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第92話 鋼鉄

 一九八四年六月二十七日。


 中隊の待機は続いていた。

 副長ハインツが「代わって隊長になる気など毛頭ない。俺より弱い奴を隊長などと認めるか。彼が居ないのであれば、この中隊は即刻解散だ。我らが隊長として仰ぐのは、後にも先にもカイ・イサギ少将ただ一人である」と冷徹な口調で参謀本部を突き放し、官僚たちを震え上がらせていたからである。


「おはよう、カイ。……ふふ、やっぱり貴方の隣は、一番よく眠れるわ」

 パジャマ姿のミナが、目覚めたばかりのカイの首筋に顔を埋め、慈しむように撫で回す。

 その反対側では、アンジャリ、マリス、エルザの三姉妹が、まるで雛鳥が親鳥に群がるようにカイの腕や肩に吸い付き、ペタペタと触りながら生存確認に勤しんでいた。


「カイお兄さま、もう離さないんだから! 出る時は一緒だからね! 本当に危なかったんだから! 私が一緒に居ればこんな事にならなかったんだからね!」

「そうですわ、カイ様。今だって、本当に生きていらっしゃいます?」

 そんな桃源郷か、あるいは多脚機シュテルツァーに押し潰されているような光景を、廊下から覗き込む男たちの視線があった。


「……幸せ者だな、隊長。あんなに撫で回されて、意識が飛ばないのが不思議なぐらいだ」

 ソルガが呆れ半分、安堵半分で溜息をつく。その横で、ガリアスがデカい声を上げた。


「ガッハッハッハ! 聞いたぞカイ! アレで目覚めるとは流石だぜ! 嫁さんの『愛の出力』が、マンガニス反応炉より凄かったってわけか!」

「親父ッ! ミナさんの前でそんなデリカシーのないこと言うなよ!」

 ヴォルフが顔を真っ赤にして父親の脇腹を小突くが、ガリアスの笑いは止まらない。


「えっと……だから、私たちは何も言ってないんですけど……」

 廊下の隅で、ユイとユキが力なく呟く。

 彼女たちが伝えた「添い寝」という事実は、中隊の男たちの脳内で、すでに「国家機密級の熱い何か」へと変換され、定着してしまっていた。


 その時、一歩前に出たシュミットが、真剣な顔でカイに問いかけた。

「カイ……単刀直入に聞く。その左眼……シュテルツァーは片目で操縦できるのか?」


 病室の空気が一瞬、現実に引き戻される。

 だが、カイはミナの髪を撫でながら、事も無げに答えた。

「どうかな。試してみないと分からないけど。……でも、もともとあんまり『見て』ないからな」


「は? 見てないって……どういうことですの?」

 マリスが首を傾げると、カイは当然の理を説くように続けた。

「レバーとかペダルなんて、何となく操作してるだけだし。敵に照準を付ける時も、一瞬、網膜の端に入れば十分だろ? 右の敵にパイルバンカーを叩き込む瞬間には、もう左側の次の標的を見てるしな」


「……見るでしょうって、そんなのムリすぎだわ! 物理的に首が回ってないじゃない!」

 アンジャリが絶叫し、アランは戦慄して一歩下がった。

「……敵うはずねぇ。あの人は、目じゃなくて『殺気』のレーダーで世界を見てやがる……」


「えー、わたしもそんな感じで操縦するよ? 考える前に身体が動いちゃうもんねー」

 エルザがケラケラと笑うと、ハインツが深い溜息をついた。

「……まあいい。療養が終わったら実機で試すがいいさ。弾がかすりでもしたら異常事態だと、俺とソルガで徹底的に叩き直してやる。……隊長がいなくなる心配は、どうやらなさそうだな」


 そう言って笑ったソルガの視線が、ふと病室の棚に止まった。

「……ところで、なかなか良い趣味だな。この病院の備品か?」


「ああ、それか。ミナが前の病院から持ってきたんだ。中隊のみんながミナのお見舞いに持って来てくれた物だよ」

 カイが誇らしげに指し示した先には、朝日を浴びて不気味に輝く、巨大な赤い邪悪な紋様が刻まれた「般若の面」が鎮座していた。

 その隣には、鮭を捨てて鉄塊を抱いた「パイルバンカー木彫り熊」が不敵な面構えで座り、さらにその横には「パイルバンカー」と力強く墨書きされた二振りの木刀が、魔を退けるように十字に立てかけられている。


