第6話 横浜正金銀行とロンドンへの道
アーサー・マクレガー
架空の人物
1880〜1881年:明治13〜14年
榊原清衡:28〜29歳
東京公債株式分散会が結成されて、早くも二年が過ぎた。
参加者は順調に増えている。
士族だけでなく、小商人、未亡人、下級役人、地方から東京へ出てきた者も、少しずつ加わるようになっていた。
清衡と乃枝は、毎月の報告書を作り続けている。
公債の利子。
株式の配当。
値下がりした証券。
売らなかった理由。
現金として残した分。
参加者ごとの持分。
東京公債株式分散会は、小さいながらも信用を得つつあった。
だが、問題があった。
それは、保有資産の中にごくわずかだけ混ぜた海外公債である。
清衡は、将来のために海外公債をごく少量だけ入れていた。
現状の日本では証券の種類が少なく、十分な分散が効きにくい。
日本だけに運命を預けないようにするためだった。
しかし、海外公債は国内公債とは違った。
参加者からの不安の声は、なかなか消えない。
「外国の公債の値段は、今いくらなのですか」
「利子は本当に届くのですか」
「手数料はいくら取られているのですか」
「その証券はどこにあるのですか」
「もし横浜の商館に何かあれば、我々の持分はどうなるのですか」
国内公債なら説明できる。
相場も比較的追える。
利子の受け取りも分かりやすい。
だが海外公債は、横浜の商館、為替、外国語の書類、ロンドン相場表、証券の保管、利子の送金が絡む。
管理に膨大な手間がかかる。
このわずかな量でさえ、国内公債よりも事務処理の負担が大きかった。
なにより、参加者の不安が強い。
それでも清衡は、海外公債の割合を少しずつ増やしたいと考えていた。
なぜなら、本当に安全な分散投資を目指すなら、日本国内だけでは足りないからだ。
清衡は乃枝に言う。
「日本だけに分けても、日本が揺れれば会も揺れます」
「本当に分散するなら、世界へも少しずつ広げねばなりません」
乃枝は帳面を見ながら答える。
「ですが今のままでは、海外公債一つに国内公債十以上の手間がかかります」
清衡は頷く。
「はい。買えたことと、安心して持てることは違います」
清衡は板挟みになっていた。
海外比率を増やしたい。
しかし今の仕組みでは、海外公債を増やせない。
その悩みは、日に日に大きくなっていた。
海外公債の問題が大きくなるほど、同時に乃枝の役割も大きくなる。
乃枝はすでに、分散会に欠かせない存在になっていた。
持分帳。
顧客台帳。
利子と配当の記録。
月報の言葉。
苦情対応。
相談者ごとの事情。
未亡人や女性客への説明。
しかし、乃枝の立場は曖昧だった。
未婚の士族の娘が、榊原家に出入りし、金の帳面を扱っている。
清衡の仕事に深く関わっている。
にもかかわらず、家の者ではない。
ある朝、食事の後、父・宗矩は清衡に告げた。
「清衡。久坂の娘を、いつまで外の者として扱うつもりだ」
清衡は戸惑う。
「外の者として扱っているつもりはありません」
宗矩は静かに言う。
「だからこそだ。外の者でないなら、形を整えねばならぬ」
兄・直之も清衡を促す。
「乃枝殿がいなければ、お前の会は回らんのだろう」
「ならば、手伝いの娘として曖昧に置くな」
「それは、あの娘にも久坂家にも失礼だ」
その日、乃枝が榊原家に来ると、清衡は仕事に入る前に話を切り出した。
清衡は、恋愛めいた言葉ではなく、まず責任の重さから語り始める。
「乃枝殿。私の仕事は、これからもっと危うくなります」
乃枝は静かに聞いている。
清衡は続けた。
「国内の公債だけでなく、海外の証券にも手を伸ばします」
「為替も、ロンドンも、外国商館も関わる」
「人の金を預かり、人の恨みも買うでしょう」
「失敗すれば、榊原家だけでなく、あなたの家も、あなた自身も傷つきます」
乃枝は静かに答えた。
「もう、傷つく場所におります」
清衡は顔を上げる。
乃枝は続けた。
「帳面にも、人の家の涙にも、私はすでに触れております」
「清衡様が数字を見るなら、私は人と約束を見ます」
「それが夫婦であるなら、なおさら逃げられません」
さらに、乃枝は言う。
「家を守る仕事をする方が、自分の家を持つことから逃げてどうなさいます」
その言葉で、清衡は腹を決めた。
二人は結婚する。
婚礼は質素なものだった。
派手な祝宴ではなく、士族らしく筋目を通す場になった。
宗矩は静かに言う。
「久坂殿の娘を迎える以上、榊原の家だけでなく、その名も背負うことになる」
清衡は答える。
「心得ております」
久坂家の父も言った。
「娘を帳簿方としてだけ使うなら、許さぬつもりだった」
「だが、家を守る道に娘が必要だと言うなら、預ける」
