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第93話 当たり前の日常

 一九八四年七月一〇日。

 スターアイルズシュテルツァー訓練所に、不気味なほどの静寂が広がっていた。

 退院したばかりのカイ・イサギ少将が、真夜中の海を思わせる群青色の新型機『ヴァルナ』のハッチから身を乗り出した。

 左眼を覆う白い眼帯が、冷たい海風に揺れる。


 大破したアスラを根本からから改修した、生まれ変わったアスラとも言うべき後継機。

 Y-S02w ヴァルナ(Varuna)

 推進・駆動系

 主機: 第四世代型マンガニス熱圧式エンジン

 水面滑走: 脚部底面からのマンガニス粒子高圧噴射による「斥力航法」。

 跳躍性能: 最大高度210m。高圧タンクの瞬間開放による空中再点火(二段跳躍)が可能。

 冷却系: 大容量空液冷ハイブリッド型。循環ポンプの強化により、高負荷戦闘における連続跳躍限界を大幅に拡張。

 右腕:ASPB-602mkII "Cocytus-Extinction"

 種別: 高質量パイルバンカー

 炸薬: 艦船用NC-01火薬

 反動相殺: パイル駆動部と背部スラスター・バルブを直結した「タングステン合金製連動ロッド」を装備。

 射出の瞬間、背後へ全圧力を逃がすことで機体の崩壊を防ぐ。

 左腕:AW-152R "Valkyrie-Spear"

 種別: 152mm高初速滑腔砲

 偏心弾道制御: 操縦席のサブレバーに連動した「砲身絞り機構」。

 発射の刹那に砲身出口を物理的に歪ませ、弾丸に強烈な横回転を付与。

 遮蔽物を迂回する曲線弾道を実現。

 肩部:OMS-04 "Hades"

 種別: 有線ワイヤー誘導4連ミサイルパッド

 誘導: 鋼鉄ワイヤーによる物理牽引。操縦士の指先の感覚が直接ミサイルの尾翼へ伝わる、究極の感覚同調。

 脱着: 爆砕ボルトによる瞬時パージ機能。


「……いい感じだ。身体が、以前よりも『外の世界』と繋がっている感じだ。ハインツ大佐、ソルガ中佐。準備はいいかい?」

「いつでもどうぞ、隊長」 

「……獲りに行くぞ、カイ!」


 ハインツの『ルシフェル』とソルガの『オーディン』。

 リヴァイアサン中隊最強の二機の漆黒が左右に展開し、模擬戦の幕が上がった。


「訓練開始!」

 中隊オペレーターのカミラの声が響くと同時、演習場に設置されたスプリンクラーから散水が始まった。

 泥濘地を再現したフィールド。

「まずは『ヴァルナ』の足慣らしだ」

 カイがレバーを引いた瞬間、ヴァルナの脚部底面から圧縮されたマンガニス粒子が「高圧噴射」された。

 ドォォォォォン!!

 それは走行音ではない。

 水面を物理的に叩く衝撃音だ。

 ヴァルナは泥飛沫を上げ、時速180kmを超える「斥力航法」でソルガのオーディンの懐へ一直線に滑り込んだ。


「速すぎるっ!? 陸地でこの機動を……!」

 ソルガが144mmライフルを乱射する。

 だが、カイの視界には「弾道」ではなく、ソルガの「殺気」が直接流れ込んできた。

 ヴァルナは一滴の泥も浴びぬまま、死角を縫う。

 一撃だった。

 訓練用パイルバンカーが乾いた音を立てる。

 カツーン

 訓練用の空薬莢が弾け、背部の連動スラスターが同時に火を吹いて反動を相殺。

 カキーン!

 薬莢が跳ねると同時にオーディンに戦死判定の信号が灯った。

(バカな!以前より早い!)


「オーディン、戦死。……所要時間、十二秒」

 カミラの声には、驚きを通り越した畏怖が混じっていた。


「次は俺だ、カイ!」

 ハインツがルシフェルのパイルバンカーを突き出しながら、空中跳躍でヴァルナの背後を取る。

 だが、カイは空中で「高圧タンク」を開放した。

――ギギィィィン!!


