ep.38
喉を伝う脈が、俺の手に"生"を刻む。
彼女は一瞬だけ瞳を大きく開いたが、抗う素振りは見せなかった。
顔色は少しずつ赤みを帯びていく。
声にもならない小さな息が漏れている。
苦しいはず……なのに、円香さんの口元は少し上がっていた。
そして虚ろいながらも最愛の人をじっと見つめている。
彼女の目が閉じかけた時、細い腕が俺の掌を首元から引き剥がした。
「律くん!」
千歳くんのその声で、自分が何をしていたかをやっと理解した。
途端に両の手は震え始め、荒くなった息が肺を揺さぶる。
目の前では全身の細胞一つ一つから酸素を得るかのように、円香さんは大きく背中を動かしている。
千歳くんはその体を支えながら懸命に彼女の名を呼んでいた。
分からない──。
こいつを殺すのが祐希の為だ。
頭では分かっているのに、この手の震えは何なんだ。
彼女の首の体温がここにずっと蔓延っている。波打つ脈の動き、薄っすらと纏った汗。懸命に何かを伝えようと動く唇。全てが脳内を一色に染めていく。
額からの汗は尋常ではない雫をこぼし始めた。
咳き込む彼女の肩を抱きかかえ、落ち着けるように背中をさする千歳くんが見える。
この人は俺のように復讐心に狩られ、殺める気持ちなど持ち合わせてはいないんだ。やはり聖人でしかなかったんだと思い知った。
「はぁ……はぁ。もう、平気です」
円香さんの顔色は戻っていた。
「……ありがとう。助けてくれて」
守られたことが嬉しいのか、幸せそうに彼女の手が愛しい背中を求め伸びていく。
その満ち足りた表情に、俺の拳は固く閉じていった。
腹の奥底から悲鳴が聞こえる。
あの笑顔は、祐希という代償の上で成り立っている。
きっと今日このために俺は生かされてきたのに──。
命なんていらない。
祐希への償いだけをするんだ。
……許さない。
歯を食いしばり、もう心を乱さないと誓った。
足を一歩踏み出す。
感情と言う名の獣がいま、俺を喰った。
千歳くんには分かったんだろう。
何度も首を振り制止させるべく必死に俺の名を呼んでいる。
たがそれは、遠くで響いているだけの雑音に過ぎなかった。
2人の前へと膝を下ろし、密着した身体を力任せに引き剥がす。
その時倒れゆく彼女の赤い唇が見えた。
祐希の嫌いな色。
祐希が苦しんだ色。
祐希をコロシタこいつ……
筋張った両手を爪を立てるように、ヤツの喉元へ向けた。
このまま絞め殺す。
もう理性などは無かった。
首元まであと数センチ……
触れる直前、再び臓器を揉まれるような吐き気が蘇り、その場に胃液が飛び散った。
目が眩む。
動悸は徐々に荒ぶり始め、なんとか意識を保つので精一杯だった。
四つん這いの脚から力が抜けていく。
地面へと倒れ込みながらも、切実な思いを掌に乗せ彼女へと向けていた。
何だ──。
熱中症は治まったはず。
あの時よりも腸の気持ち悪さを感じる。
「律さんて、本当に丈夫なんですね」
何度か聞いたその意味を、やっと理解した。嘲笑うかのようにほくそ笑む彼女もまた人には見えなかった。
……薬。
脳内で弾き出した答えはそれ以外ほかない。
1日に2度の吐き気。
おおかた朝は味噌汁、昼間は宿直室で飲んだ経口補水液にでも混ぜていたんだろう。
せっかく、ここまで来たのに──。
体が重くて動かない。
仰向けになった先で見えたのは、薄暗く変わっていく空と、祐希に似た兄の顔。
「大丈夫か!? 律くん!!」
「……は、い」
すぐ側で聞こえる千歳くんの声に、かろうじて口を動かした。
「円香、何で律くんまで……」
その声は確かな怒りに震えていた。
「昨日の夜、宿直室で眠るあなたのもとへ来たこの人を、野放しにしてはいけない。排除しないと千歳さんが危ない……そう思って」
「排除ってなんだよ。僕も医師を目指した一人だから分かる。命はもっと尊いもので、簡単に扱うなんてあってはならない!」
「……違う、千歳さんの未来のほうがずっと尊い! そのためなら、他の命なんて価値はないの。全部仕方の無いことなの!」
彼女の表情からは悪びれる様子など見て取れなかった。
千歳くんの目から涙が溢れる。
それは静かに地へ落ち染みていった。
「すまない……。律くん……」
その哀しい瞳には後悔の念が覆われている。
「円香、ごめん。僕のせいで君をここまで変えてしまった。嘘も付けないほどに優しかった君をこんなになるまで──」
自分の存在が元凶だったのだと、全てを悟ったような酷く静かな声だった。
カチカチカチ……。
聞き覚えのある音。
必死に目で追うように、それを探した。
あ……
事務所にあったカッターナイフだと分かった時、既に彼自身の首元へと刃は向かっていた。自分の命を絶つことで、全ての連鎖を終わらせようとしているんだと分かった。
「やめて……くださ、い」
「止めて、千歳さん! 誰か!! 誰か来て!!」
蝉の羽音、鈴虫の音が悲痛な叫びに重なる。
くそっ、体が重くて動かない。
祐希のたった一人の兄さんを、ここで死なせる訳にはいかないのに。
残る力を振り絞って上体を起こした時、カッターナイフの先端が千歳くんの皮膚を浅く切り裂くのがやけにゆっくりと見えた。そこから糸が垂れるように赤い血が流れる。
だめだ。それ以上深く切ったら──!
動けと叫ぶ脳と乖離する肉体は、鉛のように重い。それでも無理やり体を引きずり、懸命に手を伸ばした。
「まだある!! 言ってないこと、あるの!! あれは嘘なの!!」
彼女の声に気を取られた隙をついて、俺は無我夢中で千歳くんの腕ごと強く引っ張った。
そのまま勢い良く体は地へと再び倒れ、カッターナイフは遥か先へと飛ばされた。
彼女もその場に崩れ落ち、涙を流しながら安堵の表情浮かべている。
あれは嘘──。
全ての悲劇の始まりとなった
その正体を
俺は知りたくなかった。




