第三話《食べるために》
第七層へ続く階段は、思っていたより長かった。協会が整備した階段ではない。岩盤を削って作られた古い通路で、一段ごとの高さも幅もばらばらだ。
第八層で擬人人形から逃げ回った直後の身体には地味にきつい。それでも、一段上がるごとに地上へ近づいていると思えば気分は悪くなかった。
「七層に着いたら通信くらい繋がってほしいけど」
スマホを見る。圏外だった。期待はしていなかったので、そのままポケットへ戻した。
五分ほど登ったところで、階段の先に淡い緑色の光が見えてきた。
灯苔だった。第八層ではあまり見なかった種類だ。
壁一面に生えた苔がぼんやりと発光し、ライトを使わなくても足元くらいなら見える。最後の一段を上がる。
スマホの地図が切り替わった。
《朝霧第一迷宮 第7層》
「やっと一個か」
第一層からなら大したことのない数字だ。八から七へ移動しただけなら、普通の探索者は何とも思わないだろう。俺にとっては違う。第八層へ飛ばされてから、まともに地上へ近づいたのはこれが初めてだった。
残り六階層。まだ先は長いが、進んではいる。
俺は階段の出口で立ち止まり、周囲を確認した。第七層は第八層より少し広い。
岩壁の間から太い木の根のようなものが伸び、ところどころ地面を持ち上げている。
迷宮内部に本物の樹木があるわけではない。地上の植物に似た、迷素依存の大型植物だ。湿度も高い。気温は二十度前後で、歩くには楽だが、虫が多そうで嫌だった。
地図を見る。第六層への主要昇層路は北東にあり、現在地から直線距離で約五・二キロある。
「第八層より遠いな」
地図上では、途中に管理ルートが二本ある。避難所も一ヶ所あった。それを見つけて、俺は指を止めた。
《第7層西部簡易退避所》
現在地から約二・一キロ。協会が設置している探索者用の小型シェルターだ。普通なら、非常食と飲料水、救急用品、緊急通信機の四つがある。
「先にこっちだな」
第六層へ向かうより優先度が高い。通信が生きていれば、それで帰還問題は終わる。少なくとも救助要請はできる。非常食も補充できるかもしれない。
俺は退避所を目的地に設定した。歩き出す。
昨日までなら第七層というだけで緊張していたはずだが、第八層で石歯犬と擬人人形を見た後だと、少し感覚がおかしくなっている。だからといって安全だと思うつもりはない。
第七層の標準危険度もE級に指定されている。俺が正面から勝てる魔物ばかりではない。むしろ石歯犬一匹で苦戦したばかりだ。
危険感知を意識する。
スキルとして取得したからといって、頭の中にレーダー画面が出るわけではない。何となく嫌な方向が分かる。それだけだ。ただ、その「何となく」の精度がかなり高い。
百メートルほど歩いたところで、右側の通路から軽い圧迫感を覚えた。痛いわけではない。胸の奥が少しざわつく。俺は足を止めた。
右を見る。何もいない。ライトを向けても岩壁と植物しかない。
「行かない方がいいってことか?」
地図を確認する。右へ行っても退避所には近づかない。なら試す理由もない。左を選ぶ。
数分後、遠くで重い足音が聞こえた。さっき避けた右側の方向だった。
岩を踏み砕くような音が何度か続き、やがて遠ざかっていった。
「優秀」
危険感知なのか。PER四十三のせいなのか。それとも両方か。とりあえず役に立つ。
それで十分だった。
歩きながら身体の調子も確認する。HPは満タンだ。左腕の傷は、包帯を外しても問題ない程度まで塞がっている。
腹の打撲もほぼ消えた。昨日の負傷とは思えない。代わりに、かなり腹が減っていた。
「回復するたび腹減るとか?」
ありそうで嫌だ。迷素を使って治しているとしても、身体そのものを作る材料は必要だろう。エネルギーまで全部迷素で賄えるなら食事なんていらなくなるが、さすがにそこまで都合よくはないらしい。むしろ今の俺は、以前より食べる必要がありそうだった。
バックパックを下ろし、残っている非常食を確認する。栄養バーが一本、羊羹が一本、ナッツが半袋ほど残っていた。
「昼まで持つか?」
現在時刻は七時三十分。迷宮に太陽はないが、身体の感覚では朝だ。昨日の夕飯から考えると食べている量が少なすぎる。食べるべきだ。
ただし、退避所に食料がある可能性もある。俺は栄養バーを半分だけ食べた。昨日なら一本全部食べていたところだが、少しでも残す。
「味にも慣れてきたな」
嬉しくはない。水を飲み、再び歩き始めた。
◇
退避所へ向かう途中で、初めて第七層の洞兎を見つけた。岩場の陰から長い耳だけが出ている。体長五十センチほどで、地上のウサギよりかなり大きい。
灰褐色の毛を持ち、額には小さな魔石が露出している。危険度はF級で、攻撃性も低い。
食用認定済みで、肉は普通に市場へ流通している。
俺は足を止めた。洞兎もこちらを見た。
「……」
目が合う。逃げない。距離は十五メートルくらいだった。
今なら狩れる。
そう考えた。食料は残りわずかだ。退避所の物資が無事とは限らない。地上まで少なくとも数十キロある。
魔物肉を食べなければ、いずれ体力が尽きる。狩るなら、攻撃性の低い洞兎は最適だ。
「でも今じゃなくてもいいか」
洞兎へ近づかず、横を通る。相手も俺を警戒したまま、岩の陰へ消えた。
一時間後、その判断が少し甘かったことを知った。
第七層西部簡易退避所の銀灰色の金属扉は、見つけること自体は簡単だった。
