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第91話 生命

 大東亜・エウロ連合軍の歴史的な勝利に沸く島内において、そこだけが別の時間が流れている場所があった。  


 スターアイルズ大東亜記念病院。  

 最新鋭の設備を誇るこの病院の最上階、厳重な警備が敷かれた一室に、カイ・イサギは収容されていた。

 華々しい肩書きとは裏腹に、この病室には、誰の目にも明らかな「死神」がじっとりと根を張っているのが分かった。  

 無機質な医療機器の電子音だけが、英雄に残されたわずかな時間を刻んでいる。


 艦隊と機体の補修、そして消耗した人員の回復のため、リヴァイアサン中隊には二週間の「待機」が命じられていた。

 だが、隊員たちに休まる暇はない。彼らの精神的支柱であるカイの意識が、一向に戻らないからだ。  

 中隊員たちは、交代で何度も見舞いに訪れていた。

 そこで彼らが目にしたのは、未だに意識の戻る兆候が無いカイの姿だった。

 血液が、体温が足りないのである。


 そして、その傍らには常に二人の影があった。  広報官のユイとユキである。  

 彼女たちは、なりふり構わず薄着になり、ベッド上のカイを左右から挟み込むようにして、自らの体温を必死に移そうと張り付いていた。

 それは「看護」という言葉では言い表せない、執念に近い献身だった。

 中隊員たちは、その痛々しいまでの姿に、ただ祈るような気持ちで彼女たちを応援するしかなかったのだ。


 一九八四年六月十日。  

 その病室の重厚な扉が、勢いよく開け放たれた。

「……失礼するわね」

 車椅子に乗せられ、だが鋭い眼光を放つ女性――ミナ・イサギが、ついに戦地へと「降臨」した。  

 自らの再建手術の痛みを意志の力でねじ伏せ、強引な転院をもぎ取った妻の姿に、病室にいた中隊員たちは色めき立った。


「ミナ! よくぞ……よくぞ無事で!」

「歓迎します、ミナさん!」


 シュミットやアラン、そして三姉妹が弾んだ声で迎える。

 しかし、ミナの視線は彼らを通り越し、一直線にベッドへと向けられた。  

 そこには、愛する夫カイと、その肌に密着して眠るように寄り添う「どこの馬の骨とも知れない小娘たち」の姿があった。

「…………ちょっと。あれ、どういう状況?」


 眉間にシワを寄せたミナの低く、静かな声が病室の温度を数度下げた。  

 アランとシュミットの背筋に、戦場以上の戦慄が走る。


「あ、いや! ミナさん、これには海より深い事情が!」  

 アランが冷や汗を飛ばしながら割って入る。 「そうですよ! 少将の体温が異常に低くて、彼女たちが命がけで温めているんです! いわば、人間ヒーターというか、緊急避難的な……!」


「人間ヒーター?」  

 ミナの眉がぴくりと動く。

「左右から? 私がいない間に、夫のベッドで、そんな『破廉恥な延命治療』が流行ってるわけ?」


「ち、違います! 彼女たちの『熱意』があまりに凄くて、我々も止めるに止められず……というか、むしろ推奨していたというか!」  

 シュミットの言い訳は、もはや墓穴を掘るばかりだった。

「……ユイ軍曹、ユキ軍曹と言ったかしら。そこを退いてくれるかしら?」


 ミナは車椅子から立ち上がろうとする。

 付き添いの看護師が止めようとするが、その気迫に押され、ユイとユキが弾かれたように顔を上げた。  

 薄着で、髪を乱し、涙目でカイに縋り付いていた二人は、本物の「妻」が放つ圧倒的なオーラに蛇に睨まれた蛙のように硬直した。


「あ、あの……ミナさん。私たちはただ、少将を助けたくて……」

「そうよ、本当に冷たくて、死んじゃいそうだったから……」


 震える少女たちの声。

 だが、ミナは彼女たちを突き放す代わりに、ベッドの端に手をかけ、夫の蒼白な顔を見つめた。 「……バカね、カイ。こんなに可愛い子たちに囲まれて温めてもらっているのに、まだこんなに冷たいなんて。どれだけ強情なのよ、貴方は」


