ep.17
腕に抱いた花束の香りに包まれながら、店を後にした。
「ありがとうございました」
後方から聞こえる店員の声に僅かながら頭を下げた。本当の意味を、最後の通達をしてくれたことへの感謝として。
「店長あの人、気味悪くないですか?」
「まぁ、花を求める理由は色々あるものだから。でもあの花束……」
「え?」
スタッフが聞き返すと、店長は何かを悟し目を伏せた。
まるでこの先を感じ取ったかのように。
俺はもう一度燃えた向日邸へと足を進めていた。彼女の象徴でもあったリュウゼツランの最期を見る為に。
一歩進める毎に焦げた臭いが鼻を突き、喉の奥を刺激する。自然と吐き出る咳に、どれ程焼かれたのか身をもって思い知らされた。
まだ野次馬たちはのうのうと見物している。時折笑顔を見せながらの井戸端会議に心底思った。
こいつらが、代われば良かったんだと。
彼女は……葵はどんな思いで逝ったか、汲み取りもしないその顔を、一つずつ記憶するように目に映した。
まだ消防隊員たちは警察と共に現場の状態を確認している。池のそばには黒く焦げた木が役目を終えたように落ちていた。
腕の中で向日葵が揺れている。
唇を噛みしめると、加減の分からない歯が食い込んだ。滲み出た血を舌で絡め取る。鉄っぽさと目から流れた塩分が混じり、哀しい味がした。
「長女の葵さん、よく庭で見かけてたの。いつも暗い顔してたわ」
「やっぱり、出来のいい妹さんと比べられてたのかしら」
下俗な黒い輩たちの軽々しい羅列された言葉。だが、それを聞いた俺は……自分だけは、彼女がなぜ向日葵を15本並べたのかを知っている。
歪んだ中に宿る独占的な救いのような感情が脳を震わせた。
「ここだけの話、妹さんだけ先に亡くなってたそうよ。首に跡があったって」
「自殺!? でも医者の家系って大変そうだしね」
「でも、ご両親は血まみれだったらしいから、もしかしたら……ねぇ」
不確かな、しかし真実を突いたノイズは、鮮明かつ残酷に耳へ響いた。
彼女もまた、自分を殺して生きてきた……リュウゼツランのように。
そして今日、"一生に一度、自分の意志で火を灯した"のだと。
風が焦げた木を揺らし、空に灰を巻き上げた。
祐希と同じ地獄。
あいつは兄の代わりに勉強漬けの日々だった。そして精神を病んで……。
葵は妹が自害した後、両親を殺害し、火を付けたんだろう。
まさに教育虐待が生んだ悲劇。
俺は彼女を救いに来たつもりだったが、実際には情報のパズルを通して、過去を追体験していたに過ぎなかった。
謝罪は俺なんかに向けられたのではない。たった一人で死んだ大切な妹へ向けられたものーー
俺は最初から、彼女の視界にすら入っていなかったのだ。
「……ははっ」
心と乖離した口元は息を吐くように笑った。手元の向日葵の黄色だけが俺の唯一の色だった。ふわりと香る匂いに見たこともない彼女を想い馳せながら、俺は白鶴神社へ向かった。
いつの間にか夕陽が辺りを染めている。白い鳥居がオレンジ色に見えた。向日葵の黄色にそれが加わると、哀愁の色がより濃く浮かぶ。
参拝客の姿はもうほとんどない。
花束を台に乗せると向日葵は悲しげに俺を見た。
奉納用の折り紙を2枚買うと、あの頃を思い出しながら丁寧に角を合わせて折り始める。
一つ折る度に、ごめんと。
助けられなかった謝罪と、後悔、自分への失望と蔑み。剥がれた爪の隙間から滲む赤が、白い紙に無慈悲な点描を描いていく。痛みはもう、感覚の麻痺した頭に届くことはなかった。
「不恰好な鶴でごめん」
完成した2体の折り鶴は赤みを帯び、かろうじて羽を広げていた。
紐をくくり付け奉納へと向かった時、夕陽が立て看板を照らしていた。
吸い込まれるように見つめた先の文字に、俺の目が色を戻した。
『古来より鶴は鳴き声が共鳴して遠方まで届くことから「天に届く=天上界に通ずる鳥」と言われています』
天に……。
看板の文字がぼやけ始めると、目からは大量の雫がこぼれ落ちていた。
折り鶴をくくり付けながら、ただ謝罪を繰り返す。
救えなかった葵と、妹に。
そして、たった一人の親友に。
「ご……ごめ。ごめん、ごめん……ごめん」
ぼろぼろになったズボンと指。
とうに捨て去った心。
人としてなのか、亡霊としてなのか、分からずにここまで来た。
もう……いいよな?祐希。
そっち逝ってもーー
その時、突風に吹かれ折り鶴は音を立てて羽を擦る。向日葵の花束が地面へと落ちた。
夕日に染まった15本は、私は此処にいるよと、彼女の魂の叫びを告げるように揺れた。
自分だけが、彼女を正しく記憶しているーー。
葵という一人の女性が、命を込めてネットの海に流した手紙。俺はそれを命懸けで拾い上げ、解読した唯一の人間だ。
生きている限り、俺の中にだけ彼女の本当の声が残り続ける。
花束に伸びた影が交わり、葵と祐希が重なった。
俺がここで死ぬ事は許されない。
それは空っぽだった俺に託された、呪いのような宝箱だった。
生かされるんじゃない。
この真っ暗な檻の中で、君によって永遠に閉じ込められたんだーー