 空中で静止したかに見えたヴァルナが、二段目の爆炎とともに直角に軌道を変えた。

「なっ、空中で二段跳躍だと!?」


「こっちだ、ハインツ大佐」

 ヴァルナの左腕、152mm滑腔砲『ヴァルキリー・スピア』がゆらりと持ち上がる。

 カイはサブレバーを捻り、砲身出口を物理的に「歪ませた」。


 パン!!

 放たれた訓練弾は、ハインツがゆらりと回避したはずの遮蔽物の未来地点へ、巨大な弧を描いて曲がり込んだ。

「……そこか!」

 ハインツはルシフェルを強引に旋回させ、ギリギリで回避する。

 だが、その衝撃で姿勢が崩れた瞬間、カイの声が聞こえた。


「ハインツ大佐。アレを避けるとは流石ですね」

 ハインツは震えた。

 カツーン

 訓練用パイルバンカーは、ルシフェルの背面装甲に突き刺さっていた。


 一時間、二時間。

 訓練は止まらない。

 何度も、何度も「戦死」させられ、泥にまみれ、ついたスコアは、カイ15勝、ハインツ、ソルガペア0勝。

 しかし、その絶望の底で、ソルガとハインツの「感覚」が変質し始めた。


「……見えた」

 ソルガが呟く。

 ヴァルナの超高度跳躍。

 210メートルから降下してくる「死の影」。

 以前なら、それを見失い、首を刎ねられるのを待つだけだった。

 だが今、ソルガの脳内では、ヴァルナが吐き出すマンガニス粒子の流れ、エンジンの排気音の周期、そしてカイの「殺気」が、一本の透明な線となって結ばれた。


「ソルガ中佐……!? 今、俺の回避先に弾を置いたのか?」

 カイの驚きに、ソルガはコックピットの中で不敵に笑った。

「隊長。あんたが『普通』の基準を壊してくれたおかげで……俺たちの目は、もう戻れそうにないですよ」

 その横では、ハインツのルシフェルが、ヴァルナと「鏡合わせ」のような超機動でシンクロし始めていた。

 ワイヤー誘導ミサイルを自らの指先で引き、ヴァルナが空中に跳ね上げたミサイルを、ハインツがギリギリの機動で壁に誘導させる。


 夕暮れ時。

 ハインツとソルガはボロ雑巾のように疲れ果て、ハッチから半身を乗り出して虚空を見つめている。


「……また負けるとは。……でも、次はもっと、速く動ける気がするな」

 ソルガが弱々しく、だが確かな希望を持って笑う。


 指揮所では、ミナが今日の記録を閉じ、大きく息を吐いた。

「……全35戦。カイ少将の全勝。ハインツ大佐、ソルガ中佐ペア全負。……」


「俺、病み上がりだから、次はもう少しまともに動けるといいな」

 カイが汗を拭いながら、ヴァルナから降りてくる。

 嫌味ではない。

 カイが心底そう思っているのは、中隊員全員が分かっているのだ。

 

「隊長! 明日は二勝。いえ、一勝は獲ってみせますよ!」

 ハインツが真っ黒な顔で笑い、ソルガはげんなりとしている。


 翌日

 スターアイルズシュテルツァー訓練所の全モニターは、三機の怪物のみを映し出していた。

 群青の『ヴァルナ』、漆黒の『ルシフェル』、そして武骨な『オーディン』。

 中隊員たちは、指揮所のモニターの前で、言葉を失っていた。


「……おい、嘘だろ。片目のはずだぞ、カイは」

 シュミット中佐が、震える手でコーヒー缶を握りしめた。

 モニターの中では、ヴァルナが「二段跳躍」の爆炎を上げ、ハインツの放った精密な火線をミリ単位で回避している。


「右眼を失って、死の淵から戻ってきたばかりなのに……なぜ、以前より速くなっているんだ。まるで、見えていないはずの左側から来る攻撃を『知っている』みたいじゃないか」

