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第98話 打算

 一九八四年七月十三日。

 かつて世界経済の心臓部であったAAUの主要都市には黒地に黄金の鷲――帝国の軍旗が翻っていた。


 大東亜エウロ欧州連合は、この日を以て「対AAU戦の終結」を宣言せざるを得なかった。

 しかし、それは連合が勝ち取った勝利ではない。

 同盟を一方的に反故にし、牙を剥いた帝国が、AAUという国家を物理的に「消滅」させた結果であった。


【大東亜連合・緊急広報】

「市民に告ぐ。旧AAU領内における戦闘は、帝国軍による一方的な統合宣言を以て、事実上の終息を迎えた。……繰り返す。帝国は同盟関係にあったAAUに対し、宣戦布告なき攻撃を敢行。これを壊滅させた。我が連合軍は、帝国の暴挙に対し、深刻な懸念を表明する……」


 街頭モニターを見つめる市民たちの顔に、勝利の歓喜はない。

 あるのは、背筋を這い上がるような戦慄だ。


「……信じられるか? 帝国は、昨日まで『味方』だったはずのAAUを、そのまま食い潰したんだぞ」

「同盟なんて、奴らにはただの捕食リストに過ぎなかったってわけだ。……次は、俺たちの番じゃないのか?」


 AAUという巨人が、帝国の胃袋に収まった。

 それにより、これまでAAUを介して間接的に対峙していた帝国軍と、大東亜・エウロ欧州連合軍は、ついに広大な国境線で直接、その銃口を突きつけ合うこととなった。


 宣戦布告はない。

 平和条約もない。

 ただ、帝国がAAUを飲み込んだ勢いのままピタリと止まり、連合側もまた、手出しできないまま防衛線を固める。

 世界を支配しているのは、ルールに基づいた「停戦」ではなく、次に動いた方が死ぬという、重苦しい「自然発生的な停止状態」だった。


【エウロ欧州連合・軍事アナリストの解説】 「……これは停戦などではありません。ただの膠着です。帝国はAAUという巨大な獲物を消化するために一時的に動きを止めているに過ぎない。連合軍がこの空白期間に何をすべきか……。もし、この静寂が破られた時、それは人類が経験したことのない、本当の終末戦争の始まりとなるでしょう」


 一九八四年、秋。

 世界は、聞いたこともないような不気味な無音に包まれていた。


 AAUを血の海に沈め、その領土を胃袋に収めた帝国からは、何の打診もなかった。

 停戦の申し入れも、講和のテーブルへの招待も、あるいは新たな宣戦布告すらも。

 返信のない沈黙こそが、帝国というならず者国家が突きつけてきた、最大の恫喝であった。


 大東亜・エウロ欧州連合統合参謀本部の会議室は、数日間にわたって怒号と絶望が渦巻いていた。


「帝国の沈黙を許すな! これは明白な挑発だ。今すぐ旧AAU領へ進駐し、帝国の不法占拠を実力で排除すべきだ!」

 強硬派の将軍が机を叩く。

 だが、その声には空虚な響きがあった。


「……正気を疑うな。我々が先の対AAU戦でどれほどの血を流したか忘れたのか?」

 参謀総長が、重い口調で資料を投げ出した。 「特にスターアイルズ沖海戦だ。あの戦いで、我らは連合海軍の主力艦艇の六割を喪失した。戦艦群は壊滅、補給路はズタズタだ。……今の我々に、AAUを飲み込んでさらに巨大化した帝国と正面から殴り合う体力など、どこにも残っていない」


 沈黙が会議室を支配した。

 正義を叫ぶのは容易い。

 だが、戦場に送り出すべきシュテルツァーの予備機も、それを運ぶ船も、今は致命的に足りていなかった。


「……結論は、一つしかないな」

 参謀総長は、窓の外に広がる平和な街並みを、憎しみを込めて見つめた。


「帝国の機嫌を損ねるな。奴らが沈黙しているなら、こちらも沈黙を守る。……奴らに『連合は戦意を喪失した』と思わせ、適度に頭を下げ、時間を稼ぐのだ。……その間に、奴らの首を確実に掻き切るための『刃』を研ぎ直す。それ以外に、我が連合が生き残る道はない」


