第97話 娘
ユイは自室の鉄扉を閉めると、そのまま背中で寄りかかるようにして、重い溜息を吐き出した。
四畳半の狭い空間。
現像液の酸っぱい匂いと、壁に吊るされた印画紙の数々。
いつもなら自分の「戦場」として落ち着くはずのこの場所が、今は妙に居心地が悪かった。
「……九歳で別れた、娘、ね」
給養班のオバさんたちの、あの大音量の笑い声と共に放たれた言葉が、耳の奥でしつこく反復している。
正直に言えば、ユイはずっと、ベルナール中将を「警戒」していた。
(……だって、おかしいじゃない。あの歳のおじさんが、暇さえあれば若い女を口説き回って……マントなんか翻してさ)
自分に対してもそうだ。
やたらと声をかけてくるし、広報部員として近くにいると、あの鋭い、けれどどこか熱を帯びた視線を感じることが何度もあった。
「したごころ」
そう呼ぶのが一番しっくりきた。
権力と階級を持つ年上の男が、自分のような十九歳の小娘を「獲物」として狙っているのではないか。
だからこそ、ユイは彼に写真を売る時も、常に商売という「壁」を高く築き、隙を見せないように振る舞ってきたのだ。
(……最悪。私、なんて自惚れてたんだろ)
ユイは机に歩み寄り、昨夜、ベルナール中将が「思い出用」として選び取った、自分の写真の予備を手に取った。
そこには、自分でも気づかなかったような、どこか幼さの残る自分の横顔が焼き付けられていた。
中将は、この顔を見ていたのだ。
十九歳の生意気なカメラマンに欲情していたわけじゃない。
六年前に、無職の博打打ちに連れ去られた最愛の娘。
AAUという異国の空の下で、今や行方すら知れなくなった十五歳の我が子の「成長したはずの面影」を、必死に探していただけだったのだ。
ユイはベッドに腰掛け、膝を抱えた。
ベルナール中将。
リヴァイアサン中隊の支柱であり、豪快な笑いで兵士を鼓舞する「英雄」。
そのマントの裏側には、妻に裏切られ、借金を背負わされ、子供を奪われたという、あまりにも惨めで、泥臭い「一人の男」の孤独が隠されていた。
(あんなに口説き回ってたのも、誰かに構ってほしかっただけなんだ……。独り身の寂しさを、冗談で塗り潰してただけだったんだ)
ユイの胸の奥が、チリリと焼けるように痛んだ。
彼女はカメラマンだ。真実を切り取るのが仕事だ。
なのに、一番近くにいた男の「真実」を、ただの汚い下心だと決めつけて、レンズ越しに拒絶していた。
ユイは立ち上がり、暗室代わりのユニットバスへ向かった。
赤い電球の下で、新しい印画紙を取り出す。
「……ごめん、中将」
彼女が選んだのは、昨夜の「ボツ写真」の中でも、一番、自分が屈託なく、まるで父親に甘える子供のように笑っているカットだった。
ピントが少し甘く、売り物にはならない。
けれど、そこには「したごころ」を警戒して強張る前の、瑞々しい生が溢れていた。
ユイはそっと呟いた。
「……明日、また変な理由をつけて、あの人に押し付けてやろう。……タダでいいから。……いや、娘さんへの『お守り代』ってことで」
レンズ越しにしか世界を見てこなかった少女が、初めて、ファインダーを通さずに「誰かの欠落」を埋めようとした夜だった。
廊下に、場違いなほど明るい声が響き渡った。
「お父さん!」
その瞬間、ベルナール中将の背中が、まるで不可視の雷撃を受けたかのように硬直した。
ゆっくりと振り返るその顔に、普段の戦場を支配する氷の洞察力や、冷徹な戦術家の面影は微塵もなかった。
そこにあったのは、過去の亡霊に射抜かれた、無防備な一人の男の表情だった。
視線の先には、顔を林檎のように赤らめたユイが立っていた。
彼女は照れ隠しに、手に持ったカメラのストラップをぎゅっと握りしめている。
「……中将ってば、私の写真、たくさん買うんだから。……恥ずかしいじゃないですかぁ」
ユイは上目遣いで、少しだけ茶化すような笑みを浮かべた。
「そんなの、まるでお父さんですよ。……だから罰です。これから『お父さん』って呼ばせてくれるなら、これからも写真を売ってあげますからね」
「ハ、ハハ……。全くだ、本当だな」
ベルナールは、乾いた喉で無理やり笑い声を絞り出した。
その声は、重厚な軍服には似合わないほど掠れていた。
