ep.18
あの残酷なまでの鮮やかさと、どす黒さを目に宿し、翌日俺は岡山から自宅へと戻ってきた。
リュックを床へ落とし、敷いたままの布団へと倒れ込む。いつ洗ったのか記憶すら無いシーツから、汗臭く生乾きのような香りが放たれた。
日々を何とも思わずに、ただ生きてきただけの証の一つに、ため息が漏れる。
シーツと枕カバーを剥ぎ取り、着ていた衣類も洗濯機へと雑に投げた。べとついた洗剤容器を手に持ち、指示通りの分量を投入する。言われた通りに動く洗濯機が不憫に思えた。
その場に座り込むと靴下の親指部分が破け、爪が僅かに覗いている。
「まだいけるか」
そんな事を呟きながら脱ぐと、洗濯機の中へと落とした。
ぐるぐる回るその光景を見つめた後、窓を明け放ち掃除機を手に取る。部屋の中は埃や髪の毛、糸くず、食べカスと、汚い物しか存在しなかった。一つずつ吸い込むと、集結した汚物は紙パックの内で固まる。パンパンに膨れ上がったそれと、机の上に散らかったままの弁当容器たちを、ゴミ袋の中へ流していく。額から流れた汗は、窓から流れる心地よい風に吹かれた。
整った部屋を見て、一つ身震いをすると、縮こまりながら椅子に腰掛けた。
落ち着かない……。
生きていくと決めたのに、あまりにも当たり前な人間ぽさが、俺には違和感でしか無かった。
さぁ、これからどうしようか。
ぼんやり考えていると、洗濯機から終了の合図が聞こえた。
呼ばれるままに中から湿り気を帯びた固まりを取り出し、ベランダへと干す。洗濯ピンチに靴下を挟んでいると、下から子供の声が聞こえた。
「夏休みどっか行くの?」
「うちは、ばあちゃんち。お墓参りするついで」
墓参りーー。
思えば祐希の墓前に手を合わせた事が一度も無い。
最後に会ったのは母に手を引かれ行った葬儀での棺越し。あの時の俺は見殺しにした親友へ、手を合わせる権利すらないと思っていた。
今なら良いんだろうか……。
岡山でのなぞなぞ旅を経て思ったこと。君にどうしても言いたかった言葉。死ぬのを許されなくなった俺に、一度だけでいい。いつか行く、冥土の土産として。
幸い場所なら知っている。母が病で伏せた直後に教えてくれたから。きっと俺の後悔が伝わっていたんだろう。
冷蔵庫からゼリー飲料を取り出す。
乾いた喉と空っぽな腹は一気にそれを求めた。
期限の怪しい食パンを袋から1枚手に取り貪り食らう。動くためだけのエネルギーを身体へ落とし込んだ。
供え物を考えながら、首元がヨレた白いTシャツに袖を通し、幾分マシな黒いズボンを履く。机の隅にあった白紙が目に留まると、正方形に切り取り鶴を折った。リュックにそっと入れた後、カップ味噌汁も1つ加えた。
2人にとっての想い出の品。
これしか無いだろうと思った。
天高く陽が昇り、地上を熱く照らしている。時期訪れる夏の再来が、早くも身体を熱くしていた。
雀が木の影で羽を休めている。通り過ぎる散歩中の犬はら舌をダラリとさせながらも楽しげに歩いていた。
ごく普通のありふれたひとコマ。何も無ければ、この光景を共に出来ていたのかと思いに更ける。
墓地へ到着すると「葉山」の墓を探し始めた。時間は要しなかった。先祖代々医者の家系である葉山家の立派な墓は、一目瞭然だった。同じ敷地内に地蔵菩薩を彫った墓が一つ。刻まれた名前が見えると、俺は自然と口を開いていた。
「祐希……。遅くなってごめん」
精一杯頭を下げて何度も何度も謝罪した。許して貰う為じゃなく、縛り付けて貰う為に。
リュックから取り出した折り鶴とカップ味噌汁を墓石に供えると、岡山でのなぞなぞ旅の報告をした。
今だけでいい。
