第100話 崩れ去る父娘
揚陸戦艦大和の大食堂。
その片隅に設けられた、即席のブロマイド店。
活気溢れる喧騒の中、軍服に身を包んだベルナール中将の姿は、そこだけ異質な静寂を纏っていた。
カウンターに立つユイが、ふと、一枚ずつ丁寧にコーティングされた三枚のブロマイドを差し出した。
それは、ユキが撮影したユイの正面からの微笑み。
ある時は食堂の柔らかな光の中で、ある時は海風に吹かれる甲板で、またある時は重厚な格納庫を背にして。
ユイが何度も、何度も「もう一度」と取り直しをねだり、自らの感情の全てを込めて作り上げた、渾身の笑顔だった。
ベルナールはその三枚を見つめ、一瞬で悟った。
プロのモデルではない彼女が、これほどまでに迷いのない、射抜くような笑顔をレンズに向けるために、どれほどの時間と、どれほどの「想い」を積み重ねてきたか。
「……少し、多めに払わねばなるまいな」
それは、彼の精一杯の防衛本能だった。
代金を上乗せすることで、彼女の「努力」を、対価を伴う仕事という枠の中に押し留めようとしたのだ。
だが、ユイは笑わなかった。
その瞳は、逃げることを許さない鋭さでベルナールを捉える。
「お父さん!……いえ、ベルナール中将」
ユイの唇から、冷徹な響きが零れた。
「私は、……貴方の娘ですか?」
ベルナールの身体が、石化したように硬直した。
見開かれた瞳。
知られてはいけない禁断の領域。
自らの胸の奥底に、罪悪感と共に封印していた絶対の秘密。
――失った実の娘の影を、この少女に重ね、擬似的な救済を得ていたという醜い欺瞞。
(まさか、バレたのか……?)
ユイの声は、震えながらも止まらない。
「もう、生きているか、どこに行ったのかもわからない娘さんの……『代わり』ですか? 私は」
脳内で何かが崩れ落ちる音がした。
ああ、バレている。
知られてしまっている。
自分の卑怯な振る舞いは、孤独を埋めるための身勝手な投影は、この目の前の少女に全て見透かされていたのだ。
「……すまない」
ベルナールの声は掠れていた。
隠し通そうとした虚飾を脱ぎ捨て、一人の、あまりにも脆弱な父親としての告白。
「……君を傷つけてしまった。……だが、ユイ。わたしは君のおかげで、壊れずに済んだのだ」
それは謝罪でありながら、同時に剥き出しの感謝だった。
ユイが「代わり」として存在してくれたからこそ、彼はこの地獄のような戦場で、人間としての形を保っていられた。
食堂の喧騒が遠のいていく。
差し出された三枚の「渾身の笑顔」を前に、二人の間に流れるのは甘い幻想では無く、あまりにも残酷で、それでいて清らかで痛みを伴う真実の空気だった。
大食堂の喧騒が、まるで遠い星の出来事のように消え去っていた。
「許しません! こんなに弄んで……っ。私の心を利用して、寂しさは紛れたのですか!?」
ユイの叫びは、ベルナールの胸の奥深くに突き刺さった。
嘘も誤魔化しも通用しない。
彼はただ、剥き出しの罪悪感を抱えて立ち尽くすしかなかった。
「……ああ。君のおかげで、私は今日まで生きていられる希望を持てた。……勝手な言い分だ。許してもらえるとは思っていない」
「キスしてくれたら許します……」
不意に投げかけられた言葉に、ベルナールの思考が停止した。
見つめるユイの顔は、熟れた林檎のように赤く染まり、その瞳には熱い期待と震えるような覚悟が宿っている。
ベルナールは躊躇した。
ここで唇を重ねれば、もはや「父親と娘」という安全な防壁は永遠に失われる。
かつて失った娘への純粋な追憶すら、不純なものに変えてしまうのではないか――。
