第六話《服を買う》
さっきは飯より先に服を買おうと言ったが、病院を出て数分で考えが変わった。
原因は、通り道にあったコンビニだった。自動ドアが開くたび、店内から揚げ物の匂いが流れてくる。
病院では昼食をきちんと食べたし、ご飯も大盛りだった。それからまだ2時間も経っていない。それなのに、匂いを意識した瞬間、腹が鳴った。
隣を歩いていた榊にも聞こえたらしい。
「服屋の前に食う?」
「そうする。腹減ったまま買い物する方が面倒そうだ」
「病院でも結構食ってたよな」
「食った。俺もそこが分からない」
身体が変わってから、明らかに腹が減るのが早くなっている。
医師からも代謝がかなり高くなっていると言われ、食事を無理に減らさないよう念を押されたばかりだ。
だったら我慢する理由はない。問題は、俺に15万円の救助費が残っていることだった。
コンビニへ入り、レジ横のホットスナックを見る。
《旨辛クリスピーチキン 248円》
ちょうど揚げたてらしく、ケースの中から湯気が立っていた。食べたい。それもかなり食べたい。
ただ、248円する。隣のおにぎり売り場を見れば、140円台の商品がいくつも並んでいる。腹を満たすだけなら、そちらの方が安い。
ケースの前で値札を見ていると、榊が横から覗き込んできた。
「何で止まってるんだ?」
「チキンが248円する」
「それは見れば分かるけど」
「おにぎりなら150円しない」
榊は一度おにぎり売り場を見てから、もう一度俺を見る。
「食いたいのはチキンなんだろ?」
「そう」
「じゃあ食えばいいじゃん。病院でも食事減らすなって言われてたし」
「こういう100円が積み重なるんだよ」
「救助費のせい?」
「3ヶ月で15万だからな」
借金ができると、それまで大して気にしなかった100円まで妙に重く見える。ただし、必要な食事まで削って体調を崩すのは違う。今は自分の身体がどれだけ栄養を必要としているのか、それすら把握できていない。
「……買うか」
「結構悩んだな」
「今後3ヶ月はこんな感じになると思う」
「大変そうだな」
「俺もそう思う」
チキンと麦茶を持ってレジへ向かった。会計は378円。電子決済を済ませ、店の外にあるベンチへ座る。紙袋を開くと、香辛料と揚げ油の匂いが一気に広がった。
「いただきます」
一口噛む。衣が軽く鳴り、中から熱い肉汁が出てきた。少し濃い塩気と香辛料が、空腹だった身体にはちょうどいい。
「うま」
買う前に迷っていたことが馬鹿らしくなるくらいうまかった。榊が隣でペットボトルを開ける。
「その顔なら248円でよかったんじゃね?」
「もう買ったんだから、食ってる最中まで値段気にしても仕方ないだろ」
「切り替え早いな」
「次に買う時また考える」
半分ほど食べたところで、強かった空腹がようやく落ち着いてきた。それでも、もう1個くらいなら普通に食べられそうだった。
「食費の予算、組み直した方がいいな」
「そんなに変わった?」
「前なら昼飯食って2時間でこれ食いたくならなかった」
「それも病院に言うんだろ?」
「食事量を記録しろって言われてる」
スマホのメモを開き、《15:07 クリスピーチキン1個》と入力する。何を食べたか、どれくらいの間隔で空腹になるか。それが身体変化の影響なのかを確認する材料になるらしい。
残りも食べ、麦茶を飲んだ。安全な水も温かい肉も、金さえ払えば数分で手に入る。
第8層から戻ったばかりだと、その当たり前がかなりありがたかった。
「今度こそ服買いに行くか」
「また途中で食い物の匂いに負けるなよ」
「その時はその時だ」
「否定しないんだな」
今の身体について分からないことは多いが、腹が減っているかどうかだけは非常に分かりやすかった。
◇
朝霧駅前のショッピングモールへ着いたのは15時を少し過ぎた頃だった。春休み中なので、館内には学生や家族連れが多い。高校入学の準備らしい親子も見かける。
本来なら俺も、男子用の制服を受け取って、足りない文房具でも買っている時期だった。
今は病院から借りたパーカーとスウェット姿で、女物の服を一式買い直しに来ている。
「最初は何買う?」
フロア案内を見ながら榊が聞く。
