ep.36
乱れた呼吸のまま『ツナグ』の門を両手でこじ開けるように揺らした。
ガジャン!
ガシャガシャン!!
オートロックで閉ざされた入口は俺を拒否し続ける。
「くそっ」
心臓が刻む音は一向に落ち着く気配を見せない。蒸されたような空気の中、体中に水分が滲み始める。焦りのせいか掌も汗を纏っていた。
嫌な予感がしてならない──。
さっきの千歳くんのうなだれた後ろ姿に、固く握られた震える拳。それに似つかわしくない優しい表情。
それら全てが点と点で繋がるように、俺は一つの終幕を脳裏に浮かべていた。
早くあの人の元へ行かないと。
何度も何度も門を揺らし続けた。
通行人は俺を避けるように引き返していく。中にはスマホ片手に怯えながら走り去る姿もあった。
俺にとってそんな事は、どうでも良かった。ただ、一刻も早くこの閉ざされた檻の中に入りたかった。
「え!? 律さん」
スタッフの石川さんが、ほうきを逆さに持ったまま走ってきた。
「不審者かと思いましたよ〜。忘れ物ですか?」
彼女は安心したように表情を和らげ、オートロックの解錠ボタンを押した。
ガシャンと大きな響きの後、俺は石川さんに一つの頼み事を伝えてから全速力で駆け出した。
『今から危険な事が起こるかも知れない。子供たちを守って欲しい』
俺の言葉の意図を彼女は理解していなかったが、子供たちの為ならと了承してくれた。
息が切れる。
体の内側から酸素を求める悲鳴。
足元は普段の運動不足のせいなのか、やけに重く感じた。
事務所のドアが見える。
半分ほど開いた状態に、俺は焦りから名前を叫んでいた。
「千歳くん!!」
ドアの前へ辿り着くと、足を踏ん張ってなんとか止めた。
体が求める限り何度も酸素を内へと流し込む。
屈めた両膝へ汗ばんだ掌を乗せると、事務所内へと視線を這わせた。
居ない──。
大きく一つ息を吸い込み、次に思い浮かんだあの場所へと、再び足を走らせた。
夕暮れが辺りをオレンジ色に染めている。
蝉の鳴き声は嫌になるほど、そこら中に響き渡る。真夏の情緒溢れるその光景は、今の俺には地獄の入り口のように思えた。
渡り廊下の角を曲がる。
熱気にまみれた空気の中に、ふわりと向日葵の香りが鼻を掠めた。
昼間に見えた圧倒的なその黄色さえ色を変えてしまう夕陽。
その陽に照らされた2つの影が中央に見えた。
「千歳くん!!!」
俺の叫びに短い方の影だけがこちらに顔を向けた。
「律さん。なんでここに」
その驚いた表情は仮面のようだった。
今になってようやく分かった。
円香さんの本当の姿を、俺はまだ見たことがないんだ──。
「私、今から千歳さんと大切なお話があるんです。申し訳ないですけど、用なら後にしてもらえます?」
さらっと流れた髪を耳に掛け、艷やかな赤い唇の角が嬉しそうに上がった。
祐希。
ここでなぞなぞ二人旅を終えよう。
最後の答え合わせだ──。
握り拳へ力任せに食い込んでいく爪。それなのに痛みを感じることもなく、より深く皮膚を突き刺すように脳は指令を送り続ける。
「お前なんだろ?」
低く、震えた声。
俺の喉元から流れたそれは、自分のものとは思えなかった。
「……意味は分からないんですけど、後で聞きますね。今は千歳さんと話をさせて下さい」
その平然とした表情と、千歳くんだけに向ける女の目。溜め息をこぼし、迷惑そうに俺へ視線を送った。
その隣に佇む千歳くんの顔から、優しげな笑みが一瞬で消えたのを俺は見逃さなかった。
再び名を叫ぼうと息を吸い込んだ時、彼の哀しみと怒りが混じった眼光が見えた。
「円香、聞きたいことがある」
彼女はその声に僅かながら微笑んだ。
千歳くんも拳により一層力を込めながら、俺と同じように必死に耐えているのが分かった。
