ep.37
円香さんの口元から、周囲の熱気に溶け込むように大きな溜め息が一つ溢れた。
立ち尽くしたままの俺へ冷たい視線が注がれる。
「千歳さんの願いだった"祐希の弔い"をちゃんとしたはずなんだけどな……。あなたと交わることで、千歳さんの心を軽くできると思ったのに」
煩わしいものを見るように細めた目。
最初は彼女が語るその真意が理解できなかった。
「祐希との岡山旅行"なぞなぞ二人旅"は楽しめましたか?」
心臓が大きなうねりを上げる。
背筋には冷たい汗が滲み始めた。
「……は? なんで知って──」
脳がかき混ぜられるように歪む。
12本全て咲いた向日葵の前で、彼女は『律さんなら、この意味が分かりますよね?』と言っていた。
俺がその花言葉を理解しているのを知ってたとしたら──。
それが彼女の手によって、脳に植え付けられていたんだとしたら……。
途端に美観地区の光景、煉瓦を覆う葉、焼け焦げた臭い、剥がれかけた爪から滲む赤……そして、亡き葵のことが脳裏に浮かんだ。
「葵さんのような志願者を探し出すのも大変なんですよ。まぁ彼女はちゃんと私の期待通りに動いてくれましたけど」
用意?
期待通り?
さっきからこいつは何を言ってるんだ──
臓器が内で揺れている。
気持ちが悪い。
彼女の顔からは、何一つ感情が見えない。
きっと俺は怖かったんだ。
何もかもが彼女によって用意されていたという事実を、認めることが。
「円香、一体何の話をしてるんだ。僕が聞きたいのは祐希のことだ」
千歳くんの声が辺り一帯に響き渡った。
「何のって……。弟の願いを叶えてあげるのが、千歳さんのせめてもの償いなんでしょ? 私にそう言っていたじゃない。だからプラン通り、律さんと祐希には"なぞなぞ二人旅"を楽しんでもらいました」
答えを求めるように千歳くんの瞳が俺へと向けられる。
この時気付いた。恐怖や怒り、感情全てが自身を震わせていたことに。
「あんた、自分が何言ってるのか分かってんのか? プランって……葵がどんな気持で」
そう言いかけた時、彼女は憐れむように目を細め、強張った顔をほぐす様に薄ら笑いを浮かべた。
「あなたに彼女の苦しみなんて理解できないでしょ? 祐希のこともろくに知らなかったのに、あなたこそ何を言ってるの?」
自分が正しいのだと、疑うこともなく円香さんは再び穏やかな目で千歳くんを見つめた。
「丁寧に準備してきたんです。あなたがいらないものは排除したし、望むものは用意しました。律さんには少し手間取りましたけど、会社を辞めさせて、葵さんのブログが出るようパソコンに細工もして……。祐希の墓前で運命の再会をしたあなた方の顔は、本当に嬉しそうで私も幸せでした」
俺が偶然見つけたと思っていたあのブログも、岡山への誘導も、全部こいつが画面の向こうから手綱を引いていたのか。
俺同様に千歳くんの顔が青ざめていくのが分かった。
まるで化け物でも見たように、少しずつ息が荒くなっている。
「排除って……意味が分からない。おまえは、円香じゃない」
「私は私ですよ? 千歳さんの為に用意したここも、みんなあなたに捧げたもの。だから、誰一人として逃がしはしない。あなたにはもう失わせたりしないから」
円香さんは千歳くんの手を取ると満足そうに微笑んだ。
「私ちゃんと頑張りました。またあの頃のように、褒めて下さい」
千歳くんの呼吸は更に乱れ、体が僅かに揺れている。俺は咄嗟に駆け出し、その背中を支えた。
「あんた、おかしいよ。全部千歳くんの為って言ってるけど……あんた自身の為だろ」
背中には汗が滲み、濡れたシャツが纏わりつく。俺はどうしても知りたい真実へと手を伸ばした。
「千歳くんの邪魔をした祐希を殺して……排除したのか?」
鋭く睨みを送っていたのは俺だけじゃない。千歳くんもまた"兄"として覚悟を持った眼差しを向けている。
彼女は怪訝そうな表情で愛しい人の手を離した。
「私はいつも手を差し伸べるだけです。ちゃんと用意はしますけど、それをどう受け取るかは本人次第ですから」
「用意って、まさかあの薬……」
千歳くんの声は明らかに動揺していた。
「祐希、飲まずに隠してたんですよ。私がいつも持っていってあげてたのに。ちゃんと飲まなきゃ意味ないので、スムージーにまとめてあげただけです」
千歳くんの足から力が抜けていく。俺の手もまた糸が切れたように垂れ、一緒に地面へと崩れ落ちた。
「あの日……朝一番に僕が祐希の部屋へ入った時、すぐ後に来たのは円香だった。いくら泊まっていたからって、あんなタイミング良く来た事に、僕はなぜ疑問を感じなかったんだろう。何で、早期に出た自殺という検視結果を信じてしまったんだろう──」
頭を手で覆い左右に激しく揺らし始める。後悔の念が再び千歳くんを襲っていた。
自分の中で何かが音を立てて砕け散った。
それは理性という名の、人間としての最後の足掻きだったのかもしれない。
部外者で終わらない。
体中にどす黒い熱気がほとばしる。
千歳くんの身代わりかのように震え始めた手は、真っすぐ彼女の喉元へと食らいついた。
「やっと、探し当てた」
待たせたな、祐希──。