 それは、軍人にとって死よりも辛い「屈辱の選択」であった。

 公式には「戦勝」を謳いながら、裏ではならず者国家の機嫌を伺い、虎の尾を踏まないように細心の注意を払う。

「……カイ少将には、何と伝えるのですか?」

 若き参謀の問いに、総長は答えなかった。

 リヴァイアサン中隊をはじめとする最前線の兵士たちには、「待機」という名の鎖が課せられた。

 帝国軍の機体が国境線を掠めても、挑発的な通信を飛ばしてきても、撃ち返してはならない。

 ただ黙って、暗い格納庫の中でパイルバンカーを磨き、その殺意を心の奥底に沈める日々。


「平和」という名の、あまりにも残酷な執行猶予。

 連合は、その首筋に帝国の冷たい刃を感じながら、暗闇の中で反撃の瞬間を待ち続けることとなった。

 それは、リヴァイアサンの歴史においても、最も「異様」と呼ぶにふさわしい光景であった。


 大食堂のど真ん中。

 いつもなら、その場の空気を氷点下まで凍りつかせ、鋭い眼光だけで兵士たちを直立不動にさせる「戦術の鬼才」、ベルナール中将が――あろうことか、鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌でカレーを口に運んでいるのだ。


「お父さん、ほっぺにカレーついてるよ。もう、恥ずかしいなぁ」

「おお、これはいかんな。……拭いてくれるか、ユイ」

 デレデレ、という擬音がこれほど似合う将官がかつていただろうか。

 あの「氷の剣」と称えられた冷徹な横顔はどこへ行ったのか。

 ユイという十九歳の小娘を前に、エウロ欧州連合一の戦略家は、ただの「だらしない父親」へと成り下がっていた。


「もう拭いてますよーだ、お父さん!」

 ユイが差し出したナプキンに、ベルナールは満足げに目を細める。

 その様子を、少し離れた席からトレイを抱えて見つめていたユキは、今にも叫び出したい衝動を必死に抑えていた。

(バカ! ユイのバカタレ! それじゃベルナール閣下の威厳が台無しだよ! 誰かこのバカを止めて、わたしの『氷の貴公子』を返して……!)


 ユキの心の慟哭など、生来の鈍感力が戦艦の装甲板より厚いユイに届くはずもない。

 そしてさらに異常なのは、周囲の反応であった。


 ガッ、という鈍い音が食堂のあちこちで響く。

 ベルナールの変貌を目撃した隊員たちが、あまりの衝撃に足元を疎かにし、トレイを持ったまま壁に激突したり、お互いに正面衝突したりしているのだ。


「……おい、あれ、本当に中将か?」

「影武者だろ……あるいは、帝国の精神汚染兵器か何かだ……」

「嘘だろ、この前まで『私が指揮を取る!』って言ってたあの人が、あんな、ふにゃふにゃの顔して……」


 誰もが目を丸くし、口を半分開けたまま、動く石像のように固まっている。

 戦場では無敵を誇った揚陸戦艦大和の精鋭たちが、一人の少女による「お父さん攻撃」の前に、完全に戦闘不能に陥っていた。


 当のベルナールは、周囲の混乱など一顧だにしない。

 彼にとって、今この瞬間に目の前で笑っているユイという光こそが、妻子を失い絶望の淵に立たされた彼に残された、唯一の「守るべき正義」になっていたのだ。


「ユイ。明日は、もっと大きなカツを乗せてもいいだろうか」

「ダメだよお父さん、太っちゃうでしょ!」

「はは、手厳しいな……!」

(……もうダメだ、この艦。中枢が溶けてる……!)


 ユキは天を仰いだ。

 しかし、その絶望の裏側で、彼女は気づいていた。

 ベルナールの目に宿っていた、あの死を急ぐような「氷の冷たさ」が消え、今の彼には、泥を啜ってでも生き残ろうとする「執念」が宿っていることに。


 ならず者国家の機嫌を取り、首を掻き切る準備をする。

 その屈辱的な任務を完遂するために、ベルナールにはこの「偽りの安らぎ」が必要だったのかもしれない。


 現像室の狭い暗室。赤いセーフライトが、吊るされた印画紙を不気味なほど鮮やかに染め上げている。

 ユイは、ピンセットで写真を揺らしながら、独り言のように、けれど確かな熱を込めて呟いた。

「……ねぇ、ユキ。中将夫人って、いいものなのかな?」

 その唐突な問いに、隣で乾燥機をチェックしていたユキが、文字通り飛び上がった。

「なっ……! ユイ、あんた何言って……」


「うーん。だって、そもそもこの『リヴァイアサン』って、特別すぎるじゃない。世界の命運を何度も変えてる英雄艦隊。戦争が終わったら、ここの幹部はエリートの中でもトップ中のトップに踊り出るんでしょう?」

 ユイの視線は、現像液の中に浮かび上がるベルナールの顔に固定されている。


「……大東亜とエウロのどこでも好きなところに住んで、誰からも英雄扱いされて。講演会とか本の執筆で、お金もたくさん入って。……『超勝ち組』なんて言葉じゃ足りないくらいの生活よね」