 アラン大尉が戦慄する。

 彼の眼には、ヴァルナの動きが物理法則を無視した動きの連続に見えていた。


「ガッハッハ……。ヴォルフ、見ろ。あれはもう『操縦』じゃねえ。ヴァルナがカイの神経そのものになってやがる」

 ガリアスは、冷汗を流しながらも笑うしかなかった。

「ソルガの旦那とハインツの旦那、二人掛かりだぞ? あの大東亜、いや、世界最強のペアを相手に、一度も掠らせねえなんて……」

「……親父。俺、今のアスラ……いやヴァルナに挑む自分を想像しただけで、吐き気がしてきたよ」

 ヴォルフは、モニター越しに伝わる圧倒的な神技に、ただ圧倒されていた。


「カイお兄様……。なんて、なんて美しいのかしら。でも、恐ろしいですわ」

 マリスが胸元を押さえ、モニターを見つめる。 

 彼女の瞳には、その背後に透けて見えるような「人外の深淵」が映っていた。


「ねえ、マリアさん。カイお兄様、本当は目が15個くらいあるんじゃないの? じゃないと、あんな後ろの死角からの射撃を揺れるだけで避けてから、即反撃なんて無理だよ!」

 エルザが純粋な恐怖を口にする。

 マリアは、ひきつった笑みを浮かべた。

「エルザ大尉、データ上はね……カイ少将の反応速度、入院前より15%も上がってるの。一体、どうなっているのかしらね」


 そんな雰囲気の中、指揮所の一角は、春のような陽気に包まれていた。

 カミラはうっとりと目を潤ませている。

「理屈なんてどうでも良くなっちゃいます!カイ少将ってカッコいいですね!」

 エルザが同意しました。

「私もそれは同意!カッコいいよね!」

 そして、車椅子に座り、キャッキャと声を上げて喜ぶミナ。

「あはは! 見て見て、カミラさん! カイったら、さっきの旋回、少しだけ軸がブレたわね。退院したばかりだから、まだ少し動きが硬いわよカイ! ほら、もっと腰を入れて!」


「……ミナ。あ、あの動きを見て『硬い』と言うのか?」

 シュミットが呆然と問いかけると、ミナは太陽のような笑顔で振り返った。

「そうよ! 彼はもっと飛べるわ。……ねえカイ! ハインツさんの左腕、まだ遊んでるわよ! 徹底的に叩き直してあげなさい!」

 ミナの声が無線で飛ぶ。

「分かっていたさ!ミナ」

 その瞬間、ヴァルナが咆哮した。

 物理的に歪められた152mmの弾道が、ハインツのルシフェルの左手に訓練弾が二発当たる。

 同時にパイルバンカーの衝撃波が背後に突き刺さる。

「判定、ルシフェル戦死!……さあ、ソルガさん、また残り一機よ!頑張って!」


 ミナの残酷なまでの激励が響き渡る。

 それを見ていた中隊員たちは、一様に同じことを考えていた。

(ミナってちゃんと理解してたの?あの機動……あの夫婦だけには、一生逆らわないようにしよう)


