第2話 明治維新、いずれ禄は消える
沢村俊庵:横浜商館に通じる、元外国方の通訳補助。
架空の人物
1868年:慶応四年、のち明治元年 初夏
榊原 清衡:16歳
慶応四年、初夏。
つい先日まで徳川の城であった江戸城は、もはや幕府のものではなかった。
江戸の町は落ち着かない。
昨日まで幕府の威光を信じていた者たちが、急に声を潜めて話すようになる。
武家屋敷では、家財を売る話、縁故を頼る話、新政府に仕える話、あるいは徹底抗戦の話がささやかれていた。
榊原家も例外ではない。
父・宗矩は表向き平静を装っている。
兄・直之は苛立っている。
母は家の支出を心配している。
清衡だけが、帳簿を前にして別の恐怖を見ていた。
幕府が倒れる。
徳川の信用が揺らぐ。
ならば、徳川に仕えていた家の収入も揺らぐ。
清衡は思う。
この家は、父上の剣や兄上の誇りで立っているのではない。
禄という定期収入で立っている。
その禄が揺らげば、家は揺らぐ。
父・宗矩のもとに、幕府崩壊後の処遇に関する噂が届く。
まだ何もはっきりしていない。
だが、だからこそ怖い。
禄はどうなるのか。
江戸に残れるのか。
新政府に仕えるべきか。
静岡へ移るべきか。
家財を売るべきか。
借金はどう返すのか。
兄の武芸は役に立つのか。
兄・直之は、新政府に仕えるという噂に怒った。
「徳川に仕えた家が、新政府に頭を下げるなど、恥ではありませんか」
父はそれに強くうなずきたい。
しかし、言い切れない。
宗矩は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「家を守ることが、武士の本分であるはずだ……」
宗矩も分かっている。
誇りだけでは米は買えない。
だが、それを口に出すことはできない。
そこで清衡は、初めて家族の前で帳簿を持ち出した。
清衡は、父と兄に向かって家の収支を説明する。
「もし、新政府が我が家の禄を半分にすれば、一年も持ちません」
父の顔がわずかに動く。
「禄の支払いが遅れれば、必ず借金が増えます」
「また、付き合いを今まで通りに続けるのは厳しいと思います」
父は顔をしかめた。
だが、十六歳の少年の言葉を途中で遮りはしなかった。
清衡が昔から帳簿を見ていたことを、宗矩は知っている。
そして今、家の状況がただならぬことも分かっている。
「万が一に備え、家財を売る順番を決めねばなりません」
清衡は言葉を選びながら続けた。
「上様より拝領した刀を、商人どもに二束三文で売るわけにはいきません」
兄・直之は、感情を押し殺すように言った。
「拝領の刀は家の宝だ。売るなどと、考えたくもない」
怒りはある。
だが、状況が厳しいことは直之にも分かっていた。
「借金の返済に関しても、優先順位をつけなければなりません」
「弟や妹たちの教育費だけは、残さねばならないかと思っています」
清衡は兄の顔色を窺いながら、さらに言った。
「言いにくいのですが、兄上の剣術に関する道場への月謝も、減らすべきかと」
直之は激怒し、畳を叩きながら立ち上がった。
「俺の稽古を無駄と言うのか!」
清衡はすぐに首を振った。
「無駄とは申しておりません。ですが、米より先に木刀を買う家はありません」
父も怒った。
「清衡、武士の家を商家のように考えるな」
清衡は落ち着いて答える。
「ですがこのままでは、商人に家財を買い叩かれます」
父と兄は反発した。
だが母は、清衡の言うことが分かっていた。
母は家の台所を見ている。
米びつの減り方も、使用人への支払いも、薬代も、衣服の繕いも分かっている。
母は静かに言った。
「あなた。この子の言うことを、すべて退けてよいのでしょうか」
父は黙った。
母が父の前で、家計についてはっきり口を挟むのはめったにないことだった。
だからこそ、榊原家の厳しい現状が、ようやく宗矩の腹に落ちてきたのである。
清衡は、家族が少し落ち着いたのを見て、改めて言った。
「今すぐ始めるべきことは二つです」
「一つ目は、毎月家の帳簿を確認すること」
「現状を正しく、こまめに確認します。家計が傾いてから気づくのでは遅いからです」
兄は、意外にも少しうなずいた。
「なるほど。これは剣術に通じるな」
清衡は兄を見る。
直之は続けた。
「正しい素振りをしなければ、いくら振っても意味がない。だからこまめに直す。家計も同じということか」
清衡は少し驚いたが、うなずいた。
「はい。兄上のおっしゃる通りです」
続けて清衡は言う。
「二つ目は、父上が持つ横浜との縁を、より強く使うことです」
兄・直之は嫌悪感を見せた。
「横浜など、異人の臭いがする場所だ。武士が近づくところではない!」
父も内心では同意している。
しかし、すぐに否定はしなかった。
「それで、横浜との縁をどう使うつもりだ」
清衡は頭を下げながら言った。
「沢村俊庵殿を紹介していただけないでしょうか」
父の目が細くなる。
「沢村を?」
「はい。沢村殿のもとで、写字や帳簿整理の手伝いをしたいのです」
清衡は続ける。
「横浜の取引に関われば、英字新聞や相場表、為替の数字にも触れられるはずです」
「また、横浜に詰める日が増えれば、私の食い扶持も減ります。わずかでも、家に金を入れられるかもしれません」
兄・直之は、清衡を責める。
「お前は、武士であることを恥じているのか」
清衡は答えた。
「恥じてはいません」
兄は続ける。
「ならばなぜ、異人の商いなどを見る」
清衡は言う。
「武士であることと、金の流れを知らぬことは同じではありません」
部屋の空気が張りつめる。
父・宗矩が清衡に問う。
「武士の家を守るために、武士でない真似をするのか」
清衡は答えようとした。
しかし、その前に父が続けた。
宗矩はしばらく清衡を見ていた。
怒鳴るでもなく、叱るでもなく、ただ見ていた。
そして、低く言った。
「……よかろう」
兄が目を見開く。
宗矩は続けた。
「そこまで言ったのだ。ならば行け」
清衡は深く頭を下げた。
「ありがとうございます、父上」
宗矩は厳しい声で言った。
「ただし忘れるな。横浜に行こうとも、異人の帳簿を写そうとも、お前は榊原の子だ」
「はい」
「武士として、一人の男として、恥のないように振る舞いなさい」
清衡はもう一度、深く頭を下げた。