「普段着を何セットかと、部屋着、靴、靴下。あと下着と髪まとめるやつ」
「ほぼ全部じゃん」
「今までの服、上は着られてもズボンと靴は無理だからな」
男物のTシャツやパーカーなら、家の中で大きめに着ることはできる。しかし、ズボンは腰から落ちるし、靴は探索中に散々苦労した。下着に至っては現在の身体に合うものを1枚も持っていない。病院で用意されたものを借りているだけだ。
「俺、下着売り場までついていく必要ないよな?」
「あると思うのか?」
「ないと思ったから聞いた」
「その時だけどっか行ってろ」
「了解」
まずは普段着を買うことにした。大型衣料品店へ入る。
女性向けの売り場は、男物より選択肢が明らかに多かった。シャツ1枚でも丈や襟、袖、素材が違うものがいくつも並んでいる。俺には違いが分からないものまであった。
「好きなの選べば?」
「好きなのが分からない」
「色は?」
「黒か紺」
「そこは全然変わらんな」
「2日前まで男物しか買ってなかったんだから仕方ないだろ」
急に服の趣味まで変える必要はない。まず普通に生活できる服があればいい。
俺は無地の長袖Tシャツを何枚か選び、上に羽織れるグレーのパーカーを取った。下は黒いストレートパンツと、少しゆとりのあるネイビーのパンツ。
どれも派手ではなく、洗いやすそうで、値段も安い。
「これくらいでいいな」
「もう決まったの?」
「必要な条件は満たしてる」
「似合うかとかは?」
「着られるか確認してから考える」
問題はサイズだった。以前ならMを選べば大体終わっていた。今は身長155.8cm。肩幅も腰回りも大きく変わっている。
商品のタグを見ても、SとMのどちらが合うのか判断できない。試着室の近くにいた女性店員へ声をかけた。
「すみません。最近体型がかなり変わって、今のサイズが分からないんですけど、見てもらえますか?」
「もちろんです。以前はどのくらいのサイズを着られていましたか?」
「身体変異があったばかりなので、今の体型で服を買うのは初めてです」
店員は一瞬驚いたものの、すぐに納得したように頷いた。
「迷宮性の身体変異だったんですね。それでしたら、簡単に採寸してから商品のサイズを見た方が確実だと思います。よろしいですか?」
「お願いします」
迷宮による身体変異そのものは、珍しくても社会に存在している。性別まで変わったことを説明しなくても、「体格が大幅に変わった」で話は通じた。肩幅や腰回りを測ってもらう。
「トップスはSが合いやすいと思いますが、少しゆったり着たい商品ならMでも問題ないですね。パンツは今の寸法だとSから試していただくのがいいと思います」
「しばらく身体が変わる可能性もあるらしいんですけど、最初は少なめに買った方がいいですか?」
「そうですね。身体変異の直後ですと、その後しばらく体型が安定しない方もいらっしゃいます。今すぐ必要な分だけ揃えて、落ち着いてから追加された方が無駄は少ないと思いますよ」
「じゃあそうします」
その助言はありがたい。補助が出るとはいえ、使わない服を買う必要はない。何着か持って試着室へ入る。まず黒いパンツを履く。きちんと腰で止まり、それだけで妙に安心した。
第8層ではベルトへ無理やり穴を増やしていたから、普通に履けるズボンというだけでかなり楽だった。屈伸し、しゃがみ、数歩歩いてみる。窮屈ではない。長袖Tシャツも肩や腕を動かして確認する。
「普通に着られるな」
鏡を見ると、黒いパンツに白い長袖を着た、どこにでもいそうな女子高校生が映っていた。顔についてはまだ自分だという感覚が薄い。それでも、服が合っていない遭難者みたいな状態よりはずっといい。
何着か試した結果、最初に選んだものをほぼそのまま買うことにした。
洗濯の頻度を考えてTシャツを1枚追加する。会計は8,940円。協会の生活再建支援では補助対象になる予定だが、精算は後日だ。レシートを失くさないよう財布の内側へ入れた。
◇
次は靴屋へ向かった。靴については服より慎重になる。
第8層でサイズの合わない登山靴を履き続けた結果、まともに踏み込めず石歯犬との戦闘でも滑った。
あれをもう一度やる気はない。
