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『女になった俺は、放課後ひとりで迷宮に潜る』  作者: 白峰ユラ


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第七話《家から出たくない》

ショッピングモールから帰った時には、外はすっかり暗くなっていた。玄関の鍵を開け、買い物袋を抱えたまま部屋へ入る。


「帰った……」


2日前にも同じ部屋から迷宮へ出たはずなのに、妙に久しぶりに感じた。


冷蔵庫も、炊飯器も、引っ越し以来まだ片づけきれていない段ボールもそのまま残っている。


俺が第8層で石歯犬に噛まれている間も、この部屋では何も起きていなかった。


靴を脱ぎ、最初に冷蔵庫を開けた。


「豆腐、生きてるな」


豆腐の賞味期限は明日で、卵にも問題はない。牛乳もまだ飲めるし、キャベツは切り口が少し乾いているものの、捨てるほどではなかった。一番上の棚にはプリンが2個残っていた。


「よし」


何に安心しているのか自分でもよく分からないが、とりあえず冷蔵庫を閉める。


今日買った普段着や下着、靴下、ヘアゴム、ブラシを床へ並べた。補助申請に必要なレシートは、病院からもらった書類用の封筒へまとめて入れる。次に、病院の貸与品と破損した探索装備を分けた。


やることは多い。でも、その前に風呂へ入りたかった。第8層から帰ってから病院でも身体は洗ったが、自分の家の風呂とはやっぱり違う。問題があるとすれば、腰近くまで伸びた髪だった。


「……まあ、一回やってみるか」



浴室へ入って最初に困ったのは、鏡だった。家の風呂場には、立ったまま上半身が映る縦長の鏡がある。今までは何も考えずに使っていた。そこには今、見慣れない身体が映っている。


肩幅は狭く、腕も細い。腰の位置も以前とは違い、胸もある。


病院で散々検査されたので、今さら知らないことではない。それでも自宅の風呂場に立つと、急に生活の中へ入り込んできた感じがした。


「これで暮らすんだよな…」


今すぐ元に戻れる方法はない。なら、慣れるしかない。身体を洗う。そこは大して困らなかった。


問題は髪だった。短髪の頃の感覚でシャンプーを出したが、全然足りなかったので追加する。


「こんな使うの?」


髪全体へ馴染ませるだけで時間がかかった。流すのも長い。


次に、今日買ってきたコンディショナーを使う。容器の裏にある説明を読み、毛先を中心に馴染ませて少し置いてから流した。手順自体は簡単だが、とにかく髪の量が多い。


「これ毎日やるのか……」


ようやく終わり、浴槽へ入る。


「はー……」


肩まで浸かる。湯の温度は41度。今までずっとこの温度だったが、今日は少し熱く感じた。病院で測った体温は35.4度。


今の身体の平熱が低いことと関係があるのかもしれない。


「次から40度でいいや」


10分ほど浸かって風呂を出た。そこで、もう1つ問題が出た。髪が乾かない。タオルで水分を取っても、まだかなり濡れている。


短髪なら適当に拭いて終わっていた作業が全然終わらない。


「水持ちすぎだろ」


動画で見た通り、強く擦らずに押さえるように水分を取る。その後はドライヤーを使った。5分経ってもまだ濡れていて、10分でも根元が湿っている。15分を過ぎる頃には腕が疲れ、結局20分近くかかってようやく乾いた。


「うん、切ろう」


かなり強く決意した。腰まで残す理由はない。肩より少し下くらいなら結べるし、今よりはずっと乾きやすいはずだ。美容院は再評価検査が終わってからでいい。


新しく買った部屋着へ着替える。サイズが合っている。それだけで楽だった。


「服ってサイズ合ってる方がいいんだな」


当たり前のことを、第8層にいたときから何度も再確認している気がする。



夕食は、冷蔵庫に残っていた豆腐とキャベツ、卵、それに冷凍してあった豚こまを使うことにした。


少し悩んで、豚汁にする。大根と人参はないが、家で食べるだけなら十分だ。鍋を出して豚肉を炒め、水とだしを入れる。キャベツと豆腐を加え、最後に味噌を溶いた。この前は少し薄かったので、今日はちゃんと味見する。


「これくらいだな」


米も多めに炊いた。待っている間に、今日買った服を洗濯機へ入れる。色の濃いものは分ける。下着は洗濯ネット。


身体が変わっても、家事まで別物になるわけではない。そこは助かった。夕食は白飯、豚汁、卵焼き、納豆。以前なら十分すぎる量だった。


今は普通に全部入った。


「米減るの早そうだな」


炊飯器の中を見る。この食事量が続くなら、食費は確実に増える。


スマホの家計簿を開いた。救助費は15万円で、期限は3ヶ月。単純に割れば月5万円になる。そこへ増えた食費や高校生活に必要な金、補助対象にならない日用品の出費も重なる。


「普通にバイトだけだと重いな」


学校が始まれば、平日に働ける時間は限られる。迷宮へ戻れるなら、採取の方が効率はいい。ただし次は第1層から出ない。少なくとも、自分から深い場所へ行くつもりはなかった。


