ep.39
打ち付けた肩から痛みが走る。
思わず顔をしかめたが不思議とその痛みは鈍くなっていく。
最悪の事態は回避できた──。
それだけが救いだった。
彼女の放った「嘘」の正体。
千歳くんは傍らで口を開けたまま。その瞳は正面の円香さんを今にも丸ごと飲み込むかのように離さない。荒くなった呼吸を整えながら次の言葉を静かに待ち構えている。
彼女は愛する人へと駆け寄り、ポケットから取り出したハンカチをそっと流血部へ押し当てた。
千歳くんの体は一瞬ピクリと反応し、小さく「ありがとう」と呟くと彼女の手からハンカチを取り止血を始めた。その目は一度も円香さんから逸らされることはなく無表情に近い。
今までとは明らかに違う顔。
嘘の正体に気づいたのか。それとも自分の答えを正解にしないでくれと願っているのか。
俺には何一つ考えすら浮かばないが、どうしても心拍だけは落ち着いてくれなかった。
彼女の口から、溜め息交じりに漏れた吐息が静けさを切る。その瞳と目が合うと、胸の奥が少しざわつくのを感じた。
「……ごめんなさい」
彼女自身、続きを吐き出すのに内なる何かと闘っているように見える。赤い唇を噛むように、必死に次の言葉を紡ぎ始めた。
「自転車を倒したのは……祐希じゃ、ない。 私」
千歳くんの目は瞳孔が開くように大きく広がり、開いたままだった口は震えながら合わさった。
手から力が抜けると同時に、血のついたハンカチがふわりと揺れながら落ちていく。
きっと導き出した自身の答えが合っていたんだろう。それは兄として、事件の被害者として、考えたくもなかった真相。
俺はまた取り残されていく感覚だった。
──いや、違う。
その真実の渦の中に誘われるのが怖くなったのかも知れない。
祐希の事をちゃんと分かっていたあの頃の俺が、酷く怯え始める。
その正体は、すぐに耳へ届いた。
「……祐希が"僕がしたことにするから"って」
彼女の言葉は俺と千歳くんの内を深くえぐる。
祐希の優しさ──。
それ以外に、何も無かった。
なにも。
千歳くんは掌で覆うように顔を包んだ。
全てが彼の中で繋がった……俺にはそう見えた。
祐希が円香さんへ向けた優しさが憎くて仕方ない。いくらなんでも罪を被って居なくなるなんて馬鹿げてる。
ふざけるなよ、祐希──!
苛立ちが止め処なく溢れてくる。
ぶつけたい怒りを拳に溜めながら、懸命に堰き止めていた。
「その祐希の優しさは……円香があげたものだよ」
千歳くんの震える声に切ない痛みが混じる。
顔を上げ涙を拭うと、少しだけ兄としての表情を円香さんへと向けた。
「祐希はずっとひとりぼっちだったから……。父は手術ばかりで家には滅多に戻らなかったし、母は勉強する僕に付きっきり。相当淋しい思いをしていたはずなんだ。そんな時、円香が頻繁に来てくれては祐希との時間を持ってくれた。本当にすごく喜んでたんだ」
堪えきれない嗚咽が彼女の口から放たれた。涙は何度も伝っては吸い込まれるように地面へ落ちていく。
知らなかった祐希のピースが俺の中でまた1つそっとハマった。
「祐希は孤独な自分を救ってくれた円香が、自転車事故の原因だと知れたらもう来てくれなくなる……その方が怒られるよりもよっぽど怖かったんだと思うよ」
孤独──。
俺にはそれがよく分かる。
だからこそ、胸がひどく痛んだ。
鈴虫が再び繊細な音を奏で始める。
咳き込みながらも彼女は懸命に真実を伝えようとしていた。
「千歳さんが……後遺症を患ったのを知った時、正直に言おうと祐希に相談したんです。でも了承くれませんでした。『円ちゃんは僕が自転車を倒したところを見ただけ。お兄ちゃんにすぐ伝えなかったのも、全部僕のせい』って」
さっきから聞いているだけだったが、やはり腑に落ちない。
祐希が精神を病んで命を捨ててまでも守り抜きたかったその約束の真意が。
そのとき千歳くんは俺へと僅かに微笑みを向けた。
「律くんは知ってたかな?……祐希は人見知りで内向的だから、学校で友達を作れず本や図鑑ばかり見てる子供だったんだよ。でも転校してきたひとりぼっちの君を、放っておけなかった。自分と同じだと思ったって、そう言ってた」
は……。
待ってくれ──
頭には祐希の笑顔ばかりが溢れ、思考が鈍る。
思い出せ。
転校してから全く馴染めなかったクラス。母は働き詰めで家にはほぼ居なかった。
毎日席でただ座ってるだけの休み時間。周りは騒がしかったけれど、楽しそうな声だった。それが俺の孤独をより鮮明に炙り出していたんだ。
そのとき祐希は何をしてた……?
