ep.22
さくらの姿が見えなくなると、荒くなった息にも気付かず、俺はただ思考を巡らせていた。
楽しげに答えを語り始めたと思えば、最後の表情は一瞬にして青冷めていた。
この「✕」の真意。それが原因なのは明白だ。だが、俺の頭では真意に辿り着けないのも分かっている。
祐希の思考を必死に思い出していた。
あの頃の考え方や癖、好きなもの、嫌いなもの。
きっと、ヒントがあるはずだ。
祐希はとにかくいつもきちんとしていた。
細かくは分からないが礼儀作法に、綺麗な言葉遣い。意地悪する奴を見ては真正面から注意するような、誰から見ても優等生そのものだった。
癖……。
そう言えば事ある毎に『千歳お兄ちゃんは…』と兄の話をしてくれた。
ひとりっ子の俺には未知なる世界で、聞いてるだけで羨ましかったのを覚えている。
折り紙に、なぞなぞ。正しい事を貫く姿勢、そして医師を目指したのも全て、背後には千歳くんが居た。
「✕」の答えーー
メモには俺の解いた『あめ』『こども』『はれ』の下に、さくらの筆跡で他の解答が記されていた。解答の横には小さく問題の番号とページ数が記載されている。
『すうじ』『つる』『きょう』
最後の『きょう』だけは"う"の文字が途中で止まっていた。まるで書くのを躊躇したように思えた。
それだと思われるページに目を通す。
37ページ、問題㊽「今日」。
1ページ丸ごと使ってそれだけが記されていた。
「きょう……」
呟いた時肩へそっと手が触れた。
それは驚く程に温かかった。
「どうかした?」
千歳くんは心配そうな顔で隣に座ると、机にあったメモを手に取った。
「あ、それは……祐希がこの本に暗号のような印を残していて。さくらと一緒に解いていたんです」
俺の言葉に千歳くんは切ない表情を見せた。
「あぁ……それはね、祐希が一番不安定だった時期に書いたものだよ」
悲しそうに目を伏せると優しく「✕」を指でなぞった。
「あの頃の祐希は、母から勉強以外の自由を奪われて、毎日のように泣いていたんだ。僕はそんな祐希のメンタルケアを隣でしていたんだけど、日に日に話もしてくれなくなってね。その頃から、この本によく書き込む姿を見てた」
告げられたのは知らない祐希だった。
あの葬儀の日、参列者が小声で囁いていた死因は"自殺"。でも学校で告げられたのは病死だった。
笑顔でも悲痛な表情でもない。
精神が崩壊する程の苦しみを味わいながら、それでも遺した暗号。
でもそれは心が壊れた祐希が記したメッセージ……。
千歳くんの目にはうっすらと涙が滲んでいる。震える手でぬぐうと俺を真っ直ぐに見つめた。
「ごめんね。僕も律くんと同じ。まだ思い残すことがあるんだ」
いつまでも弟を想う兄の姿が、確かにそこにはあった。千歳くんがここを立ち上げたのは、その想いと共に生きていく覚悟の印。
「俺なんかでも……何か出来るんでしょうか?」
まるで囚われたように、千歳くんの瞳に写り込む俺。
「出来るよ。僕たちは生きてるんだから」
もう、それだけで良かった。千歳くんの為に何かしたい。それが祐希や葵、ここの子供たちの未来へと繋がるんだ。
「何でもやります! ここで働かせて下さい」
気付けば周りのスタッフや子供たちも俺へ視線を向けていた。
咄嗟に出た言葉は、部屋全体に響くほどの声量だった。
「はははっ。勿論だよ」
千歳くんに続いてみんなも笑っていた。
「わーい! 家族が増えたー」
無邪気な子供たちの微笑ましい声に、俺の廃れた心は潤いに満ちていく。
「気合いは良いけど、もっと肩の力抜いていいんだよ。ここはそういう場所なんだから」
再び温かな手が肩へと触れる。冷たく固まった氷を溶かすような温もりに、身体は陶酔していた。
「みんなー! お昼だよー」
女性の明るい声が聞こえると、子供たちは勢い良く部屋を飛び出して行った。
「お二人も! ご飯ですよ」
朗らかに笑うその表情は、初対面の俺には眩しく映った。
「初めまして律さん。鶴原円香です。時々こちらにお手伝いに来てるんです」
「あ、よろしくお願いします」
軽く挨拶を交わした後、彼女の視線はすぐに千歳くんへ向けられた。
「円香いつもありがとうね。今日は何?」
「唐揚げにしました。さくらちゃんのリクエストで」
