ep.30
休日に相応しい子供たちのはしゃぐ声が、静まり返る事務所に明るさを添えていた。
業務報告の入力を済ませ、凝った首を軽く回しタブを閉じた。同時に隅に現れた不自然な一点へ視線が固まる。デスクトップに並ぶ黄色いフォルダ。その中に1つだけ、チャックのついたZIP形式のものが潜むように置かれていた。
これだけパスワード付き……?
それにフォルダ名が『㋕』って、何なんだ?
マウスを動かし、カーソルを合わす。
だがクリックする寸前で指を静止した。
──待て。
俺が今日このパソコンを使うのをあいつは知っていた。だとしたら、わざと……?
背後に座る千歳はキーボードを叩き、デスクで作業をしている。
罠だと知った上でこれを開くか……。
マウスを握る手に力が籠る。
口内に溜まった唾を飲み込み、腹の奥に緊張を押し戻した。
「もしもし、葉山です。お世話になっております。日程調節の件で少し相談したいことがありまして」
電話……
かけるタイミングが、あまりに不自然だ。見てみろと言わんばかりの圧を感じる。ここはあえて何も気付かなったフリをすべきか?
迷いながらも俺は席を立ち、振り返る事なく事務所を後にした。
廊下を歩きながら自分の判断に疑問を投げかける。
あれで良かったんだろうか……
やはり見ておく必要があったのでは?
髪を掻きむしりながら、どうにもできない苛立ちと対峙する。
こんな俺に、心理戦などできるのか!?
違う。やるんだ……しっかりしろ!
もう答えはあそこにある。
やっと祐希に顔向けできるんだぞ。
自身を鼓舞するよう拳で一度、太腿を殴った。
「わぁー! 全部咲いたー」
「早く円ちゃんに知らせてあげよー」
倉庫の方から楽しげな声が聞こえ、ゆっくり足を進めた。
角を曲がり見えた先で、圧倒的な黄色が俺を迎える。
12輪の向日葵は太陽に照らされ輝きを増す。その周りには子供たちの笑顔が溢れていた。
廊下を走る足音が2つ、重なるように聞こえる。さくらに手を引かれながら円香さんは笑っていた。やがて音は止まり、彼女は大きなその瞳で焼き付けるよう見続けていた。
「やっと……」
その呟きは近くに居た俺の耳に届いた。12輪が咲き揃うことで意味を成す。それを知る者だけが溢す言葉。
だが、彼女は知っているんだろうか?
愛する相手が犯した罪を。
「律さんには、この意味が分かりますよね?」
鮮やかな赤に塗られた唇が動く。
「え、はい……」
柔らかな微笑みは一歩こちらへ近づく度に剥がれていった。
「私が望むものは、たった一つだけ」
笑みは完全に消え失せているのに、目だけは笑っているように思えた。
唇が真横に広がり赤は直線のように伸びる。彼女は細い指でそれをなぞるようにして続けた。
「あの頃の祐希くんは毎日辛そうでした。千歳さんの代わりとして外科医を目指したのに、血を見ることができないなんて」
知らない祐希の一面が、突如その口から放たれる。何故か腹の奥底で渦巻くようなものを感じた。
「ご両親は免疫を付けようと、祐希くんの部屋にたくさんの赤いものを置くようになりました」
腸が捻れるように痛み出す。
乱れ始めた呼吸へ被せるように心拍がうねりを上げる。
やめろ……。
もう何も言うな。
やめてくれ──!
「慣れるはずなんて、ないのに」
オエッ!!ゲホッゲホ!!!
胃に溜まっていた全てが一気に溢れ出る。祐希の悲痛な叫びが聞こえた気がした。
意識が朦朧とし始め、俺の視界は真っ黒に変わった。
覚えているのは、赤い唇から見えた白い歯と子供たちの悲鳴。そして肩へと触れた腕の温度だけだった。
気が付いた頃には太陽が天高く昇っていた。あれから3時間ほど眠っていたようだ。ベッドからは宿直室の天井がぼんやりと見える。ゆっくり上体を起こすと、額に張り付いていた冷却シートが滑り落ちた。頭痛が響き脳内を切るような痛みに、思わず片目を閉じた。
枕元には経口補水液のペットボトルが置かれてある。今更ながら熱中症だったのだと気づいた。
まるで飢えている獣のように鼻息荒く一気に飲み干す。食道から胃へとただ流れるそれに執拗な生への執着を感じた。
いま倒れる訳にはいかない──。
徐々に酸素が巡った海馬が、先程の記憶を辿り始める。
名前のないフォルダに、12輪の向日葵。そして、祐希の嫌った赤。
直接的な繋がりは見えない。だが、どうしても無関係とも思えなかった。
コンコンコン!
3回のノック音。
一度聞いたそのリズムにあいつの顔しか浮かばなかった。
「はい」
「千歳だけど、入るよ?」
どうせモニターで終始見ていたんだろう。心配そうな顔がやけに嘘臭く見えた。
「色々持ってきたんたけど、食欲はある?」
トレーには経口補水液、お粥、一口サイズのゼリー、すり下ろしたリンゴ、プリンが乗せてあった。
「ここに置いておくから、食べられそうなら食べて。今はゆっくり休んで無理はしなくていいからね」
「……はい」
俯きながら、なるべく視線を合わせないよう返答した。
こいつは俺が怪しんでいることも把握済み。そして俺を、都合良く何とでもできる。
捕らわれた子供たちの気持がほんの少し理解できた気がした。
だが今は都合がいい。部屋には俺とあいつの二人だけ。やはり情報を得たい。
一先ず、先程抱いた疑問からだ。
覚悟を決め千歳の涼やかな目に、隠し持った刃を潜めるような眼差しで顔を向けた。
「さっき円香さんから、祐希が赤色を嫌ってたと聞きました。俺は知らなかったんですけど、確か貰った折り紙にも赤だけは無くて。どうしてなんですか?」
ギィィィ……
千歳がベッドの脇へ座ると、なぜかその軋む音が悲しく聞こえた。
「"色恐怖症"って聞いたことあるかな?」
「いいえ……」
「"高所恐怖症"や"先端恐怖症"のように不安障害の一種でね。祐希は数ある色の中で『赤』にだけ恐怖を持つようになってしまったんだ」
目の前にいる聖人には、いつもの仮面が見当たら無かった。むしろ瞳を閉じ、心を落ち着かせようとする仕草が、妙に人間ぽく見える。伏せがちな目で静かにそのまま言葉を吐き続けた。
「脳がトラウマとして『赤=危険』と過剰なまでに防衛反応を起こしているんだ。そのきっかけを作ったのが……僕なんだよ」
そう言って立ち上がると自身の震える手を固く握り締め、憎むように壁へと振りかざした。
部屋の中に鈍い音が一つ弾けた。
切れる息の荒さと、揺れる背中。
俺は、知っている。
自分なんて壊れてもいい。
後悔の念でしか生きていなかったあの時の……
昔の自分と、重なった。