「……東洋の呪物じゃないか。どんな心理療法だ」

 ハインツが戦慄する。

 だが、その呪物たちを見上げながら、背中に『海だ!男だ!パイルバンカー!』と書かれたTシャツを着たミナが、最高に幸せそうな笑顔で笑っていた。


「いいじゃない、ハインツ大佐。これがあるから、カイは一秒で戻ってこれたんですもの。世界で一番、効き目のあるお守りなのよ」


 般若と、パイルバンカー熊と、そして世界最強の変人たち。

 スターアイルズ大東亜記念病院のその一室は、医学を超越した「絆」という名の熱気に、今日も満ち溢れていた。


「信じられません。医学的には死んでいてもおかしくない数値だったのに……。あとは体力さえ回復すれば、いつでも退院して良いですよ」

 主治医が、手元のカルテと、あまりに血色の良いカイの顔を交互に見て、狐につままれたような顔で告げた。

 するとカイは、まるで散歩にでも行くような軽い口調で応じる。


「そうか。じゃあ、今日にでも退院しようかな」

「ダメよ! ちゃんと全快するまで居なさい!」

 ミナが即座に、しかしどこか嬉しそうにカイの二の腕をパシッと叩いた。

 その様子をベッドの足元で見ていたエルザが、シーツをバタバタさせながら笑い転げる。


「あはは! カイお兄さま、ミナさんに怒られちゃった! 英雄も奥様には敵わないね!」


 病室が和やかな笑いに包まれる中、カイはふと、窓の外の青い空を見つめ、少しだけ寂しげな表情を浮かべた。


「……なぁアンジャリ。俺の『アスラ』、あの戦いでボロボロになっちゃったよな。もう、直らないのか?……」


 あの大乱戦の中、限界を超えてマンガニス粒子を吐き出し、敵の集中砲火を浴び続けた愛機の最期を思い出し、カイの肩が落胆に揺れる。

 だが、アンジャリは隣でクスクスと、悪戯が成功した子供のように笑った。


「ふふ、カイ。ウチのメカニックをなめないで。あの整備班長、なんて言ったと思う? 『あの機体を何回バラして、何回地獄から引き戻したと思ってやがるんだ! 一ヶ月で新品より綺麗に直してやるぜ!』って、鼻息荒く豪語していたわ」

「えっ、あのアスラが……直るのか?」


「直るどころか、マリスなんて毎日愚痴をこぼしていますのよ」

 マリスが右手を口元に当てて、呆れたようにため息をつく。

「大和では夜も寝られませんわ。整備班が毎日、お祭り騒ぎで徹夜してハンマーを叩き、火花を散らしているんですもの。閣下の機体が治るまでは、艦内は安眠禁止だそうですわよ」


「そうよ、カイ! 機体が治るまで、あんたはちゃんと入院しておきなさい!」

 ミナが、今度は両手でカイの頬を挟んで、ぐいっと自分のほうを向かせた。

「えっ? 体力が戻るまでじゃなくて、機体が治るまでなの?」


「そうよ! 貴方がそんなに早く動けるようになっちゃったら、せっかくのこの時間が終わっちゃうじゃない。……私、寂しいでしょ!」

 ミナが少し顔を赤くして、子供のように唇を尖らせる。

 その可愛らしい「命令」に、中隊の男たちは頭を抱え、ユイとユキは慌ててシャッターを切った。

「……了解だ、ミナ。機体が直るまでは、ここで君に甘えることにするよ」


 カイが降参したように笑うと、病室の棚では、般若の面とパイルバンカー熊が、朝日を浴びて一段と誇らしげに輝いていた。


 翌日。

 ミナは、ベッドの横で腕を組み、静かに、だが確実に引き攣る頬を押さえていた。

(……これ、お見舞いじゃないわよね)

 視線の先では、アランが救出されたばかりの妻エマを連れてきていた。

 それは実に喜ばしいことであるが、持参したはずの高級フルーツの籠は、今や彼ら自身の「愛の粒子」を振り撒くための道具に成り下がっていた。


「ほら、エマ。この苺は君の唇のように瑞々しいよ。さあ、アーンして」

「もう、アランったら……。でも、貴方の剥いてくれたリンゴの方が甘いわ。はい、アーン……」

 病室の角で、二人はもはや自分たちだけの宇宙に没入していた。

 カイの生存確認は開始五秒で終わらせ、今は互いに果実を口に放り込み合う、砂糖をぶちまけたような甘い時間が流れている。


「……ねえ、アラン大尉。そこ、病人の前なんですけど?」

 ミナの冷ややかなツッコミは、アランの耳には届かない。

 彼はエマの指先についた果汁を拭き取ることに全神経を集中させていた。


 一方、肝心の主役、カイ・イサギ少将はといえば、ミナが差し出したお粥を放置し、シュミットと並んで、武骨なカタログを食い入るように見つめていた。


「なるほど……シュミット。ゲルマ・リキの鉄器というのは、これほどまでに熱伝導率が良いのか。米も炊けるとは驚きだ」

 カイの目は、戦場でのアスラを操る時と同じくらい鋭く輝いている。

「ああ、カイ。鋳物の厚みが違うのだ。密閉性が高いので、無水調理も可能となる。野営でこれを使えば、兵士の士気は三割増しになるに違いない。……見てくれ、この取手の剛性を」


