ep.32
人肌ほどの温度を持つ空気が、窓から流れ込む。そのたびにカーテンが重たげに揺れた。
つい先ほどまで鼻を突いていた漂白剤の匂いは、いつの間にか遠のいている。
目の前で消えた赤。
円香さんの笑う唇の色だけが、今は残像の様に残っていた。
リュックを掴み事務所へ歩き出すと、背後からさくらの声が俺を呼んだ。
「律くん! あのなぞなぞ本ってある?」
「あー、うん。このリュックに入れっぱだから」
そう答えながら、俺は肩にかけたリュックへ触れた。
「今日お休みだから残りの問題も解きたくて。貸して……くれる?」
少し不安げな表情。元気なさくらにしては弱々しい声だ。また自我を押し殺して我慢する癖が出ていた。
「いいよ。でも、大切な本だから"丁寧にね"」
思わず口から出たのは祐希の口癖だった。
『律、丁寧にね』と、よく言われていたのを思い出す。
「うん!」
本を渡すとさくらは嬉しそうに抱きかかえ部屋へと戻っていった。
俺の中には祐希が居る。
揺れ動く御守りへ向けて笑った。
知らないことも確かにある。
でも、俺にしか知り得ない祐希だって居るんだ。
まるで不安を上書きするように、傲慢さで覆い隠した。
そうしなければいつか、俺は祐希から部外者だと宣告されそうで怖かったんだ。
渡り廊下の空気は、吸い込むだけで息苦しい。
蝉の鳴き声が幾重にも降り注ぎ、耳の奥までじんじんとうるさく響いた。
焼けたアスファルトの上では、景色そのものが熱で揺らいでいる。
この暑さじゃ、熱中症になってもおかしくはない。
苦笑いを浮かべると、さっき倒れたあたりに咲いていた向日葵を思い出した。
満開となった向日葵に、円香さんの笑顔。
12本……
「律さんには、この意味が分かりますよね?」
おかしい──。
足が地面に縫いつけられたみたいに止まった。
彼女は、まるで全部知っているみたいな顔をしていた。けれど俺は、花の話なんて一度もしていない。
なのに、どうしてあんなことを……。
汗が目にしみて、思わず瞼を閉じる。暗闇の向こう側で、考えれば考えるほど答えはどこにも見つからなかった。
事務所のドアを叩くと、聖人の優しい声が返ってきた。
俺の額から流れる汗を見た千歳は、微笑みながらタオルを差し出した。その瞬間、さっきの話が頭に浮かぶ。
「律くんは代謝が良いんだろうね」
「いや、汗っかきなだけです」
タオルから漂う柔軟剤の香りと、あいつの匂い。混じり合うように鼻を掠めると、汗を拭う手が自然と止まった。
机の隅にタオルを無造作に放り投げ、先ほど使ったパソコン前へと腰を下ろす。隣には数冊のファイルが積まれていた。
「付箋を貼ってるページだけ、入力を頼みたいんだ」
千歳は隣の席に座り、一番上のファイルを開くと端的に説明を始めた。
暫くキーボードを弾く音と、捲られる紙の音だけが流れた。
俺の隣で見張るかのように、千歳は書類の整理を続けている。
1時間ほどで作業を終えると、隣から細い手がマウスへと伸びた。
「助かったよ、ありがとう」
タブを閉じた先で、再びデスクトップの隅に現れた黄色いフォルダの『㋕』。
すぐ隣に千歳が居るのに、俺は目を逸らせずにいた。
「気になる?」
楽しげ表情を浮かべながら、聖人は俺の顔色を伺うようだった。
「僕以外にこのフォルダを開けられるとしたら、律くんだけだよ。祐希との友情の証を覚えているなら分かるはず」
きっとここには重要な何かが隠されている。
それなのに開けてごらんと物語るその瞳が、理解できずにいた。わざとヒントを与える趣旨も読めない。
でも……絶好のチャンスであるのは確かだ。
俺は祐希との思い出を辿り始めた。
初めて交わした言葉。
2人で解き続けたなぞなぞ。
丁寧に折った鶴。
図鑑で覚えた秘密の暗号の記し方。
向日葵のような明るい笑顔。
祐希が苦手なかけっこ競争に、給食の牛乳はや飲み勝負。
最後に行った遠足でのおやつ交換。
その時は確か、動物園へ行ったあと近くの公園に移動し、弁当を食べたんだ──。
食後、遊具で遊んでいたら岡山で遭ったゲリラ雷雨のように、突然現れた暗雲が大雨を降らせた。先生の指示で近くの管理事務所へ避難したが、苦手な雷も鳴り始め、俺はいつものように怖さで呼吸が乱れていた。その場にしゃがみ込み耳を塞いで身体を震わせながら、固く目を閉じて凌ぐしか出来なかった。祐希は俺の異変を察知し、耳へ被せた俺の手へ重ねるように、温かな掌で覆ってくれた。その温もりと安心感は今でも覚えている。