こうして乃枝は、榊原乃枝となった。
乃枝は単なる協力者ではなく、榊原家の内側から帳簿と信用を守る存在になったのである。
結婚後、清衡は横浜へ向かう。
目的は、海外証券を安定して扱う道を作ることだ。
そこで、清衡は横浜正金銀行の存在に着目した。
横浜正金銀行は、清衡にとってただの銀行ではない。
貿易の金を動かし、外貨を扱い、日本と世界をつなぐための機関に見えた。
その後、清衡は沢村俊庵を訪ねる。
沢村は清衡を見るなり言った。
「嫁をもらって、ようやく少しは人並みになったか」
清衡は苦笑する。
清衡は、海外公債の継続買付について相談した。
沢村は言う。
「海外の紙を持つなら、まず誰がその紙を握っているかを疑え」
「横浜で買ったつもりでも、実際にはロンドンの誰かの帳面の上だけかもしれん」
清衡は頷く。
沢村は続ける。
「お前が見るべきは利回りだけじゃねえ」
「名義、保管、手数料、為替、受け取り、責任」
「遠い紙ほど、嘘をつく奴が増える」
沢村に紹介された何人かの外国商人に相談した末、清衡はある人物と接触することを決めた。
ロンドンのブローカー、アーサー・マクレガーである。
マクレガーは保守的な男だった。
彼にとって、ロンドンの証券市場とは、大口の富裕層や機関が扱うものだった。
日本の小口資金を少しずつ海外へ投資するという考えは、奇妙に見えた。
マクレガーは問う。
「君は結局、何を買いたいのだ」
「英国債か、インド債か、米国鉄道債か」
清衡は答える。
「全部です。ただし、全部を少しずつ」
マクレガーは眉を上げる。
「それは欲張りなのか、臆病なのか、あるいは愚かなのか」
清衡は答えた。
「臆病です」
マクレガーは少し笑う。
清衡は続ける。
「私の客は、一つの失敗で家を失う者たちです」
「だから、一つを当てるより、一つで死なないことを選びます」
マクレガーは、清衡を見る目を少し変えた。
「ロンドンでは、大口の者が世界を買う」
「君は小口の者に世界を持たせようとしている」
清衡は答える。
「持たせるというほど大きなものではありません」
「家を守るために、世界へ少し触れねばならないのです」
清衡、乃枝、マクレガーは、海外公債を継続して扱う条件を詰めていく。
一つ目は、買付対象。
最初は高利回りではなく、信用の高いものを中心にする。
英国公債。
インド政府債。
カナダ植民地債。
米国鉄道債はごく少量。
南米債は警戒し、当面は避ける。
清衡は言う。
「最初は、利回りの高さではなく、利払いの確かさを見ます」
二つ目は、買付上限。
海外公債は、全体のごく一部に抑える。
「知らぬものを大きく持つことはしません」
三つ目は、保管方法。
ロンドン側の保管記録を取り、日本側の持分帳と照合する。
乃枝は言う。
「ロンドンの帳面と、東京の帳面が合わなければ、持っているとは言えません」
四つ目は、為替と手数料の明記。
為替差、送金手数料、買付手数料を参加者に知らせる。
清衡は言う。
「手数料を隠せば、利回りは嘘になります」
五つ目は、利子の受け取り。
いつ利子が入り、どの通貨で受け取り、日本側でどう分配するかを決める。
六つ目は、報告欄。
乃枝は持分帳に新しい欄を作る。
海外公債。
国名。
通貨。
買付価格。
為替。
手数料。
保管先。
利子受取日。
電信確認の有無。
乃枝は言う。
「世界を持つためには、報告欄が増えるのですね」
清衡は答える。
「はい。世界は広い分、帳面も厚くなります」
こうして三人は、六つの方針を決めたのであった。
清衡は、分散会の参加者に海外公債の継続買付について説明する。
参加者は不安を見せていた。
「外国の公債など信用できるものか」
「日本の金を異人に渡すのか」
「利子は本当に届くのだな」
「戦争が起きたらどうするつもりだ」
「手数料ばかり取られるのではないだろうか」
清衡は言う。
「だから、少しだけです」
「知らぬものを大きく持つことはしません」
「しかし、知らぬまま避け続ければ、日本だけに運命を預けることになります」
乃枝も補足する。
「海外公債は、国内公債とは別に記します」
「為替、手数料、利子の受け取り、保管先、すべて分けて書きます」
「分からぬものを、分からぬまま混ぜることはいたしません」
参加者は完全には納得しなかった。
だが、少額なら受け入れる者もいた。
「外国は信用できない」
「だが、榊原の二人は信用しよう」
東京公債株式分散会は、二年前に世界の端へ指先だけ触れた。
だが今、その指先は一本の線になった。
横浜からロンドンへ。
ロンドンから東京の小さな会へ。
世界を持つという言葉は、ようやく継続できる仕組みになり始めていた。