嬉しそうに笑った千歳くんの手が、彼女の頭に優しく触れる。食堂へと向かうその後ろ姿を名残惜しそうに見つめる視線。
鈍い俺でも一目瞭然だった。円香さんの隠しきれない気持ちは溢れていた。改めて千歳くんという人柄に心が掴まれる。
食堂に入ると子供たちは自分の食器を用意し、準備を始めていた。
「律くん、ここでは各自で食器を用意してるんだ。皿と茶碗はそこで、箸はその下の引き出しにあるから。今日はゲスト用の白いやつ、使ってね」
「はい」
千歳くんに言われるまま食器棚へ向かった。
なんだろう……。
何かが引っかかる。
違和感が頭の片隅にへばりついた。
「律くん、早く!」
後ろに並んでいたさくらが焦ったように声をあげる。
「あ、ごめん。先に取って」
さくらは慣れた手つきで淡いピンク色の食器を取った。
「その皿と箸、綺麗な色だね」
そう言った途端、さくらは軽く溜め息混じりに答えた。
「律くん、"お皿"と"お箸"ね。丁寧に言わなきゃダメなんだよ」
「え……」
まるで祐希そのものだった。
あの時の事が瞬時に脳裏へ蘇る。
同時にさっき感じた違和感の正体が晒された。
兄弟なのに、千歳くんは丁寧過ぎる祐希とは違っていた。
「これ、さくら色って言うんだよ。千歳くんは一人ずつ意味のある色を選んでくれてるの」
さくらは満面の笑みで自慢気に話すと、唐揚げを貰いに列へ向かった。
千歳くんの優しさが垣間見え、つい祐希と重ねてしまう。さっき感じた違和感はまた塗りつぶされた。
俺も急いで食器を手に取り、さくらの後ろへ並んだ。
「さくらは3個」
どうやら希望の個数を言って皿に乗せてもらうようだ。腹は空いているが、みんなの分を考えると、口からは控え目な数字が出ていた。
「俺も、3個でお願いします」
円香さんは微笑みながら4個、俺の皿に置いた。
「気兼ねしなくて良いんですよ」
小さな声で耳打ちされ、心を読まれたのかと焦った。
席へ座ると千歳くんの"いただきます"の声と共に合掌をし、みんな唐揚げを頬張った。
幸せに満ちた空間。
虐待や心身の崩壊など誰一人として居ないような……
むしろ最初からそんなものは無かったとしか思えない程、笑顔が咲いている。
周りに並ぶのは色鮮やかな食器。千歳くんが個別に選んだ尊いものたち。
俺のだけは無機質な真っ白で、これからどんな色に染まるのかと、ふと考えてしまった。
昼食を済ませ、後片付けを終えた頃には雨は上がっていた。窓辺から空を見上げると綺麗な虹が浮かんでいた。子供たちは楽しげにはしゃいでいて、そこは楽園に見えた。
「律さんって、祐希くんと親しかったんですよね?」
円香さんの口から突如出たその名前に、俺の心臓は飛び跳ねた。瞬時に早く刻みだした鼓動と共に唾を飲み込んだ。
「……知ってるんですか?」
「はい。幼馴染だったので」
一瞬だけ、彼女から切なさが見えた気がした。
窓の外から千歳くんがこちらに手を振っている。円香さんは微笑みながらそっと手を振り返した。
まだ二人を少ししか知らないのに、その関係性は家族に近しい程の仲に思えた。
代々外科医で有名な葉山家。
幼い頃から祐希と千歳くんを知る彼女。
俺って……本当に薄っぺらい。
「うちも父が日本医師会に所属しているので昔から親交があるんですよ」
その圧倒的な関係に、祐希との距離を感じずにはいられなかった。
「祐希くんが突然亡くなったのはショックでした。……時折思い返す中で、律さんの話も思い出して。まさか今日会えるなんて思ってなかったですが」
また、心臓が軋みながら痛む。
祐希を思って生きている人に出会う度、自分がちっぽけに見える。共に過ごしたのは2年もない。晒された格差に惨めさを感じた。
「私、千歳さんには妹同然に可愛がってもらってて。何か出来ればと思ってこちらに来てるんです」
千歳くんの話になると円香さんは唇を擦り合わせ、頬を赤く染めた。握られた拳は強さのせいで、爪のピンク色が白くなるほどだった。
「……あの。さくらちゃんに聞いたんですけど、私にも祐希くんの本見せて頂けませんか?」
その時の円香さんは狩人のような眼差しだった。一寸の隙も与えない大きな瞳に捕われる。
この時の俺は到底理解など出来なかった。
彼女の興奮するように赤らめた表情は
怒りと憎しみが混じった
最大級の
希望だったんだ。




