪い。

少し酒臭い。

身なりも崩れている。

だが、横浜商館の実務には詳しい。


沢村は、清衡を見て笑った。

「旗本の坊ちゃんが、異人の商いを習いたいだと?」

清衡は頭を下げる。

「家のために、何より私自身のために、帳簿と相場表を見たいのです」

沢村は眉を上げた。

「金が欲しいではなく、帳簿が見たい、か。変わった若造だな」

清衡は答える。

「金はまだ私にはありません。ですが、金の流れなら見られると思いました」


この返答で、沢村は少しだけ清衡に興味を持つ。

沢村は清衡を雇うというより、しばらく試すつもりだった。

「なら、まずは紙を運べ。字を写せ。間違えたら怒鳴られる。それでもよけりゃ、そこに座れ」

清衡は頭を下げた。

「お願いいたします」


沢村はまず、清衡に英字新聞を渡した。

そこには、生糸価格、船便、外国商館の広告、海外の政治情勢、為替に関する記事が載っている。


清衡は前世の記憶のおかげで、活字の英語ならかなり読めた。

古い言い回しや知らない単語はある。

しかし、時間をかければ意味は取れる。


沢村は半信半疑で見ていた。

「読めるのか、それ」

清衡は新聞から目を離さずに答えた。

「おおよその意味なら」


沢村は少し驚いた。

「ほう。旗本の坊ちゃんにしては、活字は読めるじゃねえか」

清衡は内心で安堵する。

前世の学校で習った英語は無駄ではなかった。

少なくとも、英字新聞を読む力はある。

これなら、横浜でやっていけるかもしれない。

だが、その自信はすぐに折られることになる。


沢村は、英字新聞を読めた清衡に、別の紙を投げてよこした。

それは商館の手書き文書だった。


清衡は固まる。

筆記体。

崩れた文字。

つながった単語。

略語。

数字。

品目名。

船名。

為替記号。

見慣れない単位。


現代の活字英語とはまるで違う。

清衡はしばらく紙を見つめ、つぶやいた。

「……これは、本当に英語ですか」


沢村は声を出して笑った。

「英語だよ。少なくとも、異人どもはそう言い張ってる」


清衡は悔しくなる。

前世知識があれば、英語は読めると思っていた。


だが、商館の実務文書は別物だった。

文字がつながり、跳ね、崩れ、まるで虫が紙の上を這ったように見える。


さらに、そこに商館特有の略語が混じる。

清衡は一つの単語を読み間違える。


「これは……coal、石炭ですか?」

沢村が即座に直す。


「違う。cottonだ。綿だよ、坊ちゃん。石炭と綿を間違えたら、荷主が泣くぞ」

清衡は顔を赤くした。

前世知識はある。

だが、この時代の現場では初心者だった。


次に清衡は、外国商人同士の会話を聞かされる。

窓の外で、二人の外国商人が早口で言い争っていた。


清衡は単語を拾う。

price。

shipment。

silk。

exchange。

delayed。

payment。



単語は聞こえる。

だが、意味がつながらない。


清衡は焦る。

現代英語なら分かるはずだ。


しかし発音が違う。

早い。

声が大きい。

商業用語が混じる。

怒鳴り合いの中で数字が飛ぶ。


沢村が横から聞く。

「分かったか」


清衡は正直に答えた。

「単語はいくつか。ですが、全体は……」


沢村は鼻で笑う。

「今のは、生糸の船積みが遅れたから、為替の支払いを延ばせと言ってたんだ」

清衡は悔しくなる。


読むだけでは足りない。

聞けなければ、商いの場には立てない。


沢村は、清衡の前に崩れた筆記体の商館文書を置いた。

「いいか、清衡。英語が読めるだけでは食えん」


清衡は悔しさを押し殺して聞く。

「では、何が要るのです」


沢村は、汚い筆記体の書かれた文書を指で叩いた。

「まず、異人の崩した字を読む目」


次に、窓の外で早口に言い争う外国商人を顎で示す。

「次に、怒鳴り声の中から値段と期限を拾う耳」


最後に、帳簿を指で叩いた。

「そして最後に、聞いた言葉と紙の数字が合っているかを確かめる頭だ」


清衡は黙って頷いた。


前世の記憶は、活字を読む助けにはなった。

だが横浜で金を動かすには、それだけでは足りない。


ここでは英語は学問ではない。

荷を動かし、銀を動かし、信用を測るための道具だった。


沢村は煙草の煙を吐きながら言った。

「辞書に載っている英語と、金を動かす英語は違う。横浜で食うなら、そっちを覚えろ」

清衡は、その言葉を胸に刻む。


清衡の仕事は地味だった。

華やかな商談には参加しない。

重要な交渉も任されない。

沢村の後ろで、紙と数字を扱うだけ。


最初の仕事は、

英字新聞の切り抜き

生糸価格の記録

為替相場の写し

船便日程の整理

商館文書の清書

日本商人向け文書の写し

簡単な英語文書の下訳

相場表の数字整理


武士の子が胸を張れる仕事ではない。

働き出してひと段落がつき、江戸の実家に帰った時、兄・直之は顔をしかめた。

「榊原の次男が、異人商館の帳簿写しか」


しかし、清衡にとっては宝の山だった。

江戸の武家屋敷では見えなかったものが、横浜にはある。

米ではなく、生糸の値。

禄ではなく、為替。

家名ではなく、信用。

刀ではなく、船便と相場表。


