ep.34
千歳の言葉は、流れゆく風のように一瞬で耳を過ぎていった。
抱いていた疑念。
欲しかった答え。
祐希の為にここまできた理由。
やっと、たどり着けた──。
なのに、あまりにも容易く出た言葉に、哀しみ以外感じなかった。
千歳の瞳が寂し気に揺れている。
俺は掴んでいた襟元から手を離そうとしたが、それを拒むようにあいつの手が被さり、そのまま首元を囲うように上へと誘われた。
「このまま殺せばいい」
その声はなぜか柔らかく響いた。
目の前の千歳は、ただ安堵感に満ちている……そんな表情をしていた。
「俺は祐希の死を知ったあの日から……ずっと後悔して生きてきた。だから祐希が少しでも救われるなら、今ここでお前を殺してやりたい」
「良かった」
千歳は俺へ向けて優しく微笑んだ。
殺される事が、自身の救いであるかのように。
その姿は鏡越しに映る自分に見えた。
長年にも渡り、後悔の念だけでここまで生きてきた空っぽな人生。
祐希という色が無くなった白黒の世界を、俺たちは屍のようにひたすら歩いてきただけなんだ。
「何で……。理由は、何だったんだよ」
首の脈が手に伝わる。一定のリズムで流れる血液は動揺を見せなかった。
重なり合っていた千歳の手が離れる。首へ触れていた自身の手も、行き場を失ったように力なく垂れ下がった。
「葉山家は特殊でね、外科医以外は医者として認めないような家系なんだ。手術で命を救うなんて、目に見えて分かりやすいからね。父は"神の手"という異名を持つ祖父に、心酔していたから、こんな手の僕には一瞬で興味を示さなくなったよ」
そう言いながらカップを手に取り、再び珈琲を注ぎ込む。
漂う豆の香りを吸い込むと、瞳を閉じて味わっていた。
「母は父の言いなり。跡継ぎを育てる為に必死で、とても従順だったから、祐希を外科医にする為に身を粉にしていた……。数日前まで当たり前にあった両親からの期待や愛情を、僕は一気に無くしたんだ」
口元へ茶色の液体を流し込むと、喉仏が上下へゆるりと動く。
エアコンの冷風が千歳の髪を揺らし、優しく撫でているかに見えた。
「僕は何かしたかな? 祐希のせいで今までの努力も愛も未来も奪われて、残ったのはこの震える手と、兄として支えることだけ……。馬鹿げてるよ」
髪を鷲掴みにし、荒く掻きむしる千歳が少しずつ人間味を帯びていく。
腹の底に溜まった毒を吐き捨てるように。
「おまけに君だ。しつこいくらい祐希の身を案じてはやって来て、母の精神を駆り立てる。あの頃の家は重苦しく殺伐としていたから、うっとおしくて堪らなかったよ」
その瞳にはもう優しい兄は消えていた。
「正直、祐希が僕の怪我で赤恐怖症になったのは良かったよ。僕だけが失うものが多すぎて、割に合わなかったからね。だから赤に苦しむ祐希だけは可哀想だと思えた」
俺は毒のように吐き出すあいつの言葉を、最後まで聞き届けるつもりだった。まだ何かが隠れているような、そんな気がしてならなかった。
「忙しくなった祐希は、今まで通り円香とも遊べなくなって、少しずつ塞いでいったよ。ただ唯一君との約束だけを糧に勉強は決して止めなかったけどね。でも部屋には常に母が居て、周りは赤い物だらけ。毎日えずいてばかりだから食事も吐き出す始末で、みるみる痩せこけていってね……薬に頼らざるを得なかった」
頭に浮かぶ祐希が悲鳴をあげている。
俺なんかが知り得なかった苦しみが幾重にも重なり、腸が切りつけられるように痛みが走った。
「ちょうど円香の父親は心療内科医で臨床薬理にも詳しかったから、父は祐希の為に薬を頼んだんだよ。慎重に踏み込んだ処方だったと聞いてる。飲み始めて数日後には回復の兆しが見えて、円香はしょっちゅう薬を持って来てくれたし、祐希の相手もしてくれてね。笑うことも増えたよ。でも……」