 夕刻。

 泥を跳ね上げ、蒸気を吐き出す三機の鋼鉄。

 そのハッチが開き、静寂が訪れた訓練場に「人外の会話」が響き渡りました。


「隊長! さすがです!」

 ハインツがルシフェルのハッチから飛び出し、興奮を隠せない様子でカイに駆け寄りました。

 その瞳には、敗北の悔しさなど微塵もなく、ただ純粋な武人としての敬意が宿っています。

「今のライフル弾をパイルバンカーで撃ち返してソルガに当てたのは、一体どんなコツがあるのですか? あんな芸当、私は見たこともありませんぞ!」


 カイは、ヴァルナの肩に腰掛け、白い眼帯を指で直しながら事も無げに応えました。


「ああ、あれ? 訓練用パイルバンカーとライフルなら誰でもできるよ。……だって、遅いんだもの」


「お、遅い……?」

 ハインツが絶句します。

 音速を超えるはずの訓練弾を「遅い」と断じ、あろうことか近接武器であるパイルバンカーを撃ってライフル弾に当てて弾き返し、あべこべに、それを撃ったソルガへ叩き込む。

 その超次元の感覚は、片眼を失い、死線を越えたカイが手に入れた「新しい視界」なのか。

 いや、カイの話し方からすると、以前からこの程度の機動は「当たり前」なのかもしれない。

 一方、その光景を指揮所のモニターで見ていたシュミットは、隣にいるアランに話しかける。


「………アラン、今のライフル弾、見えたか?」


 隣で、冷や汗を拭いながら画面を凝視していたアランが、力なく首を振りました。


「中佐、無理ですよ……。見えてたら、俺もあの人と同じ『バケモノ』になってますって」


 その光景を、車椅子から身を乗り出して見ていたミナが、キャッキャと笑いながら手を叩きました。

「良かったわよ、カイ! でも、さっきのパイルバンカーの振り、ちょっとだけ脇が甘かったわよ。だから弾道が少し左に寄ったの。次は気をつけなさい!」


「わかってるよミナ。俺もそう思ってたんだ。次はもっと真ん中で捉えてみせるよ」


 カイの快活な返事に、演習場にいた全隊員が(アレを次もやるのか!?)と心の中で一斉に絶叫しました。

 彼らは知ってしまったのです。カイ・イサギという男は片眼を失っても、何も変わらないのだと。

 カイは思った。

 明日からは中隊員全員と、模擬戦をやってみようと。


 大和の巨大な船体は、夜の帳に沈んでいた。

 大食堂の端、配膳用の大型カウンターの陰。

 そこには不自然な熱気と、現像液の酸っぱい匂いがわずかに漂っている。


 プラチナブロンドを燃えるような赤いリボンで結んだカミラは、周囲を「全周索敵」するように見回しながら、一歩、また一歩とその「禁断の市」へと近づいた。

 彼女の足取りは、エリート中隊のオペレーターらしい正確なものだったが、その指先はわずかに震えていた。


「……ユイ。例のものは」


 待ち構えていたユイは、重厚な木箱をカウンターに置いていた。

 箱の中には、銀塩印画紙に焼き付けられた「現物」のブロマイドが、カテゴリーごとにぎっしりと並んでいる。

 半導体のないこの世界において、写真は「複製可能なデータ」ではない。

 暗室で一枚ずつ手間暇かけて焼き上げられた、質量を持った「一品物」だ。


 ユイはニヤリと笑い、一番手前の束をカミラの前に広げた。


「……ッ!!」


 カミラは危うく悲鳴を上げそうになり、咄嗟に口を押さえた。

 印画紙の光沢の中に、退院したばかりのカイ・イサギがいた。

 病衣の前をはだけ、包帯の巻かれた逞しい胸板と、アスラの座席で研ぎ澄まされた広背筋。

 滴る汗が、照明を反射して真珠のように輝いている。


「入院中の……ほとんど裸じゃないですか……! しかも、この解像度……」


 カミラは震える指で、その一枚を手に取ろうとした。

 横には、旧機体『アスラ』の煤けた装甲を背負う、軍服姿の少将も並んでいる。

 こちらは歴史的価値すら感じる「凛々しさ」の極致。

 だが、それらはどれも驚くほど高価だった。


「どうして、こんなに高いの? この、裸の少将のセット……」


「カミラさん、よく見てください。これ、ただの印画紙じゃないですよ」


 ユイは一枚を手に取り、傾けて見せた。表面に、不自然なほど滑らかで硬質な光沢がある。


「『整備班特製・透明樹脂コーティングバージョン』です。シュテルツァー装甲の防錆コーティングに使われる、特殊な耐候性樹脂を真空蒸着させてあります。指紋もつかない、湿気も吸わない。戦場で硝煙に巻かれても、百年後までこの『筋肉』は劣化しません」