「……お父さんと呼ばれるのは癪だが、写真は買いたいからな。そう呼ばれるしかあるまい」
「やった! じゃあお父さん、今度はご飯一緒に食べようね!」
ユイは天真爛漫に手を振り、その場を駆け去っていった。
けれど、ベルナールは何も答えなかった。いや、答えられなかった。
中将という階級を背負い、全軍の士気を司る男が、一介の軍曹である少女の前で嗚咽を漏らすことなど、許されるはずがない。
「……少し、失礼する」
彼は短くそれだけを告げると、逃げるように、しかし足早にその場を立ち去った。
廊下の曲がり角を曲がった瞬間、堪えていた熱いものが視界を歪ませる。
六年前に別れた九歳の娘。
AAUへと連れ去られた我が子の面影が、ユイの明るい声と重なり、ベルナールの胸を容赦なく掻きむしっていた。
その様子を、物陰からじっと見守っていた影があった。
ユキだ。
彼女の角度からは、廊下の奥へと消えていく中将の横顔が、はっきりと見えていた。
顔中を涙で濡らし、声を殺して泣きながら歩く、孤独な将軍の姿。
「英雄」という鎧を脱ぎ捨てた、ただの父親の悲しみを。
ユキは、自分の胸元にある小型カメラを強く抱きしめた。
ユキは固く決心した。
ベルナール中将のために。
彼が内ポケットに忍ばせる「思い出」を、もっと色鮮やかなもので満たすために。
自分たちが、この地獄のような戦場でも、これほど天真爛漫に笑っていられるのだという証を。
(……ユイの素敵な写真をたくさん撮ってあげよう。お父さんのために)
ユキの瞳には、かつてないほど強い光が宿っていた。
それは、レンズを通して誰かの魂を救おうとする、一人の表現者の目だった。
空は鉛色に淀み、吹き付ける風にはマンガニスの煤が混じっている。
AAU郊外、壁の崩れかけた「AAU第十七孤児院」。
そこは孤児院という名の、廃棄物集積場だった。
「……ルーナ・ガストリオン。運がいいやつだ。Aクラスのシュテルツァーパイロット候補とはな」
帝国の徴募官から渡された身分証を、少女は冷めた目で見つめた。
『ガストリオン』
ロクデナシの「偽物の父親」の姓。
少女――ルーナにとって、その名は忌まわしい鎖でしかなかった。
(クソッタレた場所……。せいぜい、ここで一生を終える奴らを笑ってやるわ)
彼女はボロ布のような私物を入れたバッグを肩にかけ、迎えの装甲車へと歩き出す。
彼女の両親は、この世の底を煮詰めたような人間だった。
酒とドラッグ、そして際限のないギャンブル。
十一歳の極寒の冬、二人がドラッグの過剰摂取で冷たくなった時、ルーナが感じたのは悲しみではなく、ようやく静かになったという安堵だった。
だが、代償は大きかった。
ロクデナシの父親が、ふざけて彼女の細い腕に打ち込んだドラッグのせいか、彼女の記憶には幾つもの「空白」がある。
(……思い出せない。本当の、お父さんの名前)
彼女は、帝国の軍靴の音を聞きながら、胸の奥の、決して誰にも見せない聖域を指先でなぞった。
本当の父親は、あのロクデナシではない。
幼い頃の記憶の断片――。
重厚な軍服、誇らしげに翻るマント、そして自分を抱き上げた大きな、温かい両腕。
彼はエウロ欧州連合のエリート軍人だったはずだ。
『ルーナ』
それが、本当の父が付けてくれた私の名前。
(会いたいよ、お父さん。……助けて)
けれど、その叫びが声になることはない。
帝国軍の適性検査で、彼女には異常なほど高いシュテルツァーの操縦資質があることが判明した。
だが、それは天賦の才などではない。
生きるために身につけざるを得なかった、悲しい防衛本能の産物だった。
ルーナは、偽物の父に殴られて育った。
男は酒に酔うと、決まって獣のような濁った眼で彼女を手籠めにしようと襲いかかった。
抵抗を封じるために振るわれる、容赦のない拳。
ルーナは必死でその一撃を避け、殴り返し、蹴り、泥を這うようにしてその魔手から逃れ続けてきた。
幸いなことに、ドラッグとアルコールに焼かれた男の動きは鈍かった。
しかし、安らぎであるはずの眠りさえ、彼女には許されなかった。
深夜、意識が沈んでいる最中に突然殴りつけられ、抗う間もなく服を引き裂かれることさえあったのだ。