千歳はまっすぐ窓の外へ視線を向けた。飛び立った鳥の羽根が一枚、淋しげに落ちていく。
「小雨の降る朝だった。薄暗くて、祐希の部屋の電気を点けたとき、ベッドの側で倒れてたんだ。後々見つかったのは、ベッド下に大量の捨てられた薬と、いつの日か託された君へ宛てた小包み」
胸の奥を、鋭い痛みが駆け抜けた。
祐希の知らなかった最期。
懸命に守ろうとしてくれた約束。
熱いものが目から流れ落ちた。
同時に腰から力が抜け落ち、両膝が床へと叩きつけられる。
想像もしていなかった……。
あの頃の俺はただ、また一緒に過ごしたい、そんな単純な気持ちだけだった。
それなのに、何度も自宅を訪ねては君の母を刺激し、余計な苦悩を足していたなんて。
「僕が植え付けた"赤"が結果的に祐希を殺した。だから、僕が殺したも同然なんだ」
ゆっくり近づく足音に顔を上げると、千歳は片ひざを立てて憐れむような瞳を向けた。
「君と僕はよく似てる。だから律くんになら殺されていいと思った」
やっと、この日がきてくれた──。
そんな念願叶った顔をしていた。
だが、直接手を下した訳じゃない。
恨みや憤り、妬みが山のように感じられるが、同じくらいに哀しさが滲んでいるように見える。
こいつも俺同様に後悔し続けたから、今がある。そう思えた。
「こんな回りくどい弔いに、君を巻き込んでしまってすまない。……でもこれで悔いはないよ」
千歳は机の引き出しからカッターナイフを取り出した。
カチカチカチ……
音と共に鋭い刃は姿を現し、そのまま俺の掌へと乗せた。
「祐希を守れなくてごめん」
最後の謝罪はあの時の俺と、全く同じだった。
むしろ俺よりも消化しきれない気持ちに溺れている。
だからこそ、祐希の為になぞなぞを配置し、俺を交えて成し遂げられなかった最後の"2人なぞなぞ旅"を叶えたのか。
出っ張った刃を柄に戻し、カッターナイフを引き出しへとしまった。
「……頼む、律くん」
震えた声。祐希の元へ逝かせてくれと脱力した瞳。眉を潜めながら俺を求めているのが分かった。
だが今の俺には内なる狂気など残っていない。見事なまでに消化していた。
「なぞなぞを織り交ぜたって……あの本の中身は全部、千歳くんが書いたってこと?」
敵だったはずが、俺は自然とあの頃のように『くん』を付けて呼んでいた。
きっと何か伝わるものがあったのだろう。千歳くんはどこかやるせなく、諦めに似た笑みをこぼしていた。
祐希が俺へ託したと思っていたメッセージの数々。記したのが誰なのかを確かめずにはいられなかった。
「……なぞなぞ本は、僕が書いたものだよ」
呟くように放った言葉に力はなかった。
「じゃあ、折り紙の本は?」
俺はリュックから取り出すと、サイの折り方が書かれてある100ページ目を広げて見せた。
「所々角が折られてたり、このページにだけは色の指定が書いてある。このメッセージが隠されたサイは指示通り折ったもので……」
千歳くんはそっと本へ触れると、隅々まで大きな瞳で追った。俺はページの角に指をあて、話を続けた。
「このページ数の隣に"◯"が足されて『1000』。折ったのは『サイ』。……千、サイ。これは祐希からのSOS。つまり千歳くんが犯人だと告げるメッセージだと思って」
千歳くんは視線を本に落としたまま、ゆっくりと首を振った。
「……僕は、これには一切書き込んでないよ」
その声は僅かに震えていた。
これは本当に祐希が記したもの――。
俺がそう考えていた隣で、千歳くんの手はいつもに増して震えながら、角の"◯"へと触れた。
横目で見えたその表情から、一気に血の気が引いていく。
それは当たり前の日常の中に潜んでいた"怪異"に怯える、底知れない恐怖そのものの顔だった。
「……円香」
エアコンの駆動音に重なったその小さな囁きは、
誰にも届くことなく、掻き消された。