 ユキは説明してから呆れたように溜息をついたが、その瞳には少しだけ空想を楽しむような色が混じった。


「そうね。ベルナール中将なら、余生は温暖なメニスカス海の母国に帰るんじゃないかしら。……ほら、あのフレーシェンの、海沿いの白い街並み。透き通ったエメラルドグリーンと、深い紺碧の海。そこに、ひときわ大きな白い豪邸。……そんな、絵画みたいな余生じゃないの? わたしには関係ないけどさ」

 ユキが語る未来図は、あまりにも美しかった。

 潮風の匂い、オレンジの花の香り、そして豪華なテラスで、軍服を脱ぎ捨てたベルナールが、上質なワインを傾けている姿。


 ユイは、その「豪邸のテラス」を想像した。

 そこには、自分もいる。

 でも、自分はそこに「娘」として立っているのか、それとも――。

「……メニスカス海。いいなぁ」

 ユイの呟きに、ユキが不意に顔を近づけた。赤い光の下で、ユキの目が鋭く光る。

「……もしかして、ユイ? まさか、あんた……」

「……な、なに。まさか、何よ」


「あんた、本気でその『白い豪邸』の女主人になろうとしてるんじゃないでしょうね!? 相手は四十四歳のおじさまよ!? 私たちが生まれる前から戦場にいた、化石みたいな英雄なのよ!?」

「わ、分かってるわよ! そんなの、想像しただけ!」


 ユイは慌てて顔を背けたが、耳の先まで真っ赤になっているのは隠せなかった。

 十九歳の少女にとって、それはあまりにも重く、それでいて抗い難い「救済」の形。

 ならず者国家・帝国との、先の見えない泥沼の戦争。

 その出口に、もしもあの人と過ごす白い街並みが待っているのだとしたら。

 ユキに問いかけた。


「……ねぇ、ユキ。わたしってさ、中将閣下のことが好きなのかな? それとも……打算なのかな?」

 その声は、現像液の匂いに混じって、驚くほど頼りなく響いた。

「打算?」

 ユキが作業の手を止め、怪訝そうに眉を寄せる。


「そう。だって、さっき自分で言ったじゃない。メニスカス海の白い豪邸とか、勝ち組の人生とか。……私の中に、そういう『綺麗な世界』に行きたいっていう、汚い計算がないって言い切れないの。あんなに孤独で、あんなに強い人が、私を必要としてくれる……。それって、私みたいな小娘には、最高の『宝石箱』に見えちゃうから」


 ユイは自分の両手を見つめた。

 軍の広報部。

 シャッターを切り、泥にまみれ、死を隣り合わせに生きる毎日。

 もし、ベルナールの隣に収まれば、そのすべてから解放される。

 彼の階級、彼の名声、彼の財産が、自分を守る鉄壁の盾になる。


(……私、中将が可哀想だから優しくしてるんじゃなくて、中将の持ってる『特別』が欲しくて、お父さんなんて呼んでるのかな)


 一度芽生えた疑惑は、毒草のようにユイの心に根を張る。

 ベルナールを想うと胸が熱くなるのは、彼自身を愛しているからなのか。

 それとも、彼が提供してくれる「未来」を愛しているからなのか。


 ユキはしばらく黙っていたが、やがてふっと短く笑った。

「ユイ。打算だけで、あんな顔はできないわよ」


「……え?」

「あんた、中将の頬を拭いた時。……それから、中将が泣きながら去っていく背中を見た時。……あの時、あんた、自分のカメラを構えることすら忘れてたじゃない」


 ユキは、自分の胸元にあるカメラをそっと叩いた。

「打算で動く女なら、あの決定的な『将軍の落涙』を絶対に撮り逃さない。特ダネにして、それこそ高く売りつけて、自分の地位を固めるはずだわ。でも、あんたはシャッターを押さなかった。ただ、傷ついた一人の男を、放っておけないっていう顔で見てた」


 ユイはハッとして、自分のカメラを見た。

 そうだ。

 あの時、ファインダー越しに世界を見る「広報部員」としての自分は、確かに消えていた。


「恋とか、打算とか、そんなに綺麗に分けられるもんじゃないんじゃない? メニスカス海の豪邸を夢見たっていいじゃない。……でも、あんたが本当に欲しいのは、その家じゃなくて、その家のテラスで一緒にワインを飲む『ベルナール』っていう人間なんでしょ」


「……ユキ」

「十九歳の女の子が、自分の幸せを計算して何が悪いのよ。……ただ、その計算の中に、相手への『痛み』が入ってるなら……それはもう、打算じゃないんじゃない?」


 ユイは現像液の中に浮かぶベルナールの顔を、もう一度見つめた。 今度は、怖がらずに。


(……打算でもいい。……もし、私が彼の隣にいることで、あの人がもう二度と泣かずに済むなら。……)

 赤い闇の中で、ユイの迷いは、静かな、けれど激しい決意へと変わっていった。

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