店員に事情を話して足を測ってもらう。
「右が23.4cm、左が23.3cmです。幅は少し細めですね。スニーカーでしたら23.5cmから試していただくのがいいと思います」
「歩くこと多いんですけど、それでも23.5で大丈夫ですか?」
「商品によりますね。つま先に適度な余裕があって、踵が浮かないものを選びましょう」
何足か履いて店内を歩く。最終的に、黒と白のシンプルなスニーカーが一番足に合った。値段は6,490円。
「これにします」
「今度は早いな」
後ろにいた榊が言う。
「靴は合うやつ見つけたらそれでいい」
「迷宮で相当懲りたんだな」
「かなり」
靴下も数足買い、その場で新しいスニーカーへ履き替える。足が靴の中で動かない。歩くだけで違いが分かった。
「これは買い替えて正解だな」
「服より満足してない?」
「転ばないからな」
次は下着だった。売り場が見えてきたところで榊と別れる。
「俺、本屋見てるわ」
「終わったら連絡する」
「了解」
俺も榊を連れて入る気はない。
自分で選べる知識もないので、最初から店員に聞くことにした。女性店員へ協会の身体変異証明を見せ、必要な範囲だけ説明する。
「迷宮性の身体変異で体格が変わって、今のサイズが全く分からないんです。今日退院したばかりなので、まず日常生活に必要なものを揃えたいんですが」
「承知しました。でしたら、最初にサイズを測ってからご案内しますね。普段使いできるものを何枚かという形でよろしいですか?」
「はい。身体がまだ変わる可能性もあるらしいので、最低限でお願いします」
「分かりました。それでしたら、最初からたくさん揃えず、体型が安定してから追加された方がいいと思います」
案内に従って測定を受ける。数字そのものを覚える必要はない。自分に合うサイズだけ把握できれば十分だろう。
普段使いしやすく、洗濯もしやすいものを中心に見せてもらう。
「学校でも使うなら、こちらのタイプは締めつけが比較的少ないので、長時間つけていても楽だと思います」
「じゃあそれでお願いします」
「色はどうされますか?」
「透けにくいのでお願いします」
「制服のシャツが白系でしたら、ベージュや薄いグレーなどが使いやすいと思いますよ」
「じゃあ、そのあたりでお願いします」
自力で売り場を眺め続けるより、店員に条件を伝えた方がはるかに早かった。必要なものを数日分揃える。
ほかにも説明を受けたが、今すぐ必要ではないものは買わなかった。会計は7,000円台。
さらにヘアゴムと小さなブラシも購入する。髪を切るとしても、今日明日でいきなり短くできるとは限らない。最低限の手入れ用品は必要だった。買い物が終わるまで、結局1時間近くかかった。
榊へ連絡する。
《終わった》
《本屋2階》
合流すると、榊は漫画を1冊持っていた。
「結構かかったな」
「サイズから測ったからな。何も分からないから全部店員に聞いた」
「その方が早いだろ」
「男物より考えること多いな」
「そこは俺に言われても分からん」
「俺も今日知った」
手元の紙袋は、服、靴、生活用品の3つになっていた。今日だけで2万円以上使っている。補助金が戻ってくる予定とはいえ、先に支払うのはこちらだ。俺はスマホの家計簿アプリを開き、金額を入力した。
「もう家計簿つけるの?」
「後回しにすると忘れる」
「15万のせいで前より細かくなってない?」
「返すまでは仕方ない」
生活用品補助の上限は5万円。まだ余裕はある。ただ、必要だからといって上限まで使う理由もない。
「今日はこれくらいでいいな」
「髪は?」
「美容院はまた今度。さすがに疲れた」
「朝から検査して退院して、そのまま買い物だもんな」
「明日でも困らないことは明日やる」
時刻は17時近い。家へ戻ったら、新しく買った服を一度洗いたい。冷蔵庫の中身も確認する必要がある。病院から持ち帰った書類も整理したい。
「飯食って帰る?」
榊が聞く。
「家に米あるから、材料が無事なら家で作る」
「今から?」
「外で食うより安い」
「その救助費、かなり効いてんな」
「15万だからな」
そう答えた直後、フードコートから揚げ物の匂いが流れてきた。唐揚げの匂いだ。俺は無意識にそちらを見た。榊も気づく。