幼い少女の顔から、打撲の腫れが引く時は一日としてなかった。
だが、その地獄こそが彼女を変えた。
暗闇でさえわずかな殺気を察知し、体が勝手に反応する。
皮肉にも、この卑劣な暴力が、後に帝国のエースたちを戦慄させるルーナの「神がかり的な回避本能」の源流となったのである。
いつか、この「偽物の父」を殺すために。
ルーナは廃墟に放棄された錆だらけの治安維持用シュテルツァーに忍び込み、暗闇の中で独り、整備と操縦のシミュレーションを繰り返してきた。
皮肉にも、地獄のような日々で磨かれた「殺意」と「回避能力」が、彼女を帝国の新しい「牙」へと仕立て上げようとしていた。
名前も、過去も、涙もいらない。
ただ、マンガニスエンジンの拍動に合わせてトリガーを引く機械としての才能。
帝国が求めているのは、それだけだ。
「さあ行け。あっちの建物だ」
徴募官の声に、ルーナは無機質な表情で頷いた。
彼女がこれから向かうのは、家族を救うための戦場ではない。
しかし、世界が灰色に見えている少女には戦う理由など些事であった。
(お父さん、私、強くなるよ。……いつか、あなたに会うために)
少女は一度も振り返ることなく、装甲車の闇の中へと消えていった。
その表情は、ベルナール中将が大切に持っている「ユイの写真」と瓜二つの、十五歳の少女の顔だった。
帝国の支配下となったシュテルツァー養成学校。
そこに、かつての大東亜・エウロ連合が恐れた「影」が二つ、帝国の軍服を纏って立っていた。
元参謀本部直轄第335対シュテルツァー特務中隊――通称『ザハーク』。
ハインツ大佐の懐刀として死線を潜り抜けた彼らもまたエリート中隊員として招集されていた。
「……素晴らしいな。さすがはザハークの生き残りだ」
サカモト特務中佐が、完璧に動く左手で操縦レバーを愛撫しながら、モニターに映る二機を見つめた。
先ほどの模擬戦。
サカモトの機体のあり得ない機動の前に、二人は膝を突き、サカモトの軍門に下ることを誓っていた。
一人は、ジュリアン・ノール大尉。
影のある美貌を湛えた青年。
彼の愛機、逆関節型の軽量機『ロキ』は、まるで昆虫のような異形の動きで実験場を跳ね回り、死角からショットガンを叩き込む。
地形というキャンバスを機動で塗り潰す、戦術の天才だ。
もう一人は、ヘルガ・バルムンク大尉。
冷酷な美貌を持つ、戦場の女神。
重装甲機『ミョルニル』を、まるで羽毛のように軽く操り、姿勢を崩した相手のコクピットを左手のパイルバンカーで一撃の下に貫く。その二つ名は『雷槌』。
「サカモト中佐、残りの枠はどうなさるおつもりで? 私たち二人だけでは、あの大東亜の『破壊神』を仕留めるには手数が足りませんが」
ヘルガが、パイルバンカーから硝煙を吐き出しながら問う。
彼女の冷たい瞳は、既にカイ・イサギという獲物を捉えていた。
「案ずるな。……今、最高の人材を見定めているところだ」
サカモトが指し示したモニター。
そこには、一機の練習用シュテルツァーが、卒業を控えた五年目の士官候補生たちを、赤子の手をひねるように蹂躙する光景が映し出されていた。
凄まじい加速。
無駄のない回避。
それは、重力に逆らうのではなく、重力を味方につけて踊っているかのような、天性の操縦。
「……嘘だろ。あの中に乗ってるの、十五歳の小娘だって?」
ジュリアンが、呆れたように肩をすくめる。
「ふん。天才だぜ、あれは。……まるで、エルザみたいだ」
ヘルガが、かつての同僚の名を出し、口角を吊り上げた。
「確かにそうですね。あの、迷いのない、殺戮に特化した最適機動……エルザそのものの動きですよ。即トドメを刺す残虐性も実に帝国向きでいい」
ジュリアンの言葉通り、ルーナ・ガストリオンの操縦には、生への執着がなかった。
ただ、目の前の敵を破壊することだけが、自分という「名もなき部品」に与えられた唯一の肯定であるかのように。
「ルーナ・ガストリオン。……彼女が、我ら帝国の『牙』の一つとなる」
サカモトは、治ったばかりの左手で、モニター越しにルーナの機体に触れた。
カイ・イサギを育んだかつての師が、今はそのカイを殺すための「最も鋭い刃」を、その手で研ぎ澄まそうとしていた。