食後にプリンを1個食べる。3個入り198円。高いプリンでなくても、これで十分うまい。最後の一口だけ少し大きめに残して食べた。


洗い物と洗濯物を片づけ、病院から言われた食事記録まで終えた頃には22時を過ぎていた。髪を低い位置でゆるく結び、布団へ入る。


「明日はスーパーだけでいいな」


ここ数時間は、病院や協会や店でずっと誰かと話していた。俺は元々、1人で過ごすこと自体は苦にならない。むしろ何も予定がない方が楽だった。久しぶりに目覚ましをかけずに寝た。



翌朝は7時半に起きた。朝食は、ご飯2杯、目玉焼き2個、納豆、味噌汁。かなり食べた。それでも10時半には腹が減った。


医師に言われた通り時間を記録する。


《10:34 空腹感あり》


ナッツとヨーグルトを食べる。午前中は部屋の片づけに使った。引っ越してから放置していた段ボールを開ける。中から男子用の服が次々に出てきた。


Tシャツやパーカーなら着られる。問題はズボンだった。腰へ当てる。


「これは無理だな」


今の身体では明らかに大きい。ただ、全部処分する気にもならなかった。身体が戻る可能性についてはまだ何も分かっていない。


とりあえず箱へ戻し、側面に《旧衣類》と書いておく。


朝霧高校の男子制服も出てきた。新品。まだ一度も着ていない。


「これ返品できないかなぁ」


女子用は補助で用意できるとしても、こっちまで丸ごと無駄になるのは惜しい。指定店へ聞いておこう。昼は親子丼。鶏肉を多めにする。


食後、協会から届いていた聞き取りフォームを開いた。第1層で転移罠を踏んだ場所、転移先の構造、母さんの探索者タグ、人工区画、装置に表示された文章。覚えている範囲で順番に入力していく。


《第一世代適応記録》


《登録個体:雨宮澪》


《第二世代継承個体》


《深層環境適合率――31.08%》


《登録適応形態照合》


《対象:雨宮澪》


《適合率――98.73%》


そこまで入力して、一度手を止めた。俺と母さんの間に、あの装置が識別できる何かがあった。今分かるのはそれだけだ。考えても答えは出ない。


残りの項目を埋めて送信した。時刻は15時過ぎ。洗濯も終わっている。夕飯を作るにはまだ早い。


やるべきことがなくなった。


「ゲームするか」


机の上のパソコンを起動する。引っ越しの時に箱へ入れていたヘッドセットもつなぐ。中学の頃から、夜や休日になると何人かでFPSをやっていた。


榊もいるが、全員が現実の知り合いではない。


2年近く一緒に遊んでいるのに、顔も本名も知らない相手もいる。ゲームを起動すると、ちょうど榊がオンラインだった。


《榊:暇?》


《MINATO:暇》


《榊:やる?》


《MINATO:やる》


パーティへ入る。榊のほかに、《Rook》もいた。Rookとはネット上だけの付き合いだ。大学生らしい、ということくらいしか知らない。


ボイスチャットをつなぐ。


『お、来た』


榊の声。


『おせーぞ』


Rook。


「まだ15時だろ」


『知らねえよ。こっちは1時間前から暇なんだわ』


「大学は?」


『今日はもう終わった』


「ちゃんと行ってるんだ」


『ガキに出席心配される筋合いねえよ』


いつもの調子だった。


「こんばんは」


俺が言った。少し間が空いた。


『……誰?』


「俺」


『誰だよ』


「MINATO」


『は?』


榊が笑い出す。


『本人本人』


『いや、声違いすぎんだろ。お前ボイチェン買った?』


「買ってない」


『マイク壊れた?』


「正常」


『じゃあ何で女声なんだよ』


どこまで説明するか少し迷う。榊にはもう全部話した。Rookとは長い付き合いではあるが、現実で会ったことはない。


「迷宮で身体変わった」


『説明雑すぎだろ』


「細かく話すと長い」


『女になったってこと?』


「そう」


また少し間が空く。


『迷宮怖すぎだろ』


「俺もそう思う」


『病院は行ったのか?』


「昨日まで入院してた」


『ならいい。死にそうじゃねえならゲームやるぞ』


「切り替え早いな」


『お前の身体の話聞いてゲーム上手くなんのかよ』


そう言いながら、マッチングを開始する。数分後には、性別の話はほぼ消えていた。


『右2』


「見えてる」


『湊、そっち詰めんな。もう1人奥いる』


「分かってる」


『なら撃て』


「お前が射線入ってる」


『避けるから撃てって』


「信用できない」


『2年やっててまだ信用ねえの?』


「そういう動きするからだろ」


Rookが強引に前へ出る。1人落とす。もう1人も削る。そのままさらに奥へ突っ込んだ。


『あとロー!』


「行きすぎ」


『カバー!』


「はいはい」


横から回ってきた敵を撃つ。倒した。


『ナイス。愛してる』


「軽いな」


『今のはガチ』


「5秒前まで文句言ってたろ」


『それとこれは別』


榊が笑っている。久しぶりにいつもの時間だった。身体が変わっても、マウスとキーボードの使い方まで変わるわけではない。ただ、何試合かしているうちに少し気になることがあった。