清衡は思う。

ここでは、武士の家格より、紙に書かれた数字の方が重んじられる。


清衡は、順調に学ぶだけではなかった。

清衡は元旗本の家の子だ。


しかし横浜では、ただの写字生でしかない。

外国商人からは下に見られる。

日本商人からも笑われる。


ある日本商人が言った。

「旗本様も落ちたものだな。今では異人の帳簿写しか」

清衡は悔しい感情を押し殺した。

だが、言い返さない。

その場で言い返せば、武士の面目は立つかもしれない。

だが、それで仕事から遠ざかれば、家を守る道も遠ざかる。


清衡は唇を噛み、頭を下げた。

ここで頭を下げなければ、世界の数字は見えない。


清衡は十六歳で横浜に入った。

だが、横浜は一日で理解できる場所ではなかった。


最初の一年、清衡は英字新聞と商館文書に慣れるだけで精一杯だった。

筆記体を読み間違え、沢村に怒鳴られる。

為替の単位を取り違え、帳簿を直される。

外国商人の早口に置いていかれる。

生糸と綿と茶の品目名を混同する。

船便の遅れが価格に影響することを、実際の取引で知る。


だが、少しずつ目と耳が慣れていく。

やがて清衡は、活字だけでなく、崩れた商館文書も読めるようになる。


外国商人の会話から、値段、期限、品目だけは拾えるようになる。

英字新聞をただ読むだけでなく、必要な数字を抜き出せるようになる。


沢村は口では褒めない。

ただ、以前より難しい紙を清衡に渡すようになる。



そうして、三年が過ぎた。

清衡は二十歳になっていた。

もう英字新聞を前に固まることはない。

崩れた筆記体にも、完全ではないが目が慣れた。

外国商人の怒鳴り声から、値段と期限と品目だけは拾えるようになっていた。


数年間横浜で仕事を続けるうち、清衡は情報の速さに衝撃を受ける。


江戸の武家屋敷では、噂がゆっくり広がる。

しかし横浜では、情報が港に流れ込んでくる。


最初に清衡が驚いたのは、船便で届く新聞や商館文書だった。

海を渡って届いた紙が、横浜の値段を動かす。

遠い国の出来事が、生糸の値や為替に響く。

やがて、電信が価格を動かすようになっていく。


郵便制度もさらに整い始める。

船便で届く新聞。

電信で伝わる価格。

郵便で運ばれる文書。

商館に集まる注文。

両替商が見る為替。

生糸商人が気にする海外需要。



清衡は気づく。

投資は、金だけではできない。

情報が届くことが大切だ。

郵便は書類と金を運ぶ。

電信は価格と知らせを運ぶ。

新聞は知識を運ぶ。

この三つがなければ、遠くのものには投資できないと痛感する。


数年が経ち、清衡はただの使い走りではなくなっていく。

明治六年、明治七年と進むころ、清衡はロンドンから届いた相場表を写す機会が増える。

そこには、日本ではまだ考えにくいほど多様な証券が並んでいる。


英国公債。

インド政府債。

カナダ植民地債。

米国鉄道債。

南米公債。

欧州各国の国債。

鉄道会社の債券。


清衡は考える。

前世知識としては、世界中の株や債券に投資する考えを知っていた。

だが、この明治初期の横浜で、実際にその名前を見ると重みが違う。

清衡は思う。


日本には、まだ買える会社が少ない。

日本だけだと分散が効かない。

だが世界には、すでに分散先がある。

日本人が日本だけを買っていては危ない。

日本人も、世界を少しずつ持つべきだ。

この考えが、後の万国平均証券の原点になる。


清衡は、ロンドン相場表、横浜の生糸価格、為替表、船便情報を見ながら、自分だけの表を作り始める。

まだ粗い表だった。

通貨

利回り

取引量

利払い実績

為替

安全

注意

危険

高利回り



清衡は、ただ写すだけではなく、自分なりに分類し始める。

この表は、後の、

万国平均証券表

信用等級表

日本産業平均表

の原型になる。


沢村がそれを見つける。

「何を書いている?」

清衡は答える。

「世界の値段です」

沢村は笑う。

「大きく出たな」

清衡は真面目に言う。

「いずれ必ず必要になります」



沢村は、少しだけ清衡を見る目を変える。

この若造は、ただの写字生ではない。

紙に書かれた数字の向こうに、何かを見ている。


明治八年。

清衡は二十三歳になっていた。

ある日、沢村が清衡に言った。

「清衡、お前は士族の家の出だったな」


清衡は頷く。

「はい」

沢村は煙管を置き、低く言った。

「なら覚えておけ。これから武士どもは、紙を渡される。禄の代わりにな」


清衡は顔を上げる。

「紙……公債ですか」


沢村はうなずいた。

「そうだ。だが多くは、その紙の読み方を知らん」


清衡は黙った。

横浜で見てきた相場表。

利子。

価格。

信用。

為替。

証券。


それは、遠い外国だけの話ではない。

いずれ、士族の家計に直結する。

武士たちは、まもなく証券を手にする。

だが、証券の意味を知らない。


清衡の最初の本当の仕事が、始まろうとしていた。

横浜で見た世界の値段は、やがて江戸の古い武家屋敷の台所にまで届くのだ。


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