表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『女になった俺は、放課後ひとりで迷宮に潜る』  作者: 白峰ユラ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/7

第四話《雨宮湊さんですか》

救助班が到着するまで、約3時間。朝霧第一迷宮の第6層にある管理休憩区画は、昨日から歩いてきた場所の中では別世界と言っていいくらい安全だった。


壁には協会の照明があり、金属製のベンチがあり、緊急通信も細いながら地上までつながっている。少なくとも、寝ている間に石歯犬に噛まれる心配はない。


それだけでもありがたい。俺はベンチへ座り、スマホに溜まっていた通知を確認していた。


《帰還期限を超過しています》


《生命証の位置情報を確認できません》


《緊急捜索対象へ移行しました》


《この通知を確認した場合、現在位置を送信してください》


帰還予定時刻を過ぎた後から、同じような通知が何度も届いている。


協会側からすれば、第一層へ入った仮探索者が突然消えたのだから当然だろう。生命証そのものは生存判定を維持していたらしいが、位置情報が途絶えていたため捜索範囲を絞れなかったようだ。


その中に、榊からのメッセージが混じっていた。


《今日、迷宮行くって言ってたよな。大丈夫か?》


送信時刻は昨夜。その後にも、


《協会で未帰還出たって聞いたけどお前じゃないよな》


と来ている。


「情報回るの早いな」


榊蓮司。中学で同じクラスになったことがある男子で、別に親友というほどではないが、一緒に昼飯を食ったり、ゲームの話をしたり、帰る方向が同じ日は途中まで歩いたりする程度には付き合いがある。


高校も同じ朝霧高校へ進学予定だ。俺は短く返信した。


《俺。救助待ち。生きてる》


1分も経たないうちに既読がついた。


《どこにいる》


《第6層》


《お前1層までじゃなかった?》


《転移罠で8層に飛ばされた》


少し間が空いた。


《意味分からん》


「俺も分からない」


独り言を返してから、スマホを伏せる。説明しようと思えば、さらに面倒な部分がある。電話がかかってきたら、今の声を聞かれる。榊は中学を卒業するまでの俺を知っている。当然、男だった俺を知っている。


いきなり知らない女子の声で電話に出て、「雨宮湊だけど」と言っても話が進む気がしなかった。


事情を隠し続けられるとは思っていない。8日後には同じ高校へ行く。それでも、今すぐ迷宮の第6層から説明を始める必要はないだろう。


俺はスマホを充電器へ戻し、胸ポケットから古い探索者タグを取り出した。


《雨宮 澪》


表面に入った細かな傷まで見覚えがある。母さんが使っていたものだ。あの管理区画で見つけた時から何度確認しても、当然ながら名前は変わらない。母さんは、あそこへ行った。


そして、あの装置には母さんの情報が登録されていた。


《第一世代適応記録》


《登録個体:雨宮澪》


俺に対して表示されたのは、


《第二世代継承個体》


だった。意味はまだ分からない。ただ、偶然にしては出来すぎている。スマホの暗い画面に、今の俺の顔が薄く映っていた。


腰近くまで伸びた灰黒色の髪に、淡い灰褐色の目。顔立ちにはどこか母さんの若い頃の写真を思わせる部分がある。装置は母さんの《適応形態》を参照した。それが俺の身体を女へ変えた理由なのだろうか。


