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向日葵の檻ー死にたい俺が君を探し当てるまでー  作者: みい


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31/42

ep.31

 固く握られた拳から覗く赤。

 肘を伝い床に落ちていく点と、その僅かな音で我に返った。


「血が……!!」


 俺は急いでその腕を掴み患部へティッシュを押し当てた。徐々に滲んでいく血液。手当てをしながら視線を這わせると、殴りつけた白い壁には、消えぬ残穢が確かな色となって残されていた。


「ごめんね……ありがとう。悪いけどその机の引き出しに、救急箱が入ってるから取ってもらっていいかな?」


 千歳は俺の手に触れた後、自らティッシュで傷口を押さえ微笑んだ。俺は言われるがまま引き出しから救急箱を取り出す。傍らへと持っていき、中から取り出した消毒液を手渡した。


 千歳は軽く溜め息をこぼしながらも、慣れたように手早く処置を施していく。まるで幾度も経験があるような違和感を覚えた。


「律くん、すまないけど壁の血を拭き取ってくれないかな?時間が経つと茶色いシミになるから」


「あ、はい」


 急いで洗面所へ駆け出し、目に留まったタオルをもぎ取ると水を十分に含ませていく。軽く絞り終えるとすぐさま宿直室へと走った。


 一箇所だけ赤く染まった白いクロスが、否応なしに目に飛び込む。軽く擦っても、中へと侵食を始めたそれは凹凸にこびり付いて消せなかった。自らの証を残そうと、うっすら影を落とすその様は、まるで消えない呪いのように思えた。


「床は綺麗に取れたけど、染み込んだ血は強いね。後で漂白剤で落としてみるよ」


 千歳のその言葉に御守りが脳裏に浮かんだ。

 あの茶色いシミは祐希の強さの証──。

 自分を忘れないでくれと、俺へ遺した一種の呪い。


 だとしたら……

 忘れるわけ、ない。

 そんな呪いなら、喜んで引き受けてやる。

 君がくれたあの日々の、確かな幸せと共に。



「あ、しまったな……まだ入力作業が残ってたんだ」


 わざとらしく難しい表情で、俺へと目線を向けた。

 この痛む手では出来ないとでも言いたげに。


「体調もだいぶ戻ったので手伝いますよ」


「ごめんね、強要したみたいで」


 柔らかな笑みを溢す。

 そしていつもの聖人の顔へと戻った。


「せっかくゼリーとか持ってきて貰ったので、食べてからでもいいですか?」


「もちろん。ゆっくり食べて」


 千歳は救急箱を戻すと、引き出しを優しく押し戻した。コトン……と小さな音を立てて閉まった振動は、机の上のリュックへと伝わり、付けていた御守りを揺らす。その規則的な揺れは、まるで祐希が兄へ語りかけているかのようだった。


「この御守りのシミ……血、だよね」


 そう言って大切そうに触れた千歳の指先を見つめながら、俺はまたあの日の光景を思い返していた。


「もしかしてこれ、あの雨の日に律くんが残していった物?」


「え? ……そう、ですけど」


 納得したように千歳の鼻から息が漏れ、口角は僅かに上がっていた。


「あの時、祐希がずぶ濡れで玄関へ入ってきたから、タオルを渡したんだけどね。自分の体を拭きもせず、その御守りを必死に包んでいたから」


 心臓が縮こまったように締め付けられた。

 何か言おうにも、言葉が出ない。

 喉の奥に何かが張り付いているみたいだ。


「これだけは覚えておいて。結果的にそれは律くんの元に返ったけど、祐希は本当に大切にしていたんだよ」


 千歳は部屋を出る前に、笑みを向けた。

 重なるように、笑顔が浮かんだ──。

 向日葵のように明るい、祐希の笑み。


 俺の口元が、少しだけ緩んだ。

 遠ざかる足音を鳴らす、憎むべき敵と同じように……。





 また窓の外から、煩わしい蝉の叫びが響き始めた。

 全てを胃から吐き出したからなのか、あいつが持ってきた物を食べ終えても、腹は満たされなかった。頭痛はいつの間にか引いている。体もふらつくことなく、違和感なしに動いた。


 俺は白い壁に手を当て、不気味に残る"赤"へ迫るように顔を近づけた。

 祐希へトラウマを与えた、あいつの血液。

 すでに茶褐色へと変貌を遂げたそれは、鼻の奥を突くような、重苦しい鉛の香りを伴っていた。

 一体、祐希はこの赤に、どんな思いを抱いていたんだ――

 親友……だった。

 なのに何も知らない自分が、ひどく疎ましかった。



 ジッ、ジジッ、ジー……

 命の終わりへと向かう蝉が、最後の足掻きをみせる。

 羽を擦り合わせた音は虚しく消えた。




 コンコン!


 ノック音の後、ドアが開かれた。

 鮮やかな赤い唇がまた視界に入る。


「千歳さんから聞いて、壁のシミを取りに来ました」


「あぁ……ここです」


 血の跡と隣り合わせな俺へ、円香さんは微笑んだ。


「律さんは丈夫ですね。血を見るのも問題なさそう」


 彼女は迷いのない足取りで白い壁へ近づくと、茶褐色に変貌した"赤"を見つめた。それすらも愛しく見つめる視線に、背筋が冷気を帯びたように感じた。


 スプレーボトルから、無色透明の液体が血痕へと吹き付けられる。

 シュッ、という鋭い音が響いた直後、泡を立てて赤黒い液体へと戻っていった。鼻を突く塩素の匂いが、重苦しい血の香りを根こそぎ剥ぎ取っていく。


「擦るのはダメなんです。凹凸に入り込んで、消えなくなりますから」


 鼻歌でも聞こえてきそうなほど幸せそうに、彼女は白い布を壁に押し当てた。規則的に壁を叩く音が部屋に響く。

 その度に布の白は赤に染まり、壁からは祐希のトラウマの証明が吸い上げられていった。


「祐希くんだったら、これを見るだけで過呼吸を起こすでしょうね。それだけ赤は彼にとって苦痛でしかないんですよ」


 映像が浮かぶようだった。

 祐希と同調するかのように俺の中が痛み始める。


「赤が苦手なのは"血液"に尋常ではないストレスを感じるから」


 再度スプレーボトルを吹き掛け泡立ち始めると、まだ汚れのない白い布地部分で叩き始めた。


「彼が色恐怖症を発症したのは、千歳さんの交通事故の後……」


 言い終えると同時に彼女が手を離した場所には、ただ白く周りと同化した壁紙が広がっていた。

 まるで最初から何も存在していなかったかのように。


 だが、俺には違和感でしか無かった。事故を見て恐怖心を抱くのは分かるが色恐怖症として現れるものなのだろうか……。聞くからに症状としてもきっと重い方だ。そんな強烈なトラウマとして根付くには、もっと他に何か──。




 この時の俺は



 本当に浅はかだった。



 歯車がゆっくり軋み始める。



 たった一つの事実……




 君が犯した罪。




 一番の親友だと思っていたのは



 俺だけだった。



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― 新着の感想 ―
えっ! 最後の言葉が…!? めちゃくちゃ気になります〜!!
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