あの時の休み時間のようにーー
その時、背後から声がした。
「こんにちは……。えっと?」
菊の花を持った男性が、何か考え込みながら俺の顔をじっと見た。
その手は小刻みに揺れている。
「もしかして……律くん?」
「え……」
俺は驚きながらも頷いた。
「祐希の兄です。どことなく面影があったから……。供え物に味噌汁は分からないけど、折り鶴を選ぶのは君しかあり得ないし」
その優しげな表情はどこか祐希に似ている。
そう言えば、兄から折り紙を教わったと聞いていた。
「お兄ちゃんは、七五三の時期に産まれたから千歳っていう名前でね。でも将来お医者さんになるから、患者さんの長生きを祈る意味合いもあるんだって」
あの時、祐希はこう話してくれた。
「千歳くん……ですよね?」
「あ、祐希から聞いてた? やっぱり仲良かったんだね」
僅かに見せた切ない表情から、穏やかな笑顔へと変わる。
千歳くんは震える手で花を供えると、墓前を優しく撫でながら俺へ向けて話し始めた。
「中学の時交通事故に遭ってね。その後遺症で……この通り手が震えたままなんだ。こんなんじゃ父の後を継ぐなんてできなくて、親は祐希にシフトチェンジしたんだよ」
あの日突然医者になると言い出した事が頭をよぎった。
「お兄ちゃんの代わりに病院継ぐんだ。律と遊ぶ時間減っちゃうけど、中学受験終わったらまた遊べるから」
祐希はその日から休み時間にも問題集を開いては勉強に励んでいた。そんな姿を見て俺は、まだ小学2年なのに、中学受験なんてずっと先なのにと、疑問しかなかったのを覚えている。
「僕さえ、事故に遭わなければ。祐希は自由だったのにーー」
揺れる背中が見えた。
大切な弟を失った兄。
親友を失った自分。
同じように後悔の念に縛り付けられている仲間に感じた。
いや、仲間なんておこがましい。
家族を……弟を失った辛さは、俺には到底理解し切れない絶望だったはず。
目元をぬぐうような仕草を見せた後、千歳くんは俺に深々と頭を下げた。
「今さらだけど、どうしても君に伝えたいことがあるんだ」
拳をぐっと握りしめながら、千歳くんは俺の目を真っ直ぐ見つめた。
祐希の母は何度も邪魔しに来る俺に、嫌気が差していたこと。
シングルマザーである俺の母のリストラを企てていると祐希に話したこと。
祐希はそれを阻止する為に俺とは友達をやめて、来ても追い返すと母に頼み込んだこと。
そして、俺との最後の対面で御守りを地面へ投げつけ決別したこと。
……は?
言葉が滝のように脳内に降り注いだ。
次から次へと流れ込むそれに、頭を抱え左右へと振る。
恨まれていたからこそ、
生きてこられたのに。
祐希は……何も変わってなかった。
初めて話しかけてくれた日からずっと……ただ優しいままだった。
砂利だらけの地面に膝を打ちつけ崩れた。傷跡が開いたのか熱い液体がじわりと滲む。
俺は恨まれているだの、許されないだの好き勝手に妄想して。
本当は"守られていた"なんて。
祐希を、信じ切れなかった……。
砂利を鷲掴みにすると擦れる音と共に石が赤く染まる。
涙が乾いた地面へと零れ落ち、俺は何度も地面へ拳を振りかざした。
まるで獣の叫び声のように溢れる嗚咽。
そんな俺の背中をそっと、千歳くんの温かな手が触れる。震えていたのは俺の身体なのか、その手なのか……。
涙が枯れるまで、ずっと側に居てくれた。
あの時感じたのは、確かな温もりだった。
俺を守るために偽りの仮面を被った君。
そして今、俺の前に現れた君に似た笑顔の兄。
この時、俺は何も知らなかった。
この先に、辿り着く
君が本当に伝えたかった
最後のなぞなぞを。