考えても結論は出ない。俺はタグを胸ポケットへ戻した。地上に帰れば、専門家に調べてもらえる。今の俺がやるべきことは、余計な場所へ動かず救助班を待つことだった。


そこで、着ている探索服が目に入る。以前の身体に合わせた服なので、どれも少しずつ大きい。ズボンはベルトに自分で穴を増やした。袖は折っている。


登山靴には切ったタオルを詰め、足首をテープで補強していた。髪は結束バンドで後ろにまとめている。


「我ながらひどいな」


迷宮の中では機能していれば十分だった。救助班に会ったら、まず外見から説明が必要になるだろう。協会の登録情報には、15歳の男性として昨日までの顔写真が残っている。


そこへ、サイズの合わない男子用探索服を着た見知らぬ少女が現れて、自分が雨宮湊だと言う。


救助する側が困惑するのは当然だった。どう説明するか考えかけたところで、腹が鳴った。


「そっちの方が分かりやすいな」


バックパックから、焼いておいた洞兎の肉を取り出す。冷めているが、食べられるうちに食べておいた方がいい。


新しい身体になってから、明らかに食事量が増えている。身体は小さくなったのに、燃費だけ悪化している。


しかも傷の治りが異常に早い。迷素と食事の両方を大量に使って、身体を維持しているのかもしれない。これも検査対象だ。俺は肉を食べながら、ステータスを表示した。


《雨宮 湊》


RACE 人間SEX 女性LEVEL 4HP 96 / 96


MP 251 / 251STR 8VIT 10AGI 18


DEX 22MAG 12MND 20PER 43


ADP ERROR


《Skills》


《迷路記憶Ⅰ》


《平衡Ⅰ》


《Species Traits》


《迷素糸Ⅰ》


昨日と比べると、数字はかなり変わっている。特にMPとPERは、LEVEL 4として明らかに高い。ただ、ステータスそのものより気になるのは、実際の身体の変化だった。第8層で石歯犬に噛まれた傷は、もう薄い痕しか残っていない。


迷素糸を使えば、壁や地面の構造を数m先まで触覚のように感じ取れる。


単に男から女へ変わっただけなら、こんな能力まで増える理由がない。俺が異種化したのか。それとも、別の何かなのか。


「医者に投げるしかないな」


自分で考え続けても仕方ない。食べ終わった頃には、救助予定時刻まで1時間を切っていた。俺は少しだけ横になり、目を閉じた。



目を覚ましたきっかけは、胸の奥に生まれた軽い違和感だった。石歯犬や擬人人形に遭遇した時ほど強い反応ではない。すぐに、遠くから複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。


金属が擦れる音と、人間の話し声。俺は身体を起こした。スマホを見ると、救助予定時刻の少し前だった。通路の先から強いライトが近づいてくる。


「こちら朝霧救助3班です! 雨宮湊さん、聞こえますか!」


「聞こえます!」


返事をすると、ライトの動きが一瞬止まった。近づいてくる人数は5人。全員が協会救助隊の装備を身につけていた。先頭の男性は40代くらい。その後ろには女性隊員が1人と男性隊員が3人いる。


