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第95話 遅過ぎる決断

 一九八四年七月

 栄華を誇ったAAUの心臓部は、今や死臭漂う墓標と化していた。


 重厚なオーク材のデスクを挟み、二人の男が対峙している。

 一人は、椅子に深く沈み込み、老いた獣のように震えるAAU大統領。

 そしてもう一人は、冷徹な仮面を被り、自らの上司であった男を蛇のような目で見下ろす主席補佐官であった。


「……もはや、政治という言葉を使うことすらおこがましい」

 補佐官の声は、静かだが鋭く大統領の鼓膜を抉った。


「閣下、あなたがただ普通に大統領の椅子を降りるだけでは、この国を覆う怒りは収まりません。死んでください。この国を滅ぼした、最大の戦犯としてね」

 大統領が何かを言いかけ、喉を鳴らす。

 しかし、補佐官はそれを許さない。


「メドムを失陥し、アエテルナ大陸を軍靴で踏みにじっている友邦のはずの帝国は、我々に一粒の小麦も、一発の弾丸も補給するつもりはない。同盟? そんなものはもはや空想の中にしか存在しない。それどころか、明日、帝国が我がAAUに宣戦布告の最後通牒を突きつけてきても、私は驚きませんよ」

 

「現地軍は完全に孤立している。補給路は断絶。通信によれば、我が軍の精鋭たちは現地民から食料を略奪して命を繋いでいる始末だ。……弾薬? 補給など土台無理な話だ。AAUの独自規格に固執し、大東亜やエウロ欧州連合の統一規格を批准しなかったツケがこれだ。我が軍の銃火器は、今やただの鉄屑だ!」


 補佐官は大統領に一歩詰め寄り、その顔を覗き込んだ。

「二時間後、閣下が参加できる『最後』の会議が始まります。議題は一つだ。帝国か、あるいは大東亜・エウロ欧州連合か……そのどちらに『完全降伏』するかをね」

「……降伏だと?」

 大統領がようやく絞り出した掠れた声。補佐官は鼻で笑った。


「しなければ、この本土が火の海になるのは自明の理だ。我が国に戦える海軍はもういない。本土に残っているのは、シュテルツァーの旧型機……あの『アスラ』や『ルシフェル』にとっては、ただの動く標的にすぎない二線級の部隊だけだ。……『帝国と手を組んだ』あなたの死刑執行書をどちらに差し出すか、血を吐くような白熱した会議になるでしょう」


 ドッ、と大統領府を揺らすような地響きがした。

 それは爆音ではない。

 建物を取り囲む、数万、数十万という民衆の憎悪に満ちた怒号だ。


「……不服だとでも? 聞こえないのですか、あの死を呼ぶ声を。言っておきますが、外を固める警備部隊の忠誠心も、すでに地の底まで落ちている。彼らがいつ銃口をこちらに向けるか、私にも分かりませんよ」


 補佐官は、溜まった唾を吐き捨てた。

 それは、かつての最高権力者の顔に直撃し、無様に滴り落ちる。

 大統領は、それを拭うことすら忘れたように硬直していた。


 補佐官が去り、静寂が戻った部屋で、大統領はただ一人、震えていた。

 顔にこびりついた屈辱の感触を感じながら、彼の脳裏を占めたのは、国家の行く末でも降伏の条件でもなかった。

(……私の妻と、娘たちは、無事だろうか)


 その問いを口にする資格さえ、自分にはもう残されていない。

 時計の針は、残酷に、確実に、AAUという国家が消滅する瞬間に向かって時を刻んでいた。


 AAU大統領府、特別会議室。

 そこはかつて、世界戦略を司る知性の殿堂であった。

 しかし今、この部屋を満たしているのは、死臭を孕んだ絶望と、敗北の責任をすべて一人に押し付けようとする凄惨な「私刑」の熱気であった。


「旧大東亜領マライカおよびサウンドアイルより、緊急入電」

 通信将校が、悲鳴に近い声を上げた。

「現地民による大規模な反AAU暴動が激化。……通信は帝国の回線を借用して繋がっているのみ! 暴徒鎮圧弾すら在庫が枯渇。現地部隊からは、実弾射撃の許可と即時の補給を求める悲鳴が再三入っております!」


「補給だと?」

 主席補佐官が、冷笑を浮かべて大統領を睨みつけた。

「そんなものが不可能であることくらい、士官候補生ですら理解している。大東亜・エウロ連合の哨戒網に捕捉されず、物資を届けるなど奇跡でも起きぬ限り無理だ。……なあ、大統領? どこかの誰かが掲げた、あの愚かな『劣等民族排除政策』が招いた、必然の結末ですよ!」


