ep.40
咽び泣く彼女を横目に少しずつ意識が遠ざかっていく。
俺は祐希にとって友達ではあっても、唯一無二の親友にはなれなかった。
もし異変にちゃんと気づけていたら……。
君の陰りに手を伸ばせていたら……。
悩みを聞いたり、支え合ったり。
そんな関係性だったら。
そしたら……ちゃんと親友として、今も隣に居られたのかも知れない。
ゲホッ!
くそっ。まだ胃に残ってるのか。
でもおおかた吐いたはず。
なのに意識を保つので精一杯だ。
また脱水症状なのか、それとも得体の知れない薬のせいか。
確か、残りの経口補水液がリュックに入ったままのはず。
開けようと手を伸ばすが震えて上手く掴めない。
息が切れる。酸素が薄くなっていく感覚だった。
ビイーーーー。
ファスナーの開く音。
隣にいた円香さんがペットボトルを取り出すのが見える。
俺は千歳くんの腕に支えられながら、なんとか水分を喉へと流し込んだ。
「ゆっくりでいいから」
千歳くんの優しい声。
やけに心が落ち着く。
俺は少しずつ何度も口へと運んだ。
捻れたような腸の気持ち悪さが消えていく。霧がかったような視界が徐々に輪郭を取り戻し始めた。
「はぁ……はぁ。 すみません」
薬の成分がここにきてようやく薄れてきたのか、掠れた声で言葉を出すことができた。
重い気だるさは体に残っているが、朦朧としていた頭に少しずつ思考が戻っていく。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
円香さんは頭を下げたまま繰り返し俺たちへ向けて謝罪を続けている。
「律くん、とにかく今は横になったほうがいい」
肩に腕を回し、崩れ落ちそうな体を支えられながら、俺たちは事務所横の宿直室へと向かった。
辺りはいつの間にか暗く静かな夜に更けていた。
無機質な電球の灯りがやけに眩しく感じる。
宿直室のベッドへ横たわると、全身に纏わりついていた重りが外れたかのように軽く感じた。
このまま何も考えることなく眠ってしまいたい……。
そう思えるほどに身体は疲弊していた。
千歳くんは濡らしたタオルで俺の汚れた腕や顔を優しく拭きとっていく。
額に手をあてると、ほっとした表情を見せた。
妙に安らぎを感じたのは、何故か医者のように見えたから。
外科医という志半ばで途絶えた夢。
『命はもっと尊いもので、簡単に扱うなんてあってはならない!』
そう叫んだ彼の心根は、確かに医師そのものだった。
「熱はないようだし、顔色も戻ってきたから大丈夫。このままゆっくり休んで」
「……はい」
その優しい声の後ろで、円香さんはずっと顔を伏せたまま立っていた。
鼻をすする音と、肩が何度も跳ね上がるのが見える。
後悔。
自責の念。
彼女もまた、あの頃の俺に重なって見える。
祐希はスムージーを飲むと決めた時、一体どんな気持ちだったんだろう──。
彼女を見ていると急にそんな思いが頭をよぎった。
祐希にとっての円香さんは心の拠り所。なくてはならない存在。きっと千歳くんや母以上に。
秘密を抱え込んだ苦しさは、祐希と彼女本人にしか分からない。
二人にしか……。
あ──
俺は踏ん張りの効かない腕にムチを振るうよう必死に力を込めて体を起こした。
どうしても確かめたいことがある。
ベッド横のリュックから折り紙の本と"サイ"、"折り鶴"を取り出し、布団の上に並べた。
「この"サイ"は……円香さん自身が、施したものですか?」
俺の問いかけに、彼女は重い扉を開けるようにようやく顔を上げた。
「……はい。千歳さんが祐希の弔いの為と、なぞなぞ本に暗号を書き記しているのを知ったんです。それが律さんの元へ届くことも。あの日、午後からお母様の病院へ行くと聞いていました。だからその時間を見計らって、私が……。殺されるとメッセージを残せば、律さんは必ず事件を疑うはず。そうしたら千歳さんへ全てを話すきっかけを与えてくれる。ずっと抱え込んできた嘘から、やっと解放してもらえるって……」
絶え間なく流れる涙を拭いながら、円香さんは切実な表情を見せている。
