ep.24
午後の日差しが建物全体を熱している。額から流れた汗を手で拭いながら、出来るだけ無心で何度もほうきを動かし続けた。
いや、ダメだ……井上の言動が気になって仕方ない。
ポケットからスマホを取り出し井上の名を探そうとしたが、すぐに手を止めた。そもそも連絡先を交換するほどの間柄では無かった。
そうだ……本当にただの同期でしかなかった。
入社した時、たまたま部署が同じだったのが井上。
愛想も出来も良い井上とは、いつも比較され続けていた。優秀な井上に、使えない俺。真っ当な評価だった。だからそんなこと、俺は気にもしていなかったが、井上はあの性格だ。たびたび缶コーヒー片手に詫びを入れてきた。
とにかくいい奴という印象だけだった。
俺が最後に出社した日、社員証を投げつけたあの時、井上はずっと下を向いていた。あのクソみたいな奴らとは違い、あいつだけは悲しんでくれてたんだ。
そんな井上が胸ぐらを掴みながら、あんな切羽詰まった表情をーー。
いや……わざと?
あの紙切れを胸ポケットに入れるために?
その場にしゃがみ込み髪を何度も搔き回した。同じように乱れていく思考が、信じたい気持ちの片隅を突付き始める。
思っていた以上の溜め息が漏れたが、まとまらない脳内は考える事を止めようとはしなかった。
一先ず、ゴミを片付けよう。ちりとりを持ち事務所へ向かう途中、渡り廊下に束ねてあるゴミ袋が2つ見えた。手前にあるのはさっき円香さんが手にしていたものだろう。まだ容量の半分も入っていない。それに流し入れようと結び目を解いた。
開けると見覚えのある紙が無造作に入れられている。
『担当 井上』
それはさっき井上が書いた点検報告書だった。
それが何故ここに入っているんだ……。
一般的にこういうのは管理してファイルとかに纏めるのが普通なんじゃーー
拾い上げようと手にした時、用紙の端にまた擦れた赤色が見えた。
急いで胸ポケットの紙切れを出し、色を見比べた。
同じ赤。
「あ!! ここに居たんですね、律さん」
後ろから聞こえた円香さんの声に、反射的に息が止まった。
「休憩時間なんで、冷たい飲み物でもどうですか?」
報告書と紙切れをくしゃっと丸めてズボンのポケットへ突っ込んだ。
心臓の速さと乱れた脈が、尋常ではない汗を全身に流していく。元から汗ばんでいた背中は、シャツと一体になるように密着していた。
「律さん、すごい汗! ずっと掃除で暑かったですよね」
大丈夫だと伝えるべく、ゆっくり振り返った。
口が僅かに開きかけた時、彼女の顔を見て言葉が消えた。
「早く部屋に戻って水分取って下さいね」
その何度も動く唇の赤は、擦れたあの赤と酷似していた。
彼女が付けたのか?
だとしたら、何で?
井上の怯えた顔に、突如辞めた上司。
一体何なんだ……。
「……律、さん?」
円香さんの顔が目の前に見え、全身が一瞬身震いを起こす。
「あの、何でもないです。何か飲んできますね」
俺は俯いたまま足早に『折り鶴』の部屋へ戻った。その背後で彼女がちりとりのゴミを流し入れ、微笑んでいたのに気づくこともなく。
「あ、律くん」
部屋に入ると扉の近くでさくらが麦茶を飲んでいた。
俺の汗まみれな姿を見て、すぐにコップを手渡してくれた。
「ちゃんと水分摂らなきゃ、熱中症になっちゃうよ?」
そう言いながら、麦茶を注いでくれるさくらの顔は心配そうだった。
受け取った麦茶を一気に飲み干し礼を伝えた。
「ありがとう。俺なら平気だから」
さくらはその言葉に、眼帯を手で覆い、片方の鋭い眼光で睨みをきかせた。
「平気なんて言わないで! そう言っちゃったら、ずっと平気なフリしなきゃいけないんだから!」
小さな手は、震えていた。
笑顔ばかりが溢れていたから錯覚を起こしていた。俺は良いように思い込んでいたんだ。
やはりここの子供たちは心を痛め傷ついている。
「ごめん、さくら。俺……」
何て言うのが正解なのか、微塵も分からなかった。
そんな俺の肩にまた千歳くんの温かな手がそっと触れる。
「律くん、誤魔化さなくていいって前にも言ったよね?」
「あ……すいません」
千歳くんはしゃがみ込んでさくらの頭を優しく撫でた。
「でもねさくら、大人になったらそうはいかない時も出てくる。だから、子供の内にしっかり術を学ぶんだ。自分が自分で在るために、誰かに流されない強さを持つんだよ」
「うーん……さくらに出来るかな? お母さんがまた叩いてきたら平気って言っちゃわないかな」
眼帯へ触れるさくらの手を見て、俺は自分を責めた。
平気だと言った俺を過去の自分と重ね、思い出させてしまった。
目線を合わせるように腰を屈め、さくらの顔を見つめた。
「さくら、俺はずっと死んだように生きてきて、やっと最近少しだけ心が軽くなってきたんだ。平気なフリなんてしないでちゃんと向き合えばよかったのに……。だからもう誤魔化さないよ」
流れるように出た言葉に、自分でも驚いた。
さくらは俺をじっと見たあと、またコップに麦茶を注いでくれた。
千歳くんはそんな俺を見て納得するように数回頷いた。
「律くん、初日だし今日はもう上がっていいよ。また明日」
「あ、はい。では、先に失礼します」
内心気を遣わせたと思ったが、千歳くんの優しさなのだと受け取ることにした。
「コップは使ったら洗わなきゃダメなんだけど、今日はさくらがしてあげる」
「うん、ありがとう」
しゃがみ込んでコップを手渡すと、さくらは小さな声で耳元に囁いた。
「私、嘘ついてた。あの"✕"の意味、本当は分かってたの。あれはね……」
その小さな口元から届いたのは、俺自身が消し去ろうとしていたものと同じだった。
握り締めた拳が痛い。
なのに、籠る力は強くなっていった。
俺はもう
誤魔化さないと誓ったんだーー
「さくら、ありがとう。また明日」
眼帯に隠された瞳すら笑っていたように見えた。
祐希の本を僅かに眺めたあと、リュックにそっとしまった。俺はスタッフや子供たちに挨拶を済ませ、門へと足を進めた。
すぐ横にある郵便受けに、円香さんの姿が見え自然と身体に力が入る。
普段通りの顔で挨拶を済ませ、彼女の横を通り過ぎた時、それは聞こえた。
「律さんは、丈夫そう」
汗ばんだシャツが一気に冷気を纏う。
一瞬止まりかけた足を無理に進めた。
懸命に聞こえていないフリをして。
また明日ここに来れば、確実に沼へと引きずり込まれる。
だが俺は、それでもやり遂げなきゃならないんだ。
本当に欲しかった
たった一つの
答えの為に。