 会議室に、刺すような嘲笑が響く。

 大統領は、力なく机を見つめることしかできない。


「次に、帝国の動向です」

 情報部長が冷徹に続ける。

「奴らは着々と軍備を進めている。これは大東亜連合に挑むためのものではない。……もはや軍備が底を突き、死を待つばかりの我がAAUを『自国の延命のために切り取る』ための宣戦布告準備だ。おっと、大統領、間違っても『帝国と戦う』などと言い出さないでくださいよ?」


「……我が軍には、戦力など残っていないのだからな!」

 誰かが叫び、再び爆笑が沸き起こった。

「帝国だろうが、大東亜だろうが、新兵が操る最新のシュテルツァー大隊が一戦区に上陸するだけで、我が全土は蹂躙される。それが現実だ!」


 海軍部長が、もはや隠そうともしない侮蔑を込めて椅子を鳴らした。

「海軍は動きません。……いや、動かす駒がない! 魚雷艇をかき集めて特攻艦隊でも作りますか? 閣下、それすら港を出て数マイルで燃料が切れることくらい、いい加減理解していただきたいものだ!」


 罵声の嵐の中、大統領が震える唇を開いた。 「……帝国に……帝国に降れば、どうなるのだ?」

 その問いに答えたのは、再び主席補佐官だった。

 彼は立ち上がると、大統領の顔面に容赦なく唾を吐きかけた。


「帝国が前大戦で『降伏者』をどう扱ったか忘れたのか? 二等国民、すなわち奴隷だ。運が良ければ家畜のように飼われ、悪ければマンガニス鉱山で死ぬまで採掘奴隷として使い潰される。それが帝国のやり方だ」


「……では、大東亜・エウロ連合はどうなのだ?」

 大統領が問いを重ねようとした瞬間。

「閣下、まだ口の利き方が分かっていないようですね」

 別の席から投げつけられたワインのボトルが、大統領の肩を直撃し、赤い液体が彼の白いシャツを血のように染めた。


(……言えぬ)

 大統領は心の中で呻いた。

(周囲の反対を押し切り、帝国と手を組んで大東亜領への無差別攻撃を断行したのは私だ。数百万の虐殺だと非難されたが、相手は劣等民族ではないか! それに、あれは帝国の指示通りに動いた結果なのだ。……だが、今それを言えば、この男たちに殴り殺される)


「大東亜連合に降ればどうなるか、だと?」

 副大統領が、氷のような声で告げる。

「彼らは激怒している。……虐殺された大東亜の人々は、合計で四百六十三万人。負傷者は天文学的数字だ。私は反対したが、無能な大統領が耳を貸さなかったせいで、我々は歴史に名を刻む大虐殺者の一味になった。国家は解体され、小国に分断され、二度と牙を持てぬよう永遠に監視される政治が待っているだろう」


 副大統領は、会議室に集まった閣僚たちを見渡した。

「愚かな大統領は、降伏と共に死刑だ。……さあ、選ぼうではないか。帝国の下層民として、その繁栄の末端に寄生して生き長らえるか。あるいは分断され、軍も誇りも捨てて、監視下での平和を享受するかを」


 会議室に、深淵のような、重苦しい沈黙が降りた。

 それはAAUという巨大な船が、沈没の直前に吐き出した最期の溜息であった。


「閣下! 至急電です!」


 会議室の重厚な扉が、警備兵の制止を振り切った通信将校によって乱暴に跳ね開けられた。

 彼の顔からは血の気が失せ、手にした紙片は汗で激しく湿っている。


「旧大東亜領、マライカおよびサウザンドアイル、陥落! 大東亜・エウロ連合軍による同時上陸作戦により、弾薬の尽き果てた我が軍は一時間も持たずに投降しました!」


「……あ、あそこが落ちたか」

 大統領の掠れた声に、追い打ちをかけるように防衛参謀が部屋へ飛び込んできた。その形相は、もはや正気のものではない。


「大統領、遅すぎました! テティス運河が占拠されました。さらに……西海岸、カーテルーナおよびディズラサーナへ上陸を開始したのは、大東亜ではありません。帝国軍です!」


 会議室に、凍りつくような衝撃が走った。


「帝国から宣戦布告が入りました! 州兵と残存機甲部隊が迎撃に向かっていますが、持たないでしょう。……相手は帝国の最新鋭シュテルツァー大隊です。我々の戦車など、歩く標的に過ぎない!」