「でも律さんがあの夜、宿直室に来た時。本当に真実が明るみになるのかと思ったら……急に怖くなって。私のせいで、千歳さんの未来も、祐希の命も奪ったのに。だから祐希がついてくれた嘘を完璧に守り抜く責任が、私にはあるんじゃないかって。迷った末に律さんは排除すべきと思って薬を……。私もう……自分がどうすべきかも分からなくて。ごめんなさい……」
彼女の口から溢れ出たのは、自分自身へ向け続けた、後悔と恐怖だった。
赤い紅をさす歪んだ彼女は、もうそこには居ない。千歳くんを失いかけた恐怖によって、仮面は完全に剥がれ落ち、ただの怯える一人の少女に見えた。
千歳くんは黙って耳を傾け円香さんを見つめていた。
彼自身も、同じように悔やみ続けてきたから理解は出来たはず。でもそれは"千歳くん"としてなのか、"祐希の兄"としてなのか。俺には到底分かるはずなんて無かった。
"サイ"へ触れるとカサカサと折り紙の音が鳴る。
やっぱり、祐希じゃなかった。
俺は少しだけ安心していた。
緊迫したSOSを、大好きな折り紙に記すなんて祐希らしくないと、何処かで思っていたんだろう。
だとしたら、祐希が遺したのはコレだけになる。
俺は最初に折り上げた鶴の羽をそっと広げた。
左右の羽に残された文字は、何度見ても胸の奥を締め付ける。
「ごめ、んね……」
千歳くんは覗き込むように鶴を見つめ、記された文字を呟いた。その声に響いた4つの音に、俺の脳内へは濃い霧が広がっていくようだった。
「これも円香が……」
「いえ、それは私じゃないです。元から挟まれていたので」
千歳くんと円香さん。
二人を同時に視界へ捉えた瞬間、脳裏の霞が風に吹かれるように晴れていく感覚がした。
鶴──。
鶴は千年……それは千歳くんの名前の由来。そして、円香さんの名字である『鶴原』。
もしかしたらこれは、俺ではなく二人に宛てたメッセージだったんじゃないか。
徹底的に俺を部外者として扱い、突き放し続けた祐希だ。
逆にこれが俺へ向けられたものだとする方がおかしい。
「これはきっと、祐希が二人に残したメッセージだと思います……」
そう口にした途端、心の奥深くが痛むような……何かが萎むような。そんな気がした。
千歳くんは唇を噛みしめるように、弟への後悔を再び募らせているようだった。円香さんは堪らず咽ぶ口を押さえながら、再び涙を流している。
二人を見て、ただ羨ましかった。
俺は祐希から何一つメッセージを貰えなかった。
まぁ部外者なんだから、当然か。
ただの……『友達』。
でもさ、祐希。
ちゃんと部外者にして守ろうとしてくれたんだろ?
それくらいは勝手に思っててもいいよな?
じゃないと、俺は空っぽになっちゃうよ…。
呆然としていると、優しい声が俺を掬い上げてくれた。
「律くん。これは君にも伝えたかった事なんだと、僕は思うよ」
「え……」
千歳くんは後遺症で震える手を広げ、鶴へそっと触れた。
「祐希と病院に飾る千羽鶴を折った事があって。君にも折り方を教えて数羽作って貰ったと、嬉しそうに見せてくれたんだ」
学校で過ごしたあの時が思い起された。折り方も知らない俺へ、丁寧に教えてくれた祐希。不格好な鶴は折るごとに、凛とした表情を見せるようになっていた。
「折り鶴は祐希にとって、律くんとの大事な思い出なんだよ」
それを聞いて白鶴神社の看板が、一瞬にして脳内に浮かんだ。
『古来より鶴は鳴き声が共鳴して遠方まで届くことから「天に届く=天上界に通ずる鳥」と言われています』
俺はあのとき必死で鶴を折り、謝罪の想いを込めた。
もしかしたら、祐希も同じことを思ってこれを……。
千歳くんは俺の掌に鶴を乗せると、頷きながら微笑んだ。
その柔らかな笑みを見て、堪えきれない涙が溢れる。
だってさ、祐希。
やっぱり……この人は君に似てるんだ。
窓の外からは鈴虫の音が響く。
俺たちの孤独や後悔を全て包んで、暗い夜を少しだけ照らしてくれた。
全ての解答は示された。
長くて濃い、2人なぞなぞ旅が幕を閉じる。
ただいま、祐希──