「食いたいんだろ」
「昼から腹減るの早いんだよ」
「だったら食って帰れば? 帰ってからまた腹減るよりいいだろ」
メニューを見る。唐揚げ定食780円。安くはない。ただし、病院の昼食以降に食べたのはコンビニのチキン1個だけだ。
医師から食事を削るなと言われている以上、ここを無理に節約する意味は薄い。
「今日は食ってくか」
「そうしろ」
唐揚げ定食を注文する。
「ご飯は大盛り無料ですが、どうされますか?」
「大盛りでお願いします」
そこは迷わなかった。榊が横で笑う。
「無料だと判断早いな」
「同じ値段なら多い方がいいだろ」
席へ座る。唐揚げが5個に大盛りの白飯、味噌汁、キャベツ。久しぶりに、金額以外は普通の夕食だった。一口食べる。
「うま」
「今日そればっか言ってない?」
「普通の飯がうまいんだから仕方ない」
唐揚げと白飯を交互に食べる。身体が栄養を欲しがっているのが分かる。食事量が増えるのは家計には痛いが、体調を維持するために必要なら削れない。
食べている途中、向かいの榊が何度かこちらを見ていることに気づいた。
「さっきから何?」
「まだちょっと変な感じする」
「見た目?」
「それもある。卒業式まで普通に男だったやつが、今は完全に女子の見た目で向かいに座ってるからな」
「俺も鏡見ると似たような感じだよ」
「本人でもそうなんだ」
「15年見てきた顔が2日前に変わったんだから、そりゃそうだろ」
榊は箸を置き、少し考えてから続けた。
「病室入った時は、マジで知らない女子のところに来たのかと思った。でも喋ってるうちに、ああ雨宮だなってなった」
「中身は変わってないからな」
「それは分かるけど、お前がいつも通りすぎて逆に変な感じする」
「急に喋り方変えた方が変だろ」
「それもそうなんだけどさ」
俺としても、どう振る舞えば榊にとって自然なのかは分からない。性別が変わったからといって、昨日までの話し方や考え方まで変える理由はない。
「高校でもこのままだぞ」
「一人称も俺?」
「変える理由ある?」
「別にないけど、初めて会うやつは驚くかもな」
「そのうち慣れるだろ」
「お前が一番早く慣れそうだな」
「身体は慣れないと生活できないからな」
服も靴もそうだった。第8層で思い知った通り、今の身体を昔の感覚で動かし続けるわけにはいかない。
慣れるしかないなら、早い方がいい。唐揚げをもう1個食べたところで、スマホが振動した。
探索者協会からの通知だった。
《身体能力再評価検査の日程が確定しました》
《日時:3日後 10:00》
《場所:朝霧第一迷宮管理棟 適性検査区画》
「3日後か」
「何?」
「探索資格の再検査」
榊の表情が少しだけ真面目になる。
「受けるんだ」
「検査は受ける。その結果を見てから考える」
「また潜る気はある?」
「第1層で稼げるなら」
救助費15万円を3ヶ月以内に払う必要がある。普通のアルバイトをする選択肢もある。
ただ、今の俺はPERが以前より高く、迷素糸も使える。第1層で採取をするだけなら、以前より効率よく動ける可能性が高い。もちろん、実際にどこまで身体を使えるのかは分からない。だから再検査を受ける。
榊は少し黙った後で言った。
「今度は本当に第1層で帰ってこいよ」
「俺もそのつもりだよ」
「転移罠見つけても調べに行くなよ」
「踏まないように避ける」
「それならいい」
俺だって、もう一度第8層から歩いて帰りたいわけではない。食事を終える。大盛りだったが、腹はようやく満たされた。
「やっぱり食う量増えてるな」
「救助費より、そっちの食費も結構きつそうだな」
「今それ計算したくない」
「家計簿好きなのに?」
「怖い数字は明日見る」
珍しく先送りすることにした。買い物袋を持って立ち上がる。
入学式まで、あと7日。その前に身体能力の再検査があり、制服の採寸があり、協会での聞き取りも残っている。
やらなければならないことは多い。それでも、迷宮の中で次の水場と寝床を探していた時とは違う。
今は自分で予定を決めて、自分の家へ帰れる。俺は榊と一緒に、ショッピングモールを後にした。




