ep.29
リュックから御守りを外し両手で優しく包んだ。
そこに宿る執念のような鮮血の赤は、年月によって色を変えている。そしてその固まった一部は、死んだ祐希の肉体のようにも思えた。
「もう少しだから」
君が本当に解いて欲しかったなぞなぞの答え。手を伸ばせば届きそうな程、近くにある。
窓を開け、見上げた黒い空へ長く息を吐く。
流れたそれは確かにあったのに、無色透明で存在すら見えやしない。
空で輝く小さな無数の星は、見えているのにもう居ない。かつて存在した己を誇示すべく光として残っているだけ。
その中でひときわ明るく見えた星に、たった一人の親友を重ねた。
そこで見ててくれ、祐希――
テレビの音だけが鼓膜を通過しては消えていく。生温い風が流れ、また虫の音が小さく聞こえる。
嫌なほどの風情に、心は落ち着きを取り戻す。頭の中を整理するにはちょうど良かった。
遺された暗号"ころされる"。
本に記されたキーワードの『◯』は"危険"を意味し、同様に『✕』は"名前"を導く為に記されていた。
そして"1000"と"サイ"が示す決定的な『千歳』の二文字。
御守りを手にしたまま、俺はあいつが眠りについている宿直室へと向かった。
渡り廊下の電球が今にも絶えそうな程に点滅を繰り返す。その周りには小さな虫がたかるように集まっていた。
今度はお前の番だ。
胸の奥に忍ばせた狂気が、今にも檻を突き破りそうに口元を震わす。
一歩近づく度に、眼が熱を帯びていくのが分かった。
血走る瞳が捉えた先には一つのドアが見える。部屋からは、わずかな空気清浄機の音。規則正しい呼吸音までも聞こえた気がした。
ドアノブに手をかける。
あと数センチ回せば、あいつの喉元が見える。
そう思えたが、そこで手を止めた。
今すぐにでも殺してやりたい。
だが同時に、どうしても真相が知りたかった。祐希を殺害するに至った動機が。
御守りの"硬いシミ"をなぞりながら、ドア越しに千歳の死をイメージした。
殺意と覚悟を込めて睨みを送る。
その後ろには闇に溶け込み、無機質にこちらを眺める一つの視線。
俺の背中を捕えながら、口元の赤は引き上がるように動いていた。
そんな事に微塵も気付くことなく、そっとその場を後にした。
宿直室へ戻ると心臓の鼓動はやけに早く刻んでいた。冷静でいられなかった証拠だ。落ち着けるよう再度テレビをつけた。
……?
確か付けっぱなしだったような。
あいつの所へ向かう前だったから、平然を装っていても、どこかで動揺していたのかも知れないな。テレビを消したことすら覚えていないなんて。
口から大きな溜め息が落ちた。
窓を閉めエアコンの電源を押すと、涼やかな風が小さな部屋を冷やし始める。
ふいに置きっぱなしの職員用スマホを手に取った。
スリープ状態のはずなのに、裏側がほんのり温かい。バックグラウンドで何かが休む間もなく動き続けている証拠だ。位置情報か、あるいは……盗聴。
これはただの連絡用じゃない。
俺を監視する為の電子的な鎖。
あいつの視線が、電波に乗ってこの部屋を這い回っているような錯覚に陥る。
御守りを再びリュックに付け直し、テレビを消してからわざと呟いた。
「もう分かってる。お前だけは許さない」
部屋の灯りを暗くしてベッドへ横たわった。
明日からが勝負だ。
どう動くべきなのかを考えながら眠りについた。廊下の軋む音が遠のいたのは、それから数分経った後だった。
「ミーンミーン」
早朝からうっとおしい蝉の音に否応なしに目が覚めた。
まだ6時前……。
ちょうど宿直室の真横にある木に蝉の姿が見える。
これだから夏は嫌いだ。
とりあえず顔でも洗うかと部屋を出た。
湿り気と生温さが一気に身体中に絡みつく。洗面所の水も人肌程度の温度を持っていた。
夏へと変わった空気がやけに重く感じる。
宿直室へ戻り着替えを済ませると、廊下から足音が聞こえた。
起床時間は7時だ。起きるには30分以上も早い。
まぁ俺同様に誰かが早く目覚めたんだろう。
そう思いながらドアを開けると目の前にスタッフの石川さんが一人立っていた。
「うわぁ!」
思わず大声を上げ仰け反った。
「ご、ごめんなさい。朝ごはんの支度始めるので呼びに来たんです」
「あ……」
心臓は驚きを隠すことなく鼓動を激しく叩く。
こんな張りつめた緊張感の中で過ごしてるんだ……無理もない。
部屋に鍵をかけて俺は食堂へと向かった。
炊き上がった白飯の香りと、麦茶の香ばしさが部屋を満たす。
そんな匂いに少しほっとした。
手渡されたエプロンと、ビニール手袋を着けおにぎりを作り始めた。
炊きたてなだけあって相当熱い。
ただでさえ料理しない俺が握ったものは、だいぶいびつだった。