俺の姿を確認した直後、後方の隊員が携帯端末へ視線を落とした。


「対象を発見。生命証の反応は一致しています。ただ、登録記録と写真では男性になっています。対象の取り違えではありませんか?」


先頭の男性も端末を確認してから、俺を見る。写真と今の外見がまるで違う以上、そうなるだろう。


「君が、雨宮湊さん?」


「はい。本人です」


男性は驚いた様子を残しつつも、すぐに仕事へ戻った。


「生命証を確認させてもらうね。こちらでも反応は取れてるけど、本人照合までやる」


俺は左手首を差し出した。携帯端末を生命証へ近づける。


《雨宮 湊》


《本人照合――一致》


《生体署名――一致》


《継続同一性――99.9987%》


男性は結果を確認し、後ろの隊員へ伝えた。


「本人で間違いない。登録情報と外見の不一致は身体変異として扱う。詳しい確認は地上で医療班に回す」


それから俺へ向き直る。


「今の体調はどう? 歩けそう?」


「普通に歩けます。昨日、石歯犬に左腕を噛まれて、腹にも一撃を受けましたけど、数時間寝たら傷がかなり塞がってました」


女性隊員が近づき、傷痕を確認した。


「回復薬は使ってない?」


「消毒と止血だけです」


「昨日の傷にしては治りが早すぎるね。今ここで体温と血圧だけ確認するから、詳しい検査は医療区画でやろう。途中で痛みや気分の悪さが出たら、すぐ言って」


「分かりました」


無理にその場で原因を追及されないのは助かった。測定を終えると、隊長は今度は俺の服装を見た。


「装備が少し大きいみたいだけど、その靴で歩ける?」


「詰め物とテープで固定してるので、普通に歩く分には大丈夫です」


「それなら帰りは無理に替えなくていい。ただ、サイズの合わない靴は下りや走る時に危ないから、地上へ戻ったら買い替えた方がいいよ」


「そうします」


救助する側にとって重要なのは、俺が安全に移動できるかどうかだ。それ以上、靴について話す必要もなかった。


「それと、転移先について少しだけ確認したい。第8層に直接飛ばされた?」


「第1層の帰り道で転移罠を踏んだ後、地図に表示されない人工区画へ飛ばされました。そこから外へ出た時に、初めて第8層だと分かりました」


「人工区画?」


「そこでこれを見つけました」


胸ポケットから探索者タグを取り出す。隊長へ見せた。


《雨宮 澪》


名前を見た瞬間、男性の表情が変わった。


「雨宮澪……君のお母さんか」


「はい」


「朝霧で地形調査をしてた探索者だよな」


「知ってるんですか?」


「名前はね。未踏区画の調査をやる探索者の間では知られてた。行方不明になってから捜索にもかなり人が入ってる」


母さんは自分の仕事の実績についてほとんど話さなかった。俺が知っているのは、地形調査や未踏区画の測量を専門にしていたことくらいだ。


「このタグを、その人工区画で見つけたんだね?」


「ほかにも母が使っていた経路記号が残ってました」


「分かった。これは重要な情報になる。地上へ戻ったら、転移前から順番に聞き取りさせてもらうことになると思う」


「タグも調べてもらえますか?」


「もちろん。勝手に処分することはないし、検査が終われば返還手続きもできる。今は君が持っていていいよ」


俺はタグを胸ポケットへ戻した。協会へ渡すのは、地上へ帰って正式な記録を取ってからでいいらしい。


「じゃあ移動しよう。今日は救助対象なんだから、先頭には出ないでね」


「出る気ないです」


「それが一番助かる」


救助班の後ろについて、第6層から地上へ向かった。



5人の救助隊と一緒に歩く迷宮は、1人で歩いていた時とは全く違った。隊列の前後を経験者が固めている。先頭は地形と魔物の気配を確認し、後方にも常に人がいる。


第5層へ向かう途中、牙猿が2匹現れたが、俺がナイフへ手を伸ばす前に処理された。


盾を持った隊員が1匹目の進路を止め、側面から槍が入る。もう1匹には後衛の魔法が飛んだ。戦闘は長引かなかった。


「救助班って強いんですね」


近くを歩いていた女性隊員に言う。


「救助先で一緒に遭難したら意味ないからね。私たちは戦うために迷宮へ入るわけじゃないけど、救助対象を連れて帰れるだけの訓練はしてるよ」


「それはそうですね」


昨日、石歯犬1匹を相手に死にかけたことを考えると、実力差は分かりやすい。だからといって落ち込む理由もない。俺は仮資格を取ったばかりだ。そもそも第8層にいる予定ではなかった。