 ミナの目から、溜まっていた熱い涙がポロリとこぼれ、カイの頬に落ちた。  

 彼女はゆっくりと、夫の冷たい手を自分の胸元へと引き寄せる。

「代わってくれる?……ここからは、イサギ家の領分よ」


 スターアイルズ大東亜記念病院。  

 勝利の喧騒から隔絶されたその一室で、正妻ミナによる、執念の「奪還作戦」が幕を開けた。

 病室に流れていた張り詰めた沈黙。

 アランとシュミットが息を呑み、ユイとユキが審判を待つ罪人のように項垂れる中、ミナ・イサギはゆっくりと動いた。


 彼女は、車椅子から震える足で立ち上がった。 

 看護師が慌てて支えようとしたが、ミナはその手を静かに、しかし拒絶できない力強さで制した。 

 一歩、また一歩。

 手術の傷跡が引き攣る痛みを、彼女は表情一つ変えずに飲み込む。


 ミナは、ベッドの右側に張り付いていたユイの前に立った。  

 怯え、震える少女の肩に、ミナの細い手がそっと置かれる。

「……あ、ミナさん、私……」


 ユイが言いかけるより早く、ミナはその手を滑らせ、ユイの冷え切った頬を包み込んだ。

 そして、もう片方の手で左側にいたユキの手を強く握りしめた。

「貴女たちの体温、確かに伝わっているわ。……ありがとう」

 その声は、予想されていた怒りの雷鳴ではなく、凪いだ海のように穏やかだった。


「わたしも、今のこの人の容体は聞いたの。意識が戻らない事も。血液も体温も足りないことを。この人が凍りつかずに済んだのは、貴女たちが自分の命を削ってまで、この人の側にいてくれたからだとね。……一人にさせなかったこと、妻として心から感謝するわ」


 ユイとユキの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。  

 嫉妬をぶつけられるよりも、責められるよりも、その感謝の言葉は彼女たちの心を激しく揺さぶった。

 自分たちがしてきたことは間違いではなかった。

 その救いと同時に、目の前の女性が持つ「妻」という立場、その計り知れない重さを思い知らされたのだ。


「でも、ここからは私の番よ」

 ミナは二人を優しく促し、ベッドから離れさせた。

 代わって彼女は、点滴の管を引いたまま、カイの胸元にそっと自分の顔を寄せた。


「貴女たちの『熱』は、確かに出口を見つけるための道標になった。……でもね、この人は強情なの。きっと私の声で、私の心臓の音を直接聞かせないと、納得して帰ってこないんだから」

 ミナはカイの冷たい右手を自分の左手で包み、それを自分の頬に当てた。

「アラン大尉、シュミット中佐。……そしてみんな」


 ミナはベッドに身を横たえ、カイを抱きしめながら、背後で見守っていた中隊員たちを振り返った。

 その瞳には、かつてリヴァイアサン中隊の一員として、中隊の生殺与奪を預かっていたオペレーターとしての鋭い輝きが戻っていた。


「見てなさい。一週間以内に、この人を『人間』の体温に戻してみせるわ。……待機期間が終わるまでに、いつでも出撃できるように準備しておきなさい。……いいわね?」


「……ハッ! 了解いたしましたッ!!」

 シュミットとアランは、まるで上官にするかのように直立不動で敬礼した。

 三姉妹も、涙を拭いながら力強く頷く。


 ユイとユキは、病室の隅で重なり合うように座り込み、その光景をただ見つめていた。

 自分たちのカメラでは決して捉えきれない、魂と魂が結びつく瞬間。    


 スターアイルズ大東亜記念病院。


 六月の生暖かい風が窓から吹き抜ける。  

 冷たかったカイの指先が、ミナの体温に触れ、ほんのわずかに、本当にわずかに、赤みを帯び始めた。

 病室の空気は、張り詰めた緊張から一転して、静謐な祈りの時間へと移ろおうとしていた。


 抱きしめるという行為は、ミナの体には強い負担を強いるものであった。

 手術後の傷が疼き、身体は鉛のように重い。

 だが、カイの肌に触れた瞬間、その冷たさがミナの芯まで突き刺さった。

(なんて冷たさなの……でも、温めてあげる。どこへも行かせないわよ、カイ)


 ミナがその細い腕をカイの胸に回し、自らの鼓動をぶつけるようにぴったりと寄り添った、その刹那だった。

 「――ん……?」


 低く、微かな、だが確かに聞き覚えのある掠れた声が、枕元で響いた。  

 ミナの肩がびくりと跳ねる。

 抱きしめていた「氷の身体」に、爆発的な勢いで生命の脈動が駆け巡ったのを彼女は肌で感じていた。


 「おは…よ…ミナ……」


 まるで、昨日少しだけ寝過ごしただけの朝のように。  

 あるいは、ただのうたた寝から目覚めた主人のように。  

 カイ・イサギは、失明したはずの左眼を包帯の下に隠したまま、残された右眼をごく自然に、そして穏やかに開いた。


「…………えっ?」


 ミナは、言葉を失った。  

 「一週間以内に戻してみせる」と豪語したのは自分だが、添い寝を始めてからわずか「一秒」での覚醒は、あまりに予想の枠を超えていた。


 病室にいた全員が、彫像のように硬直した。  車椅子を押していた若い看護師は、あまりの衝撃に持っていたバインダーを床にばら撒いて、金魚のように口をパクパクと開閉させている。


(え? いま、喋った……? 脳出血に内臓破裂、意識不明の重体で、大量の骨折。体温も死人並みだったはずの人が、添い寝された瞬間に起きたの? この人、奥様が好きすぎて、心拍計の数値を愛の力で無視したの!?)