不恰好な三角にもならない塩むすび。
こんな事もまともに出来ないのかと恥ずかしささえ感じた。
「私も最初はそんなでしたよ。慣れれば上手く握れるようになりますから」
石川さんはそう言ったが、慣れた手つきで鮮やかな黄色い卵焼きを完成させていた。
そのまま手際よく隣の鍋で味噌を溶き、味見をすると嬉しそうに頷いた。
「私の親、典型的なネグレクトで。そのせいもあって食事だけはちゃんとしたいんです」
子供たちもそうだが、ここのスタッフもそれぞれ過去に辛い経験をしている。だが、それをバネに懸命に前へ進もうとしているのが伝わってきた。
「過去は変えられないけど、未来は思うがまま。何にだってなれるんです」
石川さんは両手を握り締め興奮気味に言うと、途端に恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「あ! もうこんな時間。私、子供たち起こしてきます」
立派な芯のある人に見えた。
俺とは性質の違う強さ。
「未来は思うがまま……か」
彼女には悪いが、俺の進むべきこの先がそうであることを願った。
子供たちの元気な声と、騒がしい足音が遠くで聞こえる。
だが食堂へと真っ先に駆けつけたのは笑顔の円香さんだった。
「律さん、おはようございます」
「あ、おはようございます」
無意識に唇に目がいく。
いつもの赤ではなく、何も塗られていないようだった。
「あっ」
円香さんは咄嗟に口元を手で隠した。
「これは、気付いたんですね」
「え……」
何だ?
別の何かを見落としている。そう言いたげな口調の彼女から目が逸らせないでいた。
「やったー! 卵焼きあるー」
「うわ! おにぎり変な形だよ」
次々と無邪気な声が聞こえ、子供たちが皿を手に列へと並んだ。
「律さん、配ってあげないと」
戻ってきた石川さんに言われ、持ち場についた。
各々の希望する数だけおにぎりを乗せていく。それを円香さんが物色するように眺めていた。
全員が席に着くと千歳が慌てて走ってきた。
「ごめんね、みんな」
額から汗が垂れている。
事務所からここまで全速力で走ったとして、そこまで流れるだろうか。
「いただきます」
言い終えるとすぐにコップの水を喉へと流す。
まるで飢えた魚のように見えた。
朝食を終えると、子供たちは各部屋へと戻っていった。土曜、日曜は施設内でどう過ごすかは自由。俺は食器の片付けを済ませると深夜の業務報告のため事務所へ向かった。
コンコンコン。
「はい、どうぞ」
「あの、業務報告をしに来ました」
「じゃあ、そこのパソコンで入力してもらおうかな。次からは職員用スマホで書いてくれても良いから」
言われた通りに席へ着くと、千歳は手早くマウスを動かし始めた。スリープ状態のモニターは眩い光を放つ。その瞬間、デスクトップに広がっていたのは、エクセルでもブラウザでもない。9つに分割された、無機質な白黒のグリッド。各子供部屋にはくつろぐ様子が映されている。
その中の一つに、さっきまで俺がいた宿直室の、皺だらけのベッドが映り込んでいた。
「あ、ごめん。そのままだった」
千歳の手が背後から伸び、キーボードを軽やかに叩く。その指先は震えることは無く、一瞬で画面は味気ない入力フォームへと切り替わった。
「昨夜はよく眠れたかい? 記録を見る限り、だいぶ早くに目が覚めたみたいだけど」
「……見てたんですか」
振り向いた先の千歳は、知っていると訴えるように眼光へ鋭さを増した。その瞳は、昨夜スマホ越しに感じたあの"熱"を帯びていた。
見ていたのは知っている。だからあえてテレビを消し、その耳に届くよう言ったんだ。
想定通り。さあ、どう踊ってやろうかーー
緩みそうな口元を隠すように唇を噛み締めた。
「昨日出した問題は、解けた?」
分かってるのを知った上で仕掛けてきた千歳に、一瞬だけ戸惑った。
「はい。怪盗ですよね?」
「それから?」
ここは答えるべき……か。
「もう一つは、政界に属する政治家です」
その瞬間、肩をポンと叩かれた。
この2つが正解なのは分かってるんだ。『俺の回答は……考えていることは正解』と、お前からのメッセージなんだろ?
次はどう出る。
このまま勢い任せに問い詰めるのもアリか……
その能面のような笑顔のまま、聖人の震える手は俺の肩から離れた。
「完璧だ。ちゃんと問題の意図が伝わって良かったよ。じゃあ、ここに入力よろしくね」
千歳は窓から差し込む陽光に目を細めながら、外で楽しげに遊ぶ子供たちの様子をただ見つめていた。
獲物を見張るその後ろ姿は、何故だか少し哀しさを感じた。
「やっと……」
吐いた息に混じるその囁きは
俺の耳には届かなかった。