第4層へ入った頃には通信も安定していた。スマホへ新しい通知が一気に届く。榊からも何件か来ていた。


《救助来た?》


《まだ生きてる?》


《返事しろ》


俺は歩きながら、


《救助された。今地上に向かってる》


と送った。すぐ既読がついた。


《電話できる?》


しばらく画面を見る。やはり今はしたくない。


《地上着いてから》


それだけ返した。


「友達?」


女性隊員が聞いた。


「中学の知り合いです。高校も同じです」


「じゃあ心配してるだろうね」


「身体が変わったことをどう説明するか考える方が面倒です」


俺がそう言うと、女性隊員は少し考えた。


「無理に上手く説明しなくてもいいんじゃない? 本人だってまだ状況を理解できてないんでしょ」


「そうなんですよね」


「協会から学校に正式な証明を出せると思うし、友達には見てもらった方が早い場合もあるよ」


確かにそうかもしれない。何十行もメッセージを送るより、会えば今の身体は一目で分かる。


その後に何があったと聞かれても、転移先の装置で変えられたとしか答えられない。


「入学式まで8日なんですけど、それまでに学校の手続き間に合いますかね」


「身体変異なら学校も前例はあると思う。性別まで変わったケースは私は聞いたことないけど」


「制服、男子用しか持ってないです」


「それは早めに相談した方がいいね。異種化で体格が変わった場合の生活用品補助もあるから、協会の相談窓口で聞いてみるといいよ」


「補助あるんですか?」


「条件に合えばね」


これはかなり重要な情報だった。服。靴。制服。


全部買い直しだと思っていた。多少でも補助があるなら助かる。


「まあ、救助費は別だけど」


「救助費?」


聞き返す。


「知らなかった?」


「未成年だと無料じゃないんですか?」


「捜索開始までの通常対応は公費で出る部分もあるけど、今回は第6層まで専任班が入ってるから救助費が発生すると思う。正確な金額は地上で説明されるはず」


「……いくらくらいです?」


「私は請求担当じゃないから断言できないけど、安くはないよ」


嫌な話を聞いた。6万円足りなくて迷宮へ入った。その結果、金を稼ぐどころか救助費まで増える。


「帰るのちょっと怖くなってきました」


「迷宮に残った方が確実に高くつくから帰ろうね」


「それはそうですね」


そこからは黙って歩いた。



第1層へ入ると、人の数が一気に増えた。採取袋を持った初心者に訓練中の探索者。そして協会職員。


昨日、自分がここから出発したことが嘘みたいだった。迷光苔を集めて、9,000円くらいになればいいと思っていた。その日のうちに帰って、夕飯を食べて、翌日また家計を考える予定だった。


実際は、女になって戻ってきた。


「帰ってきた」


自然に言葉が出た。強い感動があるわけではない。ただ、身体から余計な力が抜けていく。人工床。


管理照明。人の声。どれも昨日まで当たり前だったものだ。救助隊長が地上側へ通信する。


「未帰還者、雨宮湊を確保。本人照合済み。歩行可能で生命状態は安定。迷宮性と思われる大規模身体変異を確認しているため、医療区画へ直接移送する」


最後のゲートを抜ける。管理フロアにいた職員がこちらを見る。そのうちの1人に見覚えがあった。昨日、入場前に声をかけてきた女性職員だ。


相手は俺を一度見て、そのまま救助班へ視線を移した。


「雨宮君は?」


「俺です」


女性職員が改めて俺を見る。


「……雨宮君?」


「はい。昨日はどうも」


驚くのは当然なので、俺は説明を急かさなかった。


「転移先で身体変異が起きた。本人認証は済んでる」


救助隊長が簡単に補足した。


「そんな変わり方することあるの?」


「そこをこれから医療班が調べる」


「俺も知りたいですよ…」


女性職員はまだ驚いた様子だったが、それ以上その場で質問はしなかった。


「無事でよかった。昨日から捜索班もかなり動いてたから」


「すみません」


「転移罠なら君が謝ることじゃないよ。まず診てもらってきて」


「はい」


その言葉に従い、医療区画へ向かった。



最初に案内されたのは診察室ではなく、更衣室だった。看護師が検査着を持ってきた。


「探索服、かなりサイズが合ってないから、一度これに着替えてもらえる? そのあと身体計測から始めます」


「分かりました」


扉を閉める。探索服を脱ぐ。迷宮では生きることを優先していたので、自分の身体を落ち着いて見る時間はほとんどなかった。今になって改めて確認すると、本当に以前とは何もかも違う。


腕も脚も細くなっている。肩幅も狭い。腰や骨盤の形も変わっている。身体は完全に女性のものだった。


「さすがに見慣れないな」


嫌だという感覚より、自分の身体なのに扱い方がまだ分からないことの方が気になる。第8層では、そのせいで何度も動きを失敗した。これから生活するなら、嫌でも覚える必要がある。検査着へ着替え、外へ出た。