 看護師の頭の中で、これまで学んできた医学の教科書が音を立てて崩壊していく。


「カイ……? 貴方、いま……喋ったの?」


 ミナが震える声で問いかける。

 カイは、まだ焦点の定まりきらない右眼を細め、少しだけ困ったように微笑んだ。

「……喋さ…………ミナが……」


「隊長ッ!!」

「カイッ!!」


 病室の隅で息を潜めていたシュミットとアランが、我慢しきれずに叫び声を上げた。

 マリアとカミラが、ユイとユキが、互いに手を取り合って泣き崩れる。


 スターアイルズ大東亜記念病院。


 一九八四年 六月十日


 医学が敗北し、愛が勝利した瞬間。    

 ミナは、ようやく実感が追いついてきたかのように、カイの胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。 「バカ……! 本当に、大バカなんだから……!」


 カイは、点滴に繋がれた自由の利かない手で、不器用ながらもミナの背中をそっと撫でた。

 病室にはもう「死神の影」など、どこにも残っていなかった。


 スターアイルズ大東亜記念病院の長い廊下。  

 ユイとユキは、手にした受話器を握りしめたまま、しばらく顔を見合わせた。


「……ねえ、ユキ」

「……わかってる。言わないで」

 ユイが虚空を見つめて呟く。

「私たち、十日間……不眠不休で、それこそ肌を合わせるようにして温めてたよね。

あの冷たかった身体」

「……うん。でも、ミナさんが隣に横たわった瞬間に、一秒で『おはよう』だもんね。私たちの十日間、一体なんだったんだろうね……」


 二人は、自分たちの入る隙間など原子一つ分も残されていないことを、残酷なまでの「奇跡」で見せつけられていた。

 けれど、その瞳には悔しさよりも、圧倒的な力を見せつけられた後のような清々しさが混じっている。  

 二人は気を取り直すと、震える指でリヴァイアサン中隊の待機所へとダイヤルを回した。


 ――ガチャリ。


「リヴァイアサン中隊、ソルガだ」

「あ、ソルガ中佐! 私です、ユイです! 報告です、カイ少将が、いま、意識を取り戻しました!」


 受話器の向こうで、何かがひっくり返るような音がした。

 ハインツがコーヒーをヴォルフの顔に吹き出しながらカップを落としたのだ。

「何だと!? ミナが添い寝をしただけで意識が戻っただと!? バカな! ハインツ副長! 聞いたか! カイの奴、妻と〇〇したら起きたらしいぞ!!」


 受話器から漏れ聞こえるソルガの野太い絶叫と、何かが連続で割れる音を聞いた、ユイは顔を真っ赤にして慌てて割り込んだ。


「えっと、ソルガ中佐! 〇〇とかいやらしいこと言わないでください! そんなこと誰も言っていないんですけど! ただ横に並んで添い寝しただけです!」


「ガッハッハッハ! さすがカイだぜ。戦場の阿修羅も、嫁さんの色香には勝てなかったってわけか。まあ何だ、〇〇で目が覚めるとはなぁ。男のかがみだ!」


 ガリアスの豪快な笑い声の向こうから、冷徹だがどこか弾んだハインツの声が割り込んできた。

「ハインツだ。……ユイ軍曹、話は聞いた。奇跡というやつはあるのだな。中隊員は全員揃っている。今から全員で病院へ向かうと伝えてくれ」


「はい! お待ちしています!」


「……ただ、ユイ。一つ忠告だ。三姉妹が、報告を聞いた瞬間に制止を振り切って飛び出した。恐ろしい速度でそちらに向かっている。病院の廊下を全速力で駆けてくるだろう。……巻き込まれないように気をつけろ」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、廊下の向こうから「ドォォォォォン!」という、病院内とは思えない地響きが聞こえてきた。


「「来たっ!!」」


 ユイとユキが反射的に壁際に身を寄せた瞬間、視界の端を三色の閃光が通り過ぎていった。


「カイお兄さまぁぁぁぁぁぁ!!」

「カイ様っ! お待ちくださいまし!」

「お姉さま、置いていかないで!」


 エルザが、マリスが、アンジャリが、まさにシュテルツァー並みの加速で角を曲がっていく。

 その風圧に、掲示板の書類が画鋲を伴って中空に何枚も舞い上がった。


 ユイは苦笑しながら、カメラを手にして胸元に構えた。  

 恋の入り口で迷子になっていた自分たちには撮れなかった、でも、この最強で最高の「家族」たちなら撮らせてくれる、本当の意味での「勝利」の瞬間を記録するために。


「……さあ、ユキ。仕事再開だよ。世界一、騒がしくて温かい病院の記録を撮らなきゃ」


「もちろん! 負けてらんないね」


 スターアイルズの空は、呆れるほどに高く、晴れ渡っていた。

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