思い出せ!!
祐希は……
あ……
声にならないほどの微量な空気が口から漏れた。
そうだ。
確かに祐希は俺と同じように席に居た。そして、ほんの数回だけこちらを伺うように視線を送ってきたんだ。
それが数日続いた後。あの日、意を決してなぞなぞ本を手に声を掛けてくれたんだ。
何で俺はそんな大事なことを忘れていた。祐希のあの一声に込めた優しさと強い意志。
ちゃんと……
『ありがとう』って。
伝えておけばよかった──。
拳から力が抜けていく。
祐希が掛けてくれた優しさから始まった友人関係。皮肉にもその優しさは彼女から受け取ったもの。
どうにもならない憤りが脳内を這いずり回る。この矛先をどこへぶつければいいのか分からない。
俺は地面を殴りつけては痛みで必死に誤魔化そうとしていた。
「やめてください」
華奢な手が俺の腕を強引に掴むと、打つ付けた拳からは感覚が消えていった気がした。どんな目で俺は彼女を見たのか分からなかったが、怖がる事もなく円香さんはそのまま話を続けた。
「前にも言いましたが、律さんの話は祐希からよく聞いてました。初めて友達が出来たんだって嬉しそうに教えてくれたのが印象的で。折り紙の練習をしたり、なぞなぞの特訓をしたり、あなたの為に頑張る姿をたくさん見ました。それがあの事故以来どんどん無くなって……祐希自身も消えていくようでした」
彼女の後ろに祐希が視える気がした。
笑うでもなく、悲しむでもなく、ちゃんと聞いてくれと。
「祐希はずっと後悔の念で苦しんでいました。壊れた自転車を放って、千歳さんの部屋から出てきたお母さんの後を追いかけていったんです。あの日、誕生日だったお母さんに折り紙の花を渡すために」
薄暗くなっていく空は俺たちの内なる色のように褪せていく。
円香さんは俺と千歳くんへ繰り返し視線を送りながら話を続けた。
「あの日だけは、お兄ちゃんより先にプレゼントを渡すんだって朝から張り切ってました。母の愛に飢えていた子供なら仕方ないです。でもそれが結果的に千歳さんの夢と、お母さんの希望を奪った。祐希が赤恐怖症になったのは千歳さんの血と、あの日作った折り紙の赤いカーネーションへの後悔からです」
臓器が再び捻れるような感覚。次々に放たれる言葉が輪郭を持つように脳内へと流れていく。
祐希の細かな苦悶の表情さえも浮かび上がってくるようだった。
「精神を病み始めた頃にも、私が元凶だった事を告白すべきと何度も言いました。でも既に彼の中ではそんなことよりも、自分の犯した罪の方が何倍も憎かったんだと思います。『円ちゃんにまで背負わせてごめんね』と、まるで私が何も関与していないみたいに……」
祐希の優しさ、求め続けた母、子供らしい自責。
俺は地面へ這いつくばったまま、戻りゆく気持ち悪さの中、懸命に口を動かすことに集中した。
「祐希は……狂いそうな『赤』に怯えながらも、勉強だけは続けてた。兄の夢を奪ってまで手に入れたその場所で。ずっと求めていた母親の期待に応えたくて、自分を痛めつけながら……」
込み上げる吐き気を強引に胃へと押し戻す。
「でも自分のせいで、大好きな円香さんまで苦しんでたことに気づいた。……これ以上、誰の人生も壊したくない。自分さえ居なくなれば、あんたの嘘も兄への後悔も、壊れそうになっていく母の事も、全部綺麗に……無かった事にできる。きっと祐希はあの日……知っててスムージーを飲み干したんだ……」
全てが形となって脳裏に滝のように流れ落ちる。それは最後に見た祐希と重なった。
俺へと投げつけた御守りと、あの哀しげな表情。その本当の意味を、今さらながら知ってしまった。
だがそれは確実に俺を突き放した。
円香さんは言っていた。
祐希は俺のために折り紙を練習し、なぞなぞを特訓していたと。
それは間違いなく、祐希が俺にくれた……初めて出来た友達へ向けた『友情の印』。
だからこそ、絶望したんだ。
祐希にとっての俺は、惨めな自分を隠した別世界にいる『友達』。
一番苦しい本当の居場所には、俺を絶対に近付けようとしなかった。
最後の瞬間まで、ただ綺麗に遠ざけられていただけ。
やっぱり君にとっての俺は
部外者に過ぎなかったんだ。