看護師が俺の髪を見る。


「髪も今回伸びたの?」


「昨日までは短かったです」


「その結束バンド、外す?」


「お願いします。迷宮の中で邪魔だったので、とりあえずそれでまとめました」


小さなハサミで結束バンドを切ってもらう。髪が背中へ落ちた。看護師が軽く整えてくれたが、やはり腰近くまである。


「かなり長いね。検査中はこっちで軽くまとめておこうか」


「助かります」


そのまま身体計測へ入った。身長は155.8cm。体重は47.2kg。以前は171cm前後あったので、15cm以上縮んでいる。


体温は35.4度。血圧や脈拍には大きな異常なし。その後は採血、採尿、迷素濃度測定、ステータス測定、画像検査と続いた。CT。


MRI。迷素伝達経路の可視化。必要と言われるものを順番に受ける。検査自体は痛くない。


ただ、長い。


「今日帰れます?」


途中で看護師に聞く。


「先生の判断になるけど、今日は泊まってもらう可能性が高いと思う。身体全体が変わってるからね」


「冷蔵庫に豆腐があるんですけど」


「そこは相談員に相談しようか」


「豆腐で相談員呼ぶんですか」


「君、15歳で1人暮らしでしょう。そっちの生活支援も含めて」


「なるほど」


それなら話は分かる。検査開始から2時間近く経った頃、ようやく診察室へ呼ばれた。男性医師と女性医師が1人ずつ。机のモニターには俺の胸部画像が表示されていた。


男性医師は、いきなり専門用語を並べることはしなかった。


「まず先に結論から話すね。今のところ、すぐ命に関わる異常は見つかっていない。血圧も呼吸も安定しているし、主要な臓器もちゃんと働いている。だから、そこは安心していい」


「よかったです」


「ただし、昨日までの君と同じ身体かと言われれば、かなり違う。性別や骨格が変わったという話だけでは説明できない部分がいくつかある」


医師が胸部CTを拡大した。心臓のすぐ近くに、小さな楕円形の影が映っている。


「ここに、昨日までの検査記録には存在しなかった器官がある」


「装置では《迷素循環核》って表示されてました」


男性医師の手が止まった。


「装置側に名称が出たんだね?」


「はい。《迷素伝達路形成》とか《深層感覚系構築》とか、処置中にいくつか表示されてました」


「その文章は後でできるだけ正確に記録してほしい。今の段階で僕らが同じ名前を正式名称として使えるわけではないけど、仕組みを考える手掛かりにはなる」


医師は再び画像を示した。


「分かりやすく言うと、この新しい器官を中心にして、君の身体は迷素を全身へ循環させているように見える。普通の人間も迷素を体内へ取り込むし、魔法を使う人ならその経路がかなり発達する。でも、君の場合は使い方が少し違う」


「魔法を撃つためじゃない?」


「少なくとも、それだけではないね。筋肉や神経、内臓まで含めて、身体そのものの維持に迷素を使っている可能性が高い」


次に、全身の迷素流を可視化した画像が表示された。胸部から細い光の筋が全身へ広がっている。


「君の血液からは、普通なら迷素中毒を疑う程度の濃度が検出されている。でも、頭痛も吐き気も意識障害も出ていない。それどころか身体は安定している。つまり、今の君にとってはこの状態が異常ではなく、正常値になっている可能性がある」


「危険ではないんですか?」


「今すぐ危険だと判断する材料はない。ただ、長期的に問題がないと断言するには情報が足りない」


医師はそこで少し椅子を引いた。


「迷宮が世界に出現してから、今年で28年になる。昔と比べれば、迷素中毒も異種化も迷宮環境への人体適応もずいぶん研究が進んだ。でも、迷宮について全部分かったかと言えば、全くそんなことはないんだ。特に深層に近づくほど、今までの分類から外れる現象が増える」


「それは教科書で習いました。深層では迷素濃度だけじゃなくて、空間そのものの性質も変わるから、地上の医学では説明できない症例が出るって」


「そう。それが学校で習う一般的な説明だね」


医師が頷く。


「今回の君は、その中でもかなり特殊な方に入る。一般的な異種化の場合、角が生えたり、感覚器が増えたり、骨格が変化したりしても、基本的には人間の身体を改造したものとして説明できることが多い。でも君の場合は、新しい器官を作ったうえで、その器官に合わせて血管や神経、迷素の経路まで組み直されている」


「だから傷が早く治ったんですか?」


「可能性は高い。救助記録では、昨日石歯犬に噛まれた傷が数時間でかなり塞がったんだよね?」


「はい。消毒と包帯しか使ってません」


「迷素を利用して組織修復を加速しているなら、一応の説明はできる。ただし、何でも治ると考えるのは危険だよ。骨や臓器の大きな損傷まで同じように回復するかは分からないし、食事量が増えているのも、その修復に大量の栄養を使っている可能性がある」


