第101話 諜報機関
『大和』の廊下の一角。
自動販売機の温かい珈琲を手に、リヴァイアサン中隊の「情報源」とも言える三人の女性が、声を潜めて集まっていた。
話題の主は、先ほど通り過ぎたばかりの、あまりにも「親密」な空気感を漂わせた副司令官と広報官の二人だ。
「……ねえ、ちょっと。前から思ってたんだけど、ベルナール閣下とユイって……もしかして、『出来て』ない?」
ユキが、カメラのレンズを弄りながら、確信に近い疑念を口にした。
それに対し、マリアが目を丸くして首を振る。
「いやいや、まさか! 親子でしょ? 四十四歳と十九歳よ? 年齢差を考えなさいよ、ユキ」
だが、その否定に割って入ったのは、意外にも常に冷静沈着なカミラ准尉だった。
彼女は無機質な表情のまま、しかしどこか熱を帯びた声で断言する。
「……年齢差なんて、あの閣下の前では無意味よ。正直、ベルナール閣下なら、私は『アリ』だわ」
「えっ、カミラさん!?」
「他の中年は無理。でも、閣下は別格よ。……あの佇まい、彫りの深い横顔。映画俳優レベルのイケメンじゃない?有名俳優を探したって、あそこまでの色気がある男はなかなかいないわ。そんな男性に『娘』扱いされて、落ちない女の子がいると思う?」
カミラが淡々と、しかし容赦なく核心を突く。ユキもそれに同調するように頷いた。
「確かに……。あの『お父さんごっこ』の噂、微笑ましいと思ってたけど。……実はさっき、二人が閣下の部屋から一緒に出てくるのを見たの。しかも、大休止だって言って、腕を組んで街へ……」
「えええええ!?」
マリアが珈琲を吹き出しそうになりながら叫ぶ。
「それって、もう娘じゃないじゃない! 完全に『妻』の距離感じゃないの!? あの堅物の閣下が、あのユイを……!? ……待って、じゃあ昨夜からずっと一緒だったってこと!?」
「……カミラ准尉、今の時間の閣下のスケジュールは?」
ユキが尋ねると、カミラは手元の手帳をチラリと見て、わずかに口角を上げた。
「……『大休止による個人的な休養』。……完璧なアリバイね。でも、私たちの目は誤魔化せないわ。あの中将閣下の、あの少しだけ満足げな、毒気を抜かれたような歩き方……。昨夜、何があったか想像するのは容易だわ」
「うわぁ……。リヴァイアサンの『氷の貴公子』が、十九歳の女の子に陥落、か。これ、シリチャイ大将が知ったらどうなるかな……」
三人の視線が、二人が去っていった廊下の先へと注がれる。
そこには、自分たちが「完璧な親子」を演じきっていると信じている、哀れなほどに浮かれた男と、愛に染まった少女の影があった。
「尾行よ! 尾行! いくわよ、今、出てったばかりだし、街はすぐそこ。追いつけるわ!」
マリアの鼻息は荒かった。
軍人としての索敵能力を、今、この「スキャンダル究明」に全力投入しようとしている。
ユキはカメラのストラップを首にかけ、作動を確かめる。
「あれ、みんな揃って楽しそうね。……お散歩かしら?」
そこへ通りかかったのは、退院したばかりでまだ少し顔色の白い、だが瞳に知性の光を湛えたミナだった。
「いくわよ、ミナさん! 現場を押さえるわ!」 「え! え! ええええ!? ちょ、ちょっとマリア、引っ張らないで……!」
訳も分からぬまま、ミナは、ある意味最強の「偵察班」に連行され、軍港に隣接する大公園へと向かった。
公園の入り口、大きな木陰に隠れて、四人の女性が息を殺して双眼鏡とレンズを覗き込む。
「……いたわ。前方11時方向、距離40m、ベンチ。……標的確認」
カミラが冷徹な声で「索敵完了」を告げた。