 カミラは、おもむろに財布を開いた。

 中には、整然と並べられた高額紙幣。

 倹約して積み上げてきた貯蓄が、いま、「一生モノの裸体(コーティング済み)」という抗いがたい誘惑の前に差し出されようとしていた。


「これ……と、これ。それから、この、少し斜めを向いているものも……」


 カミラが選別し、まさに取引が成立しようとしたその時。

 背後の通路に、バサリ、と重厚な布の擦れる音が響いた。

 大仰なマントを翻し、周囲を不自然にキョロキョロと見回しながら近づいてくる、あの巨大な威圧感。

(べ、ベルナール中将!?)


 カミラは心臓が口から飛び出しそうになった。 ダメだ。

 今の自分は、艦橋で見せている有能な中枢要員ではない。

 ほとんど裸の少将の写真を、食い入るように物色している一人の不審者だ。


 もし、閣下に「自分が買おうとしているラインナップ」を覗き見られでもしたら……。あの豪快な英雄は、明日からの朝礼で私を見るたびに、腹を抱えて笑い転げるだろう。

「……っ!」


 カミラは、指先が触れかけていたコーティング版のカイを置き去りにし、脱兎のごとく走り去った。

 プラチナブロンドのポニーテールが、悲鳴を上げるように激しく揺れる。

 曲がり角に消える直前、彼女は振り返った。

 その目には、「明日まで、あの筋肉が誰にも買われずに残っているだろうか」という不安と、欲望を貫けなかった己への絶望で、大粒の涙が浮かんでいた。


 一人残されたユイは、キョトンとして立ち尽くした。

「……あーあ。いい客だったのにぃ」


 そこへ、ベルナール中将がゆっくりと歩み寄った。

 マントの裾を払い、彼はカウンターに並ぶ「現物」の束を、慈しむような目で見つめた。

「あ、あの……中将? ブロマイドですかぁ?」


 ユイが恐る恐る声をかける。

 だが、ベルナールが大きな手で手に取ったのは、最新のコーティング技術も、裸の英雄も関係ない、一番端に置かれた「通常印画紙」の、ごく普通の写真だった。

「……これを貰おう。一枚、いくらかな」


 それは、二枚の写真だった。

 ユイはそれを見て、自分の心拍が跳ね上がるのを感じた。


「えっ……!? また、わたしぃーーーっ!?」


 一枚目は、アスラの出撃シーン。

 だが、ピントの中心は巨大な人型機ではない。 

 激しい轟音の中、甲板で祈るように、しかしどこか誇らしげな表情で立ち尽くす、ユイ自身の横顔だった。


 二枚目は、三姉妹に囲まれて笑うユイ。

 そこには、自分でも気づかなかったような、心底からこの艦の仲間を愛している少女の、屈託のない笑顔が焼き付けられていた。

「……閣下。これ、私がメインになっちゃってる、いわばボツ写真ですよ?」


 ベルナールは、銀塩写真の独特な手触りを楽しむように指でなぞり、ゆっくりと内ポケットへ収めた。

 その、無数の修羅場を越えてきた瞳には、厳しい司令官の顔ではなく、愛しい娘を見つめるような、深くて重い「父」の光が宿っていた。


「……ユイ。私はな、ただ大切にしたい日常を持ち歩きたいだけなのだよ」

 ベルナールは、マントを翻して歩き出した。 「コーティングなど不要だ。写真は、時と共に色褪せるからこそ、尊いのだからな」


 一人残されたユイは、カメラを抱きしめたまま、茹で上がったタコのように顔を真っ赤にして立ち尽くした。

「……日常はわかるけど、なんで日常がわたしなの……?」


 その夜。

 自室で赤いリボンをほどき、真っ赤な目で天井を見上げるカミラと、自室で現像用バッグを抱え、恥ずかしさで足をバタつかせるユイ。


 英雄たちの休息は、一枚の印画紙に込められた、それぞれの「思い」に揺られながら、静かに更けていくのであった。


 

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