周りのクラスメイトはそんな俺たちを見て冷やかすやつも居た。
祐希に迷惑をかけたくない……。その思いが口から溢れ『ごめん』と呟いた。その手を払おうとしたが、祐希は首を振って珍しく大声を上げた。
「誰でも苦手なものくらいあるだろ!」
シンと静まり返った空気が流れ、温厚な祐希から放たれた言葉に、周りはみんな驚いていた。
「無理しなくて、大丈夫だから」
俺に向けてくれたその優しさに、何度も救われた。
思い出を巡らせながら浮かぶキーワードをひたすら打ち込む。その度に開かない鍵。溜め息交じりの息を吐いたが、おかしなくらいに楽しかった。また、祐希と一緒になぞなぞを解き明かしているようで。
そんな俺を千歳はずっと隣で見ていた。その表情は楽しげで、どこか切ない目をしていたが、俺はそれに気づくことは無かった。
「……ん」
「……くん?」
「律くん?」
無我夢中だったのか、数回目にしてやっと俺の耳にその声が届いた。
「さっきの壁のシミなんだけど、取れたかな?」
「えっと、円香さんの処置で、綺麗に元の白い壁へ戻りましたよ」
「それなら良かった……でも、いくら揉み消してもそこにあった事実は変わらないんだけどね」
その囁きは、かろうじて聞こえる声量だった。
「どうしてあの時、教えてくれなかったんだろう」
意味深な発言に、手が止まる。
あいつの横顔はやけに暗く見えた。
「……何を、ですか?」
予定通りの反応だったんだろう。
千歳はふっと切なげに笑うと、首を左右に数回振ってからゆっくり立ち上がり、資料の束を手に棚へと向かった。
何をだ。
教えてくれなかったって……
誰のことを言ってる!?
あいつの言葉が一気に脳を支配する。
気になって仕方がない。
でも、ここを解錠できればそれにさえも辿り着けるような気がした。
俺はパスワード解除へ向けて速度を上げ入力を繰り返す。
何度も弾くその壁にラリーを送り続けた。
背もたれに身を預けた途端、椅子の軋む音が静かな事務所に広がる。
天井を見上げ、軽く伸びをした。
壁に掛けられた時計は、あれから静かに一時間を進めていた。
どうして解けない──
少しずつ焦りが出てきた。
コトン、と重みのあるカップの音が机から聞こえ、同時に珈琲の香りが鼻を抜けた。
「少し休憩しようか?」
「……どうも」
俺は軽く頭を下げて茶色い液体を口に流した。
岡山の喫茶店でマスターが出してくれたあの一杯と重なる。
珈琲、岡山──
祐希との友情の証。
苦みが喉から胃袋へと垂れた時、ある文字が浮かんだ。
勢いよく置いたカップから数滴の茶色が飛び出す。手に降り掛かった事すら分からない程に、俺の脳みそは明らかな感触を得ていた。
一文字打つ毎に祐希との思い出のパズルがハマっていく。
何故これが浮かばなかった!?
自問自答を繰り返しながらも、口元は歪に吊り上がり、剥き出しになった歯が覗いていた。
俺は今この挑戦状のような、なぞなぞを楽しんでいる。その狂った自覚が、さらに指を加速させた。
最後の「i」を打ち込み、Enterキーを押した。
青白い液晶の光が俺を包み込む。
画面には冷徹な文字が並べられていた。
背後では、珈琲を啜る音が響く。
ケトルの側で珈琲豆の袋が小さな音を立てて倒れた。『センブリの花』が記されたその袋に、俺は気づくことなんてできなかったんだ。
「……美味いね、この豆」
千歳は苦みを丸ごと飲みつくそうとカップを上へと傾けた。
俺は文字を追うので精一杯だった。
一番大切にしていた「友情の証」
文字が揺らめく。
瞳に溜まった水分のせいで上手く読めない。
瞬いた瞬間、こぼれ落ちた涙の理由が――そこに露呈されていた。
『葉山千歳君 交通事故に関する調査報告書』
『作成:大森法律事務所』
無機質な文字列は、一つずつ正確に俺を殴りつけるようだった。
『nazonazofutaritabi』
俺と祐希が交わした、たった一つの約束。
その唯一の鍵で開いた先にあったのは――
俺が知りたくなかった真実。
祐希が隠し続けていた罪だった。