彼は、震える指先でユイの柔らかな頬に触れ、そっと、逃げるようにそこに唇を寄せた。
だが、その程度の「子供騙し」を、覚悟を決めた少女が許すはずもなかった。
「ダメです! ほっぺって何ですかぁ!」
ユイの両手が、電光石火の勢いでベルナールの首に回された。
拒絶を許さない力強さで、彼女の唇がベルナールのそれを塞ぐ。
「……っ」
ベルナールの理性が、音を立てて砕け散った。
一度触れてしまったその熱さは、長年凍りついていた四十四歳の心臓を強引に再起動させるには十分すぎた。
気がつけば、ベルナールは自分でも驚くほどの熱量で、そのキスを返していた。
もう、そこに「娘の面影」を追う余地などなかった。
腕の中にいるのは自分を救い、自分を翻弄し、自分を「一人の男」として呼び覚ました、目の前の愛おしい女性だけだった。
長い、長い口づけの最中。
ユイの脳裏には、まだ見ぬ、けれど確信に近い風景が広がっていた。
エメラルドグリーンのメニスカス海。
吹き抜ける爽やかな潮風。
陽光に輝く、新築されたばかりの真っ白な豪邸。
そして、そのテラスで微笑む、軍服を脱ぎ捨てたベルナール。
(……中将夫人?)
その夢のような響きに、ユイは心の中で小さく微笑んだ。
ベルナールの背負っていた「孤独な過去」という名の借金は、今、彼女の情熱という名の「愛」によって、一気に書き換えられようとしていた。
夜の静寂が揚陸戦艦『大和』を包み込む頃。
人目を忍ぶようにして、副司令官室の重厚な扉をユイが滑り込んだ。
昼間の食堂での、あの荒れ狂うような情熱の余韻を、まだ互いの唇が覚えている。
「ジャンって呼んでいいのかなぁ、……お父さん」
ユイの悪戯っぽく、けれどどこか甘えるような呼びかけに、ベルナールは深く溜息をつき、降参するように両手を上げた。
「……ああ、わたしの負けだ。お父さんは、もうやめてくれ。その呼び名で呼ばれるたびに、私は後悔で壊れそうになる」
二人だけの、ひっそりとした祝杯。
グラスに注がれた琥珀色の液体が、月明かりを反射して揺れている。
「みんなに言う……?」
ユイの問いに、ベルナールは苦笑いを浮かべた。
「本来なら、職務上の立場もある。黙っていてもらいたいが……無理だろうな。もし知れたら、あのシリチャイ大将が『この変態!』と烈火の如く怒る姿が目に浮かぶようだ」
「わたしは、ムリ、やめて。言わないで! 絶対に秘密だよ」
ユイは急に慌てたように、グラスを置いて身を乗り出した。
「お父さんごっこのままにしておいて。ユキにも言えない……」
「いやぁ、キスなんて、あんなこと言うつもりじゃなかったんですぅ! でもね、あなたの瞳の奥が、あまりにも悲しすぎたというか……なんというか、勢いが急についちゃって」
顔を真っ赤にして弁明するユイを、ベルナールは愛おしそうに見つめた。
「……今ならまだ、お父さんごっこに戻ってもいいのだぞ? ユイ」
「ムリだよ! キスしたら、もう好きになっちゃって止まらないんだもん……!」
ユイは潤んだ瞳で彼を見上げた。
「ねぇ、わたしのこと……ちゃんと愛してくれる?」
「愚問だ」
ベルナールの声から、迷いが消えた。
彼はユイを引き寄せ、その細い肩を力強く、そして壊れ物を扱うような優しさで抱き寄せた。
「フレーシェンの男の情熱は有名だろう? 覚悟するのだな。……これから、わたしの全愛情を、人生のすべてを賭けて、ユイ。君に費やすのだから」
「いいよ。……ジャン」
かつて「娘」という名の影を追っていた男は、もういない。
今、そこにいるのは、一人の女性を愛し、その未来を守り抜くと誓ったジャン・リュック・ベルナールという一人の男だった。