「やっぱり食べる量増えてるんですね」


「少なくとも検査中にもかなり代謝が高かった。食事制限はしない方がいい。ただし、しばらくは記録を取ろう。何をどれくらい食べたか、体調がどう変化したかも知りたい」


「食費が増えるのは困るんですけど」


「医学的にはそこを止めるわけにはいかないね」


そう言われると何も返せない。女性医師が別の資料を開いた。


「それから、DNA検査の速報も出てる。これは先に安心していいところから説明するね」


画面に比較結果が出る。


「過去に登録されている雨宮湊本人のDNAとは一致してる。親子関係の情報も変わっていない。だから、見た目や性別が変わっていても、生物学的な連続性まで別人になったわけじゃない」


「じゃあ俺は俺なんですね」


「少なくとも、現在の検査でそこを疑う理由はない」


それは思っていた以上に安心した。身体が変わっただけでなく、遺伝情報まで別人になっていたら、何を基準に自分だと言えばいいのか分からなくなる。


「ただし、ここにも続きがある」


女性医師が別の項目を示した。


「通常のDNA検査では問題ない。でも、迷素を加えた状態で発現する領域に、過去の君には確認されていなかった反応がある」


「それって突然変異ですか?」


「まだそう呼べない。元から眠っていたものが今回の処置で発現した可能性もあるし、装置によって新しく作られた可能性もある。そこは追加検査が必要」


「装置は《継承因子》って言ってました」


2人の医師が同時にこちらを見る。


「その言葉も出たの?」


「母の名前を表示した後に、《系統一致》《第二世代継承個体》って」


男性医師がメモを取る。


「お母さんの医療記録については、本人同意や失踪者対応の規定があるからすぐ全部見られるわけじゃない。ただ、必要性が認められれば照合手続きは進められると思う」


「お願いします」


「もちろん。今回の身体変異とお母さんの情報に関係があるなら、こちらとしても調べる必要がある」


俺はもう一度、胸部画像を見る。心臓の横にある知らない器官。見た目は人間。生命証も本人。


DNAも俺。それなのに、昨日までの身体にはなかった構造ができている。


「結局、俺は異種化したってことでいいんですか?」


医師はすぐに断定しなかった。


「行政上は、今のところ《迷宮性恒久身体変異》として扱うことになると思う。広い意味では異種化に含めていい。ただ、医学的に既知の異種化と同じ現象だと断言するのは早いね」


「分からないことが多いんですね」


「迷宮医療をやってると、それを毎年思い知らされるよ」


男性医師は苦笑した。


「28年研究しても、迷宮の方が新しい問題を出してくる速度の方が速い」


「教科書にも似たようなこと書いてありました」


「教科書を書く側としては、もう少し格好よく書きたいんだけどね」


少しだけ空気が軽くなった。


「今日はこのまま入院してもらう。今夜と明日の朝にもう一度血液と迷素濃度を確認して、急激な変化がなければ、明日以降は外来検査へ切り替えられる可能性がある」


「入学式には間に合いますか?」


「8日後だね。現時点で入院を8日続ける予定はない。ただ、学校生活については協会と学校の調整が必要になる」


「制服もですか」


「身体サイズも性別も変わってるからね。迷宮性身体変異の証明書が出れば、学校指定品や生活用品について補助制度を使える可能性がある。相談員から詳しく説明してもらおう」


「助かります」


そこで診察は一度終わった。



医療区画を出たところで、今度は探索者協会の相談員が待っていた。40代くらいの男性で、タブレットを持っている。


「雨宮湊さんですね。身体変異関係の手続きと、今回の救助費用について説明があります。体調は大丈夫ですか?」


「大丈夫です」


「では、先に費用から説明します」


嫌な予感がした。


「今回、第1層の未帰還通報から捜索が開始され、その後、第6層で位置情報を確認して専任救助班を派遣しています。公費負担分を除いた自己負担額が、15万円になります」


「15万円?」


聞き間違いではなかった。相談員が画面をこちらへ向ける。


《救助費自己負担額 150,000円》


「未成年ですので一括払いを求めることはありません。支払期限は3ヶ月以内です。分割納付もできますので、生活状況を確認したうえで支払い計画を作れます」


俺は数字を見た。15万円。高校入学前に不足していた金が約6万円。合計すれば、それだけで21万円。


さらに装備の修理や買い替えも必要になる。


「……金稼ぎに迷宮へ入ったんですけど」


「そうだったんですか?」


「入学費用が足りなくて」


「それで初回探索を?」


「はい」


相談員は少し困った顔をした。


「今回については、身体変異による衣類や学校用品の補助、医療費の負担軽減制度も使える可能性があります。全部が自己負担になるわけではないので、まずはそこを整理しましょう」


