ep.33
「君の中にいた祐希は、変わらず笑ってるかな?」
コトン、と置かれたマグカップの音は俺に向けられた死刑判決のようだった。
添えられた震える手……
今まで見えていたその後遺症が、全くの別物に塗り替わる。
それは俺の中に忍び込むように手脚へと震えを伝え、肺は呼吸を拒み始めた。酸素を入れようとするが、膨らむ前に口から抜けていく。
目の前で並ぶ信じがたい文字。目を逸らせば逃れられたかも知れないのに、俺は最後まで文字を追い続けずにはいられなかった。
【事故概要】
当事者(葉山千歳)が自転車で下り坂を走行中、ブレーキワイヤーの断裂により制動不能となり転倒。左上肢機能障害(後遺症)を負う。
【原因に関する調査結果】
事故直前、自宅敷地内にて葉山祐希(当時7歳)が当該自転車を転倒させていた事実が判明。その際、花壇の鉄柵の鋭利な突起との接触により、ブレーキワイヤーが断裂寸前まで著しく摩耗、あるいは、素線切れを発生していたものと推認される。
【添付資料】
・鶴原円香(当時10歳)による、葉山祐希の関与に関する証言記録
机にもたれかかった千歳は、胸の奥に溜まった苦みを吐き捨てるように息を漏らした。
「そこに書いてあるのは全て事実だよ。僕の交通事故の原因は、祐希なんだ」
届いた声と、画面上に映し出された文字の羅列が脳内に蠢き始めた。
かき混ぜられていく記憶に、ずっと変わることの無かった祐希の笑顔がぼやけていく。
向日葵のようだった笑みは、ただのモノクロの種へと塗り替わり始めた。
両手で頭蓋を掴んで、残る思い出を必死に捕まえる。
まだだ──。
祐希の全てを知った訳じゃない。
俺の中の、あの頃の祐希は確実に居た。
共に過ごした日々の情景を、余すことなく脳裏に浮かべた。
「それは記録として残る事実なだけ。君と祐希の友情には何も関係ないよ」
千歳は震えを閉じ込めるように掌でその手を包むと、俺へ向けて優しく微笑んだ。
そんな目で見るな。
僕は全て受け入れて、弟の為に今なお懸命に生きている。
君とは最初から違うんだ──。
あいつの内から声が聞こえた気がした。
「あの日は母の誕生日でね、ちょうど円香も遊びにきていて、みんなで食事を共にする予定だったんだ。だから、僕はプレゼントを買いに急いで自転車を走らせた。……なのに、門を出たすぐの下り坂で、ブレーキが壊れていることに気づいたんだ。死に物狂いで握ったけど、駄目だった」
千歳は自嘲気味に笑ったあと、再現するかのように強く手を握りしめた。静まり返った事務所内にエアコンの低い駆動音だけが、やけに大きく聞こえる。
「あの日、祐希が庭で僕の自転車を倒したんだってね。鉄柵の角にぶつかって、ワイヤーが千切れかけていたらしい。……事故のあとで知ったよ」
その顔からは怒りなど微塵も感じなかった。落胆したような、どこか諦めた表情。被害者としてではなく、兄としてのやるせなさが見えた。
「ひと言、言ってくれれば良かったんだ。責めたりなんてしなかったのに。そしたら僕は自転車には乗らなかったし……祐希だって、あんな風に『赤』を見るたび、僕の血を思い出して怯えなくて済んだのに」
千歳の言葉が脳内を這いずり回る。
祐希が頑なに赤を拒んでいた理由。あの異常なまでの恐怖の正体。すべては、兄の身体に一生の傷を負わせたという、引き裂かれそうな罪悪感の裏返しだった――。
「でもね、祐希は僕の奪われた未来を、自分を犠牲にしてまで代わろうと頑張ってくれた。本当に、健気で優しい弟だったよ」
千歳の顔が僅かに綻んでいる。
俺が命を懸けて守ろうとした祐希は、ただの加害者に成り下がった。
笑顔が、浮かばない。
楽しげな声も、姿さえも。
全てが幻想だったのかと思えるほど。
目の前に置かれたカップから珈琲の香りが鼻を突いた。
肩に千歳の手が触れ、数回トントンと落ち着けるようにリズムを刻む。
手足の力が抜けていく──
腕は重力に沿うように垂れ下がり、頭も地面へと引かれるようにうなだれた。
祐希……。
どうしたらいい。
揺らぐことのなかった芯が、脆く崩れそうになっていく。
千歳の手は肩を離れ、赤子に触れるように繊細に俺の頭を撫でた。
外は陽炎が支配する熱で覆われ、蝉はまた一匹、その目的を終えるように最後の叫びを残して逝った。
「ごめんね。君を苦しめたくて言った訳じゃないんだ」
その憐れみに満ちた手は、少しずつ冷たさを帯びていく気がした。
垂れ下がった俺の指先が揺れ、床に置いたリュックに当たる。
導かれるように、その隙間からのぞく折り紙のサイの角に、そっと指先が触れた。
――祐希の遺品。
その刺すような固い感触が、死にかけた俺の心臓に、どす黒い血液を強制的に送り込んできた。
――まだ、終わらせてたまるか。
「……だったら、これは何なんだよ」
最後の命綱を毟り取るように、俺はリュックから"サイ"を引っ張り出し千歳へと突き付けた。
「あんたが遺品だと言って渡した折り紙だ。これには祐希からのメッセージが残ってた」
あのとき、何もできなかった償いをするためだけに、ここまで来た。
何があろうと、これだけはやり遂げる。
そう胸の内で言い聞かせた途端、心臓が一気に暴れだし、全身が鼓動にあおられるように震えた。
「……メッセージ?」
「水で濡らすと、浮かび上がってくる」
サイに触れようと手を伸ばしたが千歳は寸前でやめた。
「何て、書いてあった?」
そう口にしたあいつの目は、いつかの俺に似ていた気がした。
「……ころされる」
伏せがちだった聖人の瞳が、大きく見開かれた。
その動揺を含んだ表情を、俺は見逃さなかった。
咄嗟に襟元を両手でつかみ、顔がぶつかりそうな距離まで引き寄せる。
「おまえなんだろ」
怒りのせいか、俺の両手はつかんだ襟元を強く揺さぶっていた。
歯を食いしばる音が、頭の中に響く。
殴りかかりたい衝動を、俺は必死に押しとどめた。
――すべてを、知るまでは。
「祐希のなぞなぞ本にもメッセージがあった。おまえが、殺したんだろ……答えろ」
静まり返った事務所の空気が、痛いほど胸を締めつける。
親友の兄は、ずっと待ちわびていたような笑みを浮かべて、俺を見つめていた。
その瞳には、安堵にも似た光が宿っている。
初めて、聖人の仮面が砕けた。
首を縦に落としたあと、その哀しい声が耳の奥へと染み込んでくる。
それは、俺がずっと求めていた
たった一つの答えだった。
「――僕が、殺した」