「いいな……。この無骨な仕上げ、パイルバンカーの薬莢受けに似た美学を感じる。退院したら一つ、中隊に導入しようか」

 重傷を負って意識不明だったはずの男が、今や「鉄鍋の剛性」について熱弁を振るっていた。ミナは呆れ果てて天を仰いだ。


「ちょっと、カイ! 貴方、いま自分が何の療養中か分かっているの? 片目なんだから、そんな細かい字を読み込まないで!」

「ミナ、これはただの鍋じゃない。武人の精神が宿った鉄塊なんだ」

「意味がわからないわよ!」


 ミナの絶叫が響く中、アンジャリはゴボウのぬいぐるみを抱きしめながらクスクス笑い、三姉妹は「パイルバンカー熊」にピンクのリボンを巻きつけて遊んでいる。

 ユイとユキは、そのカオスな光景を必死に撮影していた。


「……ユイ、これ記事にする時、どう書けばいいのかな」

「『英雄、鉄鍋の魅力に敗北。病室は愛の戦場に』……かな」


 一九八四年七月五日、昼下がり。

 スターアイルズ大東亜記念病院の特別病室は、今日も平和な騒音に包まれていた。

 ミナは思わずため息をつきながらも、どこか楽しそうに笑うカイの横顔を見て、結局は自分も少しだけ笑ってしまうのであった。


 その日の昼下がり、ミナの堪忍袋の緒が、物理的な重みに耐えかねてついに弾けた。

「カ――イ――!!」


 病室に響き渡る、妻の鋭い声。

 カイは、ベッドの上で「ゲルマ・リキ製・超厚肉ダッチオーブン」という、調理器具というよりは戦車のハッチに近い物体を撫でていた手を、ぴくりと止めた。

「……また鉄の調理器具、買ったわね? しかもこれ、昨日より増えているじゃない!」


 ミナが指差したのは、例の「パイルバンカー熊」や「般若の面」が鎮座する棚の、さらにその下であった。

 そこには、一見すると不発弾の山に見えなくもない、真っ黒な鋳鉄製のスキレット、ダッチオーブン、そして用途不明のプレス機が、一糸乱れぬ整列を保って並んでいた。


「買うなとは言わないわ。貴方のお金だもの。でも、入院中にこれ以上増やすのはやめてって言っているの! どこに置くのよこれ。第一、病室じゃ火も使えないわよ!」


「ミナ……誤解しないでくれ。これは、ただの鍋じゃない。この鋼材の熱伝導率と蓄熱性は、長距離狙撃の際、砲身の冷却バランスを考慮するのと似た美学がある。……ほら、この蓋の重みを見てくれ。圧延鋼板にも劣らぬ剛性を感じないか?」

 カイは至って真面目な顔で、五キロはあろうかという鉄鍋の蓋を軽々と持ち上げ、盾のように構えて見せた。

「感じないわよ! そもそもここは最上階の特別病室よ、敵の襲撃なんて来ないわ!」


 ミナの正論を横目に、シュミットが感心したように頷く。

「なるほど……蓋を盾に、本体を鈍器として。さすがカイだ、調理器具にまで戦術的視点を忘れないとは」

「シュミット、貴方も同調しないで! 貴方がカタログなんて持ってくるから!」


 エルザが横から笑いながら、一番小さなスキレットを手に取った。

「あはは! これ、重ーい! でもミナさん、これで焼いたお肉は美味しいんだってさ。カイお兄さま、退院したらこれで美味しいの作ってくれるんでしょ?」


「ああ。マンガニス燃焼室を参考にした、理想的な火加減を再現してみせる。最高の一皿を約束しよう」

「だから、軍事技術の理論を台所に持ち込むのはやめてってば……」


 ミナは頭を抱えたが、棚の隅で、パイルバンカー熊が心なしか「いい仲間が増えたな」とニヤリと笑っているように見えた。

 英雄の報酬。

 それは、かつての死闘を潜り抜けた代償として、平和な日常に「あまりに重すぎる鉄の山」を築き上げているのであった。

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