「ずっと引っかかっていたけど君を信じたい一心で目を背け続けた。でも、律くんが祐希の想いを届けてくれたから、もう誤魔化しは無しだ。教えてくれないか?」
その声もまた震えている。
殴り掛かりたいのを精一杯抑え込んでいるように思えた。
彼女は口を少しだけ尖らせ、子供のように拗ねた表情を見せた。
「ねぇ千歳さん……やっと12輪の向日葵が咲いたの」
そう言うと円香さんは1年目に植えた向日葵から順に優しく撫で始めた。
「1本は……あなただけを見つめる」
「3本は、愛しています」
「9本は、いつまでも一緒に」
最後の12輪目に触れた後、満ち足りた表情で彼女は笑った。
「12本。私の恋人になってください」
千歳くんの握られた拳を包むように、彼女の手が被さる。
「やっと、言えた」
長年に渡る思いは夕焼けの向日葵に囲まれながら風と共に流れた。
俺はそれを見て悍ましさのあまり、震えがより強くなるのを感じていた。
色んな思いを踏みにじって発した言葉に反吐が出る。
足が一歩進みかけた時だった。
「ふざけるな!!」
千歳くんは手を振りほどき叫ぶと、狂ったように向日葵を1本ずつ薙ぎ倒し始めた。
「え、やめて。千歳さん!!」
その悲痛な声は耳に届かなかった。千歳くんが兄の姿に戻っていく……俺にはそう思えた。
無惨にもへし折られた12輪は、うなだれるように地へと顔を向けている。
「円香!」
叫ばれた名前に、彼女の肩が跳ね上がった。
「いくら考えてもあの祐希が自殺なんてする訳ないんだ! 何を隠してる!! 答えろ!」
「……え? 千歳さん、どうしちゃったの?」
聖人のような顔しか知らない彼女にとって、愛するその人は何に見えていたのか──。
その偽りの顔は綻び、固まるように動かなかった。
千歳くんは数回肩で息をしたあと、苦しそうに言葉を吐き出した。
「僕は、ずっと後悔してきた。あのとき祐希が自転車さえ倒さなければ。僕がそれに乗らなければ。祐希と君を心から応援できていれば……」
最後の言葉に円香さんの瞳は大きく見開かれた。
「え? 待って。応援って!?」
彼女は千歳くんに詰め寄り、首を横に振りながら呼吸を乱し始めた。
「幼い頃から見てきたから分かる。君の視線はずっと祐希にあったし、あの事故以来そばで支えていたのも知ってる。君が祐希を大事に思っていたのは誰よりも分かってるから。だから……頼むから知っている事を教えてくれ」
彼女の顔から仮面が消えていく。
俯くと同時に髪は下へと流れ、覆い隠れた顔からはどんな表情なのか全く読めない。
「何言ってるの……? 私はずっとあなたしか見てなかったのに。全部あなたのためにしてきただけなのに……」
彼女はどこか息苦しさを覚えるように声を発した。千歳くんはしゃがみ込み、その言葉の意味を考えるように表情を曇らせている。
2人の会話の背景を、剥き出しになっていく真実の意味を……俺は何も知らない。気づいた時には見ているしか出来ない自分が突っ立っていた。
この時の俺は、またしてもただ1人、部外者だったんだと打ちのめされていたんだ──。
「円香、どういう意味……」
「私は今まで千歳さんの為に生きてきたの。勉強の妨げにならないように祐希の面倒をみたし、遊んであげた。でもそれは全部あなたの邪魔をさせないようにする為。なのに……あの事故のせいで全部狂っちゃった。あなたの代わりに外科医の道を歩み出した祐希を見る度に私は……」
彼女の口から言葉が消えた。
ゆっくり顔を上げ、目の前にいる愛しい人を視界全体で捕える。
笑みを浮かべたあと、張り詰めていた糸が切れたように小さく笑い始めた。
夕陽が陰っていく。
空はくすんだオレンジ色。
真実はもう
目の前にあったんだ──。