「帝国だと……!? 大東亜ではなく、帝国が先に本土へ来たというのか!」

 主席補佐官が叫ぶ。

 帝国に降れば、待っているのは「死」か「採掘奴隷」だ。

 参謀は、もはや敬礼も忘れ、ワインの染みに汚れた大統領を、そして醜い罵り合いを続けていた閣僚たちを怒鳴りつけた。


「早くご決断ください、皆様! これ以上は、民衆を無駄死にさせる以外に道はありません。帝国がこの大統領府を包囲する前に、大東亜エウロ連合へ『無条件降伏』を打診し、彼らを保護名目で呼び寄せる以外に、我々が奴隷化を免れる術はないのです!」


 その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、地下会議室の天井を揺らすような、巨大な地響きが響き渡った。

 それは遠くの砲声ではない。帝国軍のシュテルツァーが放つ、無慈悲なパイルバンカーの駆動音だ。

「……来た。帝国の死神だ」


 補佐官が震える手で窓のカーテンを少しだけ開けた。

 空は、不吉な黒煙と帝国の機体が撒き散らすマンガニス粒子で濁っている。

 大統領府を囲んでいた民衆の声が、怒号から悲鳴へと変わった。

 帝国軍は「解放者」ではない。

 彼らにとって、この国の人間はすべて「略奪対象の資源」なのだ。


 大統領は、震える手で万年筆を握った。

 もはや、誰に唾を吐きかけられることもなかった。

 全員が、自分たちが「採掘奴隷」として一生を終える恐怖に、ただただ押し潰されていたからだ。

「……私の……私の妻と娘だけは、奴隷にしないでくれ……」


 大統領の最期の呟きを嘲笑うように、帝国の機体が放つ衝撃波が大統領府の窓ガラスを一斉に粉砕した。


 一九八四年七月一二日。

 AAU大統領府の最上階テラス。

 昨日まで自由を謳歌したAAUの旗は引き裂かれ、代わりに掲げられたのは、漆黒の背景に黄金の鷲をあしらった帝国の軍旗であった。


 演壇に立つのは、鋼鉄の軍服を纏い、氷のような眼差しを持つ男――帝国軍最高司令官、ヴォルガ・ゼ・ザルニカ国家元帥である。

 彼の前には、数千、数万という武装解除されたAAUの兵士たちが膝を突き、その周囲を帝国のシュテルツァー隊が包囲している。


 ヴォルガは、拡声器の向こう側にいる、全AAU国民、そして世界に向けて口を開いた。


「AAUの諸君。あるいは……かつてAAUと呼ばれた地に住まう者たちよ」

 その声は低く、野獣の唸りのように大気を震わせた。


「本日この時を以て、アングロ・アメリ・ユニスすなわちAAU連合は消滅した。諸君らの指導者が犯した数々の愚行は、歴史から抹消されるべき汚点である」


 ヴォルガは、眼下に広がる破壊された街並みを一瞥し、冷酷な笑みを浮かべた。


「帝国は、諸君らを慈悲を以て迎え入れる。……本日より、諸君らは帝国の、誉れ高き『二等国民』としての生存を許される」


 「二等国民」という言葉が響いた瞬間、膝をつくAAU兵士たちの間に、絶望の波が広がった。

 それは生存の許可ではない。

 「人間」という権利の剥奪、すなわち、帝国の繁栄を支えるための「部品」への格下げを意味していた。


「諸君らには、帝国に尽くすという光栄な義務が与えられる。屈強な若者は、マンガニス鉱山の奥底で帝国の翼を支える血肉となれ。技術ある者は、死ぬまで帝国の牙を研ぎ続けよ。……帝国の一部として生きることは、弱小な独立を維持するよりも、遥かに有意義な生であると知れ」


 ヴォルガはマントを翻し、空を仰いだ。

 そこには帝国の勝利を讃えるような、黒く燻んだマンガニス粉塵に汚れた空がどこまでも広がっていた。


「大東亜エウロ連合に告ぐ。この地はもはや、貴公らが『講和』を説く中立地ではない。帝国の、神聖なる領土である。……一歩でも侵入すれば、我々は容赦なくその傲慢な翼を毟り取るであろう」


 スピーチが終わると同時に、広場を埋め尽くす帝国兵たちの、地響きのような叫びが巻き起こった。

 その狂乱の陰で、AAU大統領は、もはや誰も見向きもしない部屋の隅で、二等国民のリストに名を連ねることすら許されず、右手に拳銃を握り締めたまま、ただ一人、歴史の暗がりに消えていった。


 AAUは消えた。

 残されたのは、帝国の冷徹な支配と、鉱山の奥底で絶えることのない、二等国民たちのすすり泣きだけである。


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