その視線の先には、軍服を脱ぎ捨て、上品なカジュアルウェアに身を包んだベルナールと、花が咲いたような笑顔のユイがいた。
「あれよ……あれを見て!」
マリアが指差した先。
ユイが、自分の持っているソフトクリームを「あーん」とばかりにベルナールの口元へ差し出していた。
あの、鉄の規律を重んじ、常に冷徹な判断を下す「氷の貴公子」ジャン・リュック・ベルナール中将が、一瞬だけ周囲を気にするように視線を泳がせた後……。
「……っ、食べた! 閣下がソフトクリームを食べさせてもらってる!」
「シャッターチャンスよ! 逃さないわ!」
カシャカシャカシャ! とユキの連写音が響く。
「……ねえ、カミラ准尉」
ミナが、呆気にとられたように口を開いた。「中将閣下、あんなに……あんなにデレデレした顔をなさる方だったかしら?」
「いいえ、ミナ少尉。私の記録にはありません。しかしあれは、完全に『男』の顔です。……それも、恋に落ちて理性を半分以上溶かされた男の」
カミラが淡々と分析する中、ユイはさらにベルナールの腕にぎゅっとしがみつき、彼の肩に頭を乗せた。
ベルナールは困ったような顔をしながらも、その大きな手でユイの頭を優しく、愛おしそうに撫でていた。
「お父さんごっこの延長には見えないわね……」
マリアが確信を込めて呟く。
「あれはもう、完全に『中将閣下と若き婚約者』、いえ……『ハネムーン中の新妻』にしか見えないわ!」
ミナは、頬を染めて微笑むユイと、彼女を慈しむように見守るベルナールの姿を見つめ、静かに溜息をついた。
「……愛の力は、最新鋭のシュテルツァーよりも強力なようね。……でも、閣下。これ、シリチャイ大将に知られたら、本当に射殺ものですよ?」
スターアイルズの街角に佇む、テラス席の美しい高級イタリアンレストラン。
その扉を、幸せの絶頂にいるカップルと、それを追う「最強の刺客たち」が次々と潜り抜けた。
「あ、すみません。あのカップルの尾行に最適な、死角のない席にしてください」
無表情でウェイターに告げたカミラに対し、ミナ、ユキ、マリアの三人が同時に「このバカ!」とチョップを食らわせたのは言うまでもない。
どうにか目立たない席を確保した四人は、メニューで顔を隠しながら、数メートル先の「ターゲット」を凝視した。
「……信じられない。ベルナール閣下、店員になんて言えばあんな特等席に通されるのよ」
ミナが驚愕の声を漏らす。
「カイがレストランで気を利かせたらトイレの隣になるのに」
「あー、少将っぽいですね」
二人が案内されたのは、花々に囲まれ、街を一望できる、愛を語らうために誂えられたような席だった。
ジャンは流麗な所作で椅子を引きユイを座らせると、昼間から躊躇なくシャンパンのボトルを注文した。
「ちょっと聞いてよ!」
トイレへ行くふりをして偵察してきたマリアが、顔を真っ赤にして戻ってきた。
「あいつら……『私たちの出会いと未来に乾杯』なんて言ってるわよ! 親子ごっこ!? どの辺が親子なのよ! あの軍のトラブルメーカー、お騒がせじゃじゃ馬のユイが、見たこともないような乙女の顔してベルナール中将のこと見つめてるんだから!」
「……ドルチェを……食べさせ合っている。信じられない」
カミラは双眼鏡(私物)を握りしめ、震える声で報告を続ける。
「なんなの、ドラマなの? あのフレーシェンの貴公子、周りを警戒する素振りすら見せないわ。索敵能力がザルどころか、もう存在してない。……完全に、二人だけの世界よ」
食事を終え、甘い余韻を引きずったまま二人が向かったのは、巨大な回遊水槽が自慢の「スターアイルズ水族館」だった。