以前より画面の端の動きに気づくのが早い。一瞬だけ見えた敵や遠くの小さな影にも、反応するまでの時間が短くなっている気がする。


『今日お前エイム良くね?』


榊にも言われた。


「そう?」


『反応も早い』


『女体化バフじゃん』


Rookが言う。


「そんなステータスない」


『迷宮ならあるだろ』


「適当言うな」


『じゃあ覚醒したんじゃね。知らんけど』


「一番信用できない言い方するな」


結局、18時前まで遊んだ。ゲームを終了し、ヘッドセットを外す。3時間近く経っていた。


「普通に時間潰せるな」


食料とネットさえあれば、数日くらい外へ出なくても全く困らない。夕方にスーパーへ行き、米5kg、豚肉、鶏肉、卵、豆腐、納豆、牛乳、ヨーグルト、キャベツ、玉ねぎ、人参、冷凍うどん、食パン、バナナ、特売のプリンを買った。


買い物袋を持ち上げる。


「重い」


以前なら大して気にならなかった量だが、今は単純な筋力が落ちている。両手に分けても、帰る途中で腕が疲れた。


「次から米は考えよう」


通販の送料と、スーパーで持ち帰る手間を比べてもいいかもしれない。家へ戻り、夜はカレーを作った。多めに作る。明日の昼にも使える。



2日目も、スーパー以外にはほとんど出なかった。朝起きて、髪をまとめる。初日よりかなり早い。後ろで1つに結ぶだけなら、鏡を見なくても何となくできるようになった。


「3日で結構慣れるな」


料理も洗濯も掃除も風呂も服も、最初ほど身体の違いを意識しなくなっていた。受け入れたというほど大げさなものではない。単純に、毎回驚くのが面倒になった。昼前に宅配便が来た。


協会から追加の書類。配達員は俺を見て、普通に言う。


「雨宮さんですね」


「はい」


それだけだった。当然、この人は男だった頃の俺を知らない。高校へ入れば、こういう人間の方が多くなる。俺を最初から今の姿で知る人間。


中学までの俺を知っている榊たちの方が少数になる。


「まあ、いいか」


どちらでも俺は俺だ。午後は病院から電話が来た。検査値に大きな変化はなく、再評価検査も予定通り受けていいとのことだった。続いて協会から通知。


《仮探索資格再評価》


《身体能力》


《迷素適性》


《技能確認》


《単独探索適性》


最後の項目を見る。


「単独探索適性か」


以前の仮資格試験にも簡単な確認はあった。今回は身体変異後の再検査なので、もっと細かく調べるらしい。迷素糸も見せることになるだろう。


高くなったPERを含め、今の身体がどこまで動けるのかもそこで分かる。夜は昨日のカレーを大盛りで食べ、卵も追加した。食後にはバナナも食べた。


それでも21時を過ぎた頃にまた腹が減って、食パンを1枚焼いた。


《21:18 食パン1枚》


記録する。


「本当に食うな」


体重は47kg台からほとんど変わっていない。摂った分をどこかで使っているのだろう。何に使っているかは、まだ分からない。



3日目の朝。目覚ましが鳴る前に目が覚めた。6時18分。再評価検査は10時。


家から朝霧第一迷宮の管理棟までは、バスで40分ほど。まだ急ぐ必要はない。布団から起きて髪をまとめ、洗顔して着替える。


黒いパンツと長袖Tシャツに、薄手のパーカーを羽織った。3日前には全部が初めてだった服も、今は普通に着られる。


朝食はしっかり取った。白飯に焼き鮭、卵焼き、味噌汁、納豆、ヨーグルト。今日は身体能力検査がある。腹を減らして行く理由はない。食器を洗う。


戸締まりを確認する。持ち物はスマホ、財布、生命証、協会の書類、水だけで少ない。玄関で新しいスニーカーを履く。23.5cm。


足に合っている。


「3日ぶりか」


スーパー以外へ行くのは、退院した日以来だった。この3日間で、身体そのものが大きく変わったわけではない。LEVELも4のまま。迷素糸の距離も大きく伸びてはいない。


それでも生活については、かなり分かるようになった。髪をまとめられるし、今の身体に合う服もある。どのくらい食べるかも少し読めるようになり、ゲームも家事も普通にできる。


少なくとも、第8層で自分の足の長さすら掴めていなかった時とは違う。玄関を出る。鍵を閉める。


今日は迷宮へ潜るわけではない。まずは、今の俺がどれだけ動けるのかを調べに行く。その結果次第で、15万円をどう返すかも変わる。俺はバス停へ向かい、3日ぶりに朝霧第一迷宮の管理棟を目指した。

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