窓の外、スターアイルズの海はどこまでも穏やかで、二人の新しい門出を祝うように銀色に輝いていた。
十月の澄み切った空の下、スターアイルズの街並みは活気に満ちていた。
今日は第507特務中隊、そして『大和』の全乗員に与えられた「一日大休止」。
その街角で、ジャン・リュック・ベルナールは、かつてないほどの緊張感を持って歩いていた。
戦場よりも、今の彼は周囲の視線に神経を尖らせている。
「ねえ、お父さん! 次はあっちのお店に行ってみようよ」
ユイが、ジャンの逞しい腕を両手でしっかりと組み、弾むような足取りで彼を引っ張る。
彼女の表情はひたすら明るく、幸せそのものだ。
昨夜のあの濃密な時間、ジャンによって「女」になった痕跡など、微塵も感じさせない完璧な笑顔。
「……ユイ、腕が近すぎる。せめて街中ではもう少し……」
「いいじゃないですかぁ。これは『お父さんごっこ』の続きですよぉ? 仲良し親子に見えるように、私が頑張ってるんですから」
ユイは耳元で悪戯っぽく囁くと、さらに強く彼の腕に自分の胸を押し当てた。
ベルナールは溜息をつきながらも、その柔らかな感触と、自分だけに向けられる信頼の重さに、結局は口元を緩めてしまう。
彼は自分を納得させる。
これはまだ、あの「甘い幻想」の延長線なのだと。
しかし。
彼らが通り過ぎた後、街のあちこちでは、彼らが想像もしないような「戦火」が上がっていた。
「……ねえ、見た? 今の中将閣下と広報官の女の子」
街の食堂『波止場亭』の店先。
割烹着を揺らしながら、おばちゃんたちが鋭い眼光で二人の後ろ姿を追っていた。
「親子ごっこ? 冗談じゃないわよ。あの子の表情……。仕草、説明しなくても親子じゃ無くて女の顔よ、あれは」
「そうよねぇ。閣下の方だって、いつもは鋼鉄みたいな顔してるのに、今日はなんだか目元がトロけてるじゃない。……フレーシェンの男は情熱的だって噂だけど、あんなに若い子を相手に、まあ隅に置けないわねぇ」
おばちゃんたちのネットワークは、軍の暗号通信よりも速い。
「お父さん」と呼ぶ声の裏に潜む甘い響きも、ジャンの首筋に隠された微かな「痕跡」も、彼女たちの慧眼からは逃れられなかった。
「……絶対に秘密だよ」と誓ったユイの願いも虚しく、スターアイルズの街には、早くも「副司令官と若き愛娘の公認デート」という名の、あまりにも正確すぎる噂が、屋台の香ばしいソースの匂いと共に広がっていく。
そんなこととは露知らず、ベルナールはユイが差し出したソフトクリームを、少しだけ照れながら一口、受け取っていた。
帝国。
元AAUシュテルツァー士官学校。
帝国では、サカモト大佐によるルーナの身柄引き受けが完了していた。
シュテルツァーパイロット士官学校から、サカモト自らが錬成する特殊中隊――カイ・イサギという「神」を屠るための牙として、彼女は引き抜かれたのである。
名簿に記された『ルーナ・ガストリオン』という名の上に、サカモトの冷たい指先が這う。
だが、その引き受け書類の余白には、紅い墨で塗りつぶされたような、奇妙な条件が付記されていた。
【機密レベルA:パイロット個体識別:ルーナ・ガストリオン】
I適正個体。実戦配備には帝国技研・I研究室の許可を要する。
「……I適正個体、か」
サカモトは独りごちると、感情の欠落した瞳で少女の個人ファイルを見つめた。
帝国技研の「I研究室」。
そこが何を司り、彼女に何を求めているのか。サカモトはそれを問い質すこともなく、ただ受領のサインを叩きつけた。
それは失われた娘を慈しむ父の仕草ではない。
獲物を屠るための「最高の道具」を手に入れた、職人の執着に似た動きだった。