暗い館内、青い光が揺れる幻想的な空間で、四人は再び壁に張り付いた。
「つ、次は水族館!? デートコースの王道じゃないの!」
マリアの悲鳴が水槽の泡に消える。
そして、巨大な水槽の陰、色とりどりの熱帯魚が舞う前で、二人の影が一つに重なった。
「……えええええええええっ!?」
四人の絶叫が、幸いにも館内のBGMにかき消される。
カメラを構えていたユキの手が、激しく震えた。
「……今、キスしなかった? ねぇ、したわよね!? ……ええと、親子ってキスするんだっけ?」
ユキは動揺を隠せない。
「……いや、人によってはするのね? エウロ欧州連合の方とか。……でも、口!? 口にする親子がこの世にいるの!? 完全に、ディープなやつだったわよ!」
マリアが混乱しながらも、変なフォローにまわる。
「エウロでもしないわよ!」とカミラが小声で叫ぶ。
「ユキ、みんな、落ち着きなさい……写真は……写真は撮ったのね!?」
ミナが詰め寄る。
「バッチリよ……! ジャン・リュック・ベルナール中将、十九歳の部下に水族館で撃沈の図。これ、明日には艦隊の歴史が変わるわ……」
カミラは静かに手帳に記した。
『ターゲットは完全に無力化。もはや軍人としての機能は停止。ただの、愛に狂ったフレーシェン男へと退行したと断定する』。
二人が水族館を出て、夕暮れの街へと消えていく。
その後を追う四人の影には、もう呆れを超えた、何とも言えない敗北感と、明日からの「取り調べ」への並々ならぬ執念が宿っていた。
偵察班の四人が水族館で絶叫していたその頃。
揚陸戦艦大和の大食堂では、さらに巨大な、そして逃れようのない事実が共有されていた。
「そう、あのベルナール中将がねぇ……」
シリチャイ大将が、トレイを片手に食堂の「おばちゃん軍団」の中心で、いつもの柔和な、しかしすべてを見透かしたような笑みを浮かべていた。
「安心したわ。あの人、頭脳は超一流で軍の宝なのだけど、失踪した娘さんのことでずっと思い詰めていたでしょう? その反動か、私やここの奥様方にまで、挨拶がわりに甘い言葉でナンパするのですから。まったく、フレーシェンの男というのは困ったものね」
「そうですよ大将! 閣下ったら、こないだも私の煮物を褒めながら『君の瞳の方がもっと味わい深い』なんて言うんですから。もう、おばちゃん困っちゃうわ!」
おばちゃんたちの太い笑い声が、広大な食堂に響き渡る。
「でも、あのユイちゃんが相手なら話は別ね。あんなに一途で可愛い子がそばにいれば、閣下ももう、余計な火遊びはできないはずよ」
シリチャイ大将は、窓の外の夕焼けに目を細めた。
「ええ。いっそ、この事実を公にしてしまってもいいかも知れないわね。あの人の行き過ぎた『女好き』を縛る、愛という名の心地よい鎖にしてしまうのよ。……そうすれば、彼もようやく、過去ではなく未来を見るようになるでしょう」
「賛成! 賛成ですよ大将! じゃあ、今夜の夕食は『お祝い』の特別メニューにしなきゃね!」
おばちゃんたちの笑い声は、今や食堂全体を包み込むような祝祭の響きとなっていた。
軍の規律や階級を超えた、最強のネットワーク。
そこには、ユキたちが必死に集めた「スキャンダル写真」などよりも、もっと暖かく、そして逃げ場のない「軍公認カップル」という名の外堀が、完璧に埋め立てられようとしていた。
「……ふふ、ベルナール中将。街から戻ってきて、どんな顔をするかしら。楽しみね」
シリチャイ大将の悪戯っぽい呟きが、カツカツと床を叩く彼女のヒールの音に混じって消えていった。