「救助費の15万円は消えないですよね」


「救助費は原則として残ります。ただし、3ヶ月以内なら分割できます」


「分かりました」


払うしかない。助けてもらったのだから、そこへ文句を言う気はない。問題はどうやって払うかだ。普通のアルバイトなら、学校生活と両立しながら3ヶ月で15万円を捻出するのは簡単ではない。


迷宮。頭に浮かぶ。今日あれだけの目に遭った直後なのに。それでも、素材採取の効率だけなら普通のアルバイトより高い。


しかも今の俺は、昨日までとは身体能力も違う。危険感知。迷素糸。高いPER。


それを金稼ぎのために使うべきかどうかは、まだ分からない。


「探索禁止とかになります?」


相談員へ聞く。


「医師の許可が出るまでは一時停止になると思います。ただ、恒久的な資格停止になるかどうかは別です。身体状態が安定して、協会の再検査を通れば仮資格の継続も可能でしょう」


「なるほど」


つまり、戻れる可能性はある。今すぐ決める必要はない。俺はタブレットに表示された15万円をもう一度見た。3ヶ月。


「結構重いな……」


「分割計画は一緒に考えますから、今日決めなくても大丈夫ですよ」


「お願いします」


その後、学校への身体変異証明、制服や衣類の補助、住居の確認などについて説明を受けた。全部終わった頃には、かなり疲れていた。



病室へ移された時には、外はもう暗くなっていた。個室。ベッド。テレビ。


小さな冷蔵庫。窓の向こうには道路と街灯が見える。車が普通に走っている。コンビニの看板が光っている。


迷宮の中では何度も想像した景色だった。俺は窓の前に立った。


「帰ってきたんだな」


今度は、第1層で思った時より実感があった。看護師が夕食を運んできた。


「食欲はどう?」


「かなりあります」


「検査結果でも消費量が多いみたいだから、ご飯は大盛りにしてあるよ。足りなかったら言ってね」


「ありがとうございます」


白飯。焼き魚。野菜の煮物。冷や奴。


味噌汁。ちゃんとした食事。箸を持つ。味噌汁を飲む。


少し濃い。でも今は、そのくらいがうまかった。全部食べた。大盛りの白飯もなくなった。


それでも、まだ少し食べられそうだった。


「本当に食費増えるな」


15万円。救助費。制服。靴。


食費。頭の中で家計簿の項目が増えていく。ベッドへ座ってスマホを開く。榊からメッセージが届いていた。


《地上着いた?》


《着いた。今日は入院》


《怪我?》


《身体の検査》


《何があった》


今までなら適当に後回しにしていた。でも8日後には会う。先に伝えておいた方がいい。


《転移先の装置で身体が変わった》


既読。


《異種化?》


そこまでは社会で知られている。問題は次だ。


《今のところ協会は迷宮性身体変異として扱うらしい》


送信する。


《どこ変わった》


俺は少し考えた。遠回しに書く意味もない。


《男から女になった》


送信。既読がつく。そこから返事が来なくなった。1分。


2分。3分。ようやく通知が来た。


《は?》


「そうなるよな」


それ以上は明日でいい。スマホを置き、ベッドへ横になる。長い髪が枕の下へ入り込んで首を引っ張った。


「これ寝る時どうすればいいんだ」


迷宮では結束バンドでまとめていた。病室で同じことをする気にはならない。髪の扱い。服。


学校。身体。15万円。母さんのタグ。


新しい器官。考えることが一気に増えた。それでも、迷宮で石歯犬の気配を探しながら眠るよりはずっといい。明日から何をするにしても、今日は安全な場所で眠れる。


俺は部屋の照明を消した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