協会のマークがあり、緑色の誘導灯も点いている。扉の横には、非常時でも開けられる手動レバーがあった。
「助かった」
期待してレバーを引く。扉が重い音を立てて開いた。
中へ入ると、すぐに違和感を覚えた。
「……あー」
床が濡れていた。右奥の壁が崩れている。天井の配管も一本落ちている。内部へ迷宮植物の根が入り込み、壁を割っていた。
最近のものではなさそうだ。地図には稼働中と表示されている。情報更新が追いついていないらしい。
「通信は?」
壁際にある緊急端末を見る。画面は真っ暗だった。電源ボタンを押しても反応せず、予備電源へ切り替えても駄目だった。
「そんな気はしてた」
ここまで都合よく帰れるなら、第八層であれだけ走り回った意味がない。期待していた分だけ少し腹が立つ。
次に物資庫を調べる。
金属棚の上段は空だった。中段には破れた非常食パックが残っているだけで、下段には密封された水ボトルが二本あった。
「水は生きてる」
一リットルずつあり、賞味期限も問題ない。ありがたい。
さらに奥を探すと、防水ケースがあった。開けると、包帯や消毒液、簡易止血剤、保温シート、携帯用固形燃料が入っていた。どれも使える。
「食料は……」
棚を探す。
一つだけ残っていた。銀色の非常食パックだ。
《探索者用高栄養食 チキンリゾット》
俺は両手で持った。
「神」
声に出た。
一食四百八十キロカロリー。十分ではない。でも今の状況では大きい。
退避所の中には魔物が侵入した形跡もない。扉も閉められる。休憩するならここが最適だ。
俺は固形燃料に火をつけ、金属カップで湯を沸かした。そこへパックを入れて温める。
待つ。
こういう時、五分が長い。匂いが漏れ始めた。
「腹減った……」
さっきからそれしか言っていない気がする。
温まったパックを開け、スプーンですくって一口食べた。
「うまっ」
市販の非常食だ。普段なら普通だろう。今は店で出されても文句を言わない。
米の食感があり、鶏肉と少し濃い塩気がある。
一気に食べそうになるのを抑えた。
ゆっくり食べる。
食べ終わっても、まだ足りない。
「これで足りないの?」
身体へ聞いても答えはない。残していた栄養バーの半分も食べる。それでようやく空腹が少し落ち着いた。
「食費まで増えたら本当に困るな……」
地上へ戻った後の出費を考える。靴や服、制服に生活用品。身体変化の検査にも金がかかるかもしれないし、保険が出るかも分からない。そこへ食費まで増える。
六万円足りなくて迷宮へ来たはずだった。
「来る前より金なくなるんじゃない?」
十分あり得る。
俺はため息をついて、壁際へ座った。ここなら少し長めに休める。
スマホを充電する。モバイルバッテリーの残量は七十三パーセントある。まだ大丈夫だ。
地図を確認すると、第六層まではこの退避所から最短で四キロほどだった。
問題は途中の経路だった。地図に黄色い表示が出ている。
《局所通行注意》
昨日から出ているらしい。詳細を開く。
《根絡み回廊における生物密度上昇》
「嫌だな」
迂回すると二キロ近く増える。
時間を取るか、危険を取るか。
今の俺なら答えは決まっている。
多少遠くても、迂回する。死ぬよりいい。
目的地を設定し直した。
そこで、視界の端に小さな通知が出た。
《HP 96 / 96》
《MP 251 / 251》
どちらも満タンだった。
休憩しているだけでMPがかなり早く戻っている。やはり新しく作られた《迷素循環核》が関係しているのだろう。
試しに右手を壁へつける。
例の糸を意識する。
指先から見えない感覚が伸びた。一メートルまでは、第八層でもできた。
さらに伸ばす。
一・五メートル。二メートル。
「まだ伸びる?」
壁の表面を伝わせ、左右へ広げる。
石の凹凸や内部の亀裂、迷宮植物の根まで、直接触っていないのに指先でなぞっているように分かる。
二・五メートル。
三メートル。
そこで急に感覚が粗くなった。
「限界は三くらいか」
MPを見る。
二百四十二。
九消費している。
数センチ伸ばすだけで二ポイント使っていた最初と比べれば、効率も上がっている。
使ったから慣れたのか。LEVELが上がったからなのか。身体そのものが変化しているのか。
判断できない。
ただし、実用性は出てきた。
壁の向こうに空洞があるか。曲がり角の直前まで何かがいるか。罠の構造がどうなっているか。
そういうものを、直接触れずに確認できる可能性がある。
「探索向きではあるな」
攻撃力はない。でも俺にはその方がいい。火球を撃てるようになるより、帰れる道が分かる方が役に立つ。
糸を消し、ステータスのスキル一覧を開く。
《迷路記憶Ⅰ》
《平衡Ⅰ》
《――――》
昨日からある読めない項目。そして、その下に新しい文字が浮かびかけた。
《迷素――》
そこまで表示されて消える。
「名前くらい決めてから出してくれない?」
ステータス相手に文句を言っても仕方ない。
俺は立ち上がった。休憩を終え、第六層を目指す。
◇
退避所から三十分ほど進んだところで、非常食が完全になくなった。
最後の羊羹も食べた。残っているのはナッツが少しだけだ。これを食事とは呼びたくない。
「そろそろ本気で食料探さないとな」
第六層へ着くまで持たせることもできる。ただし、その先に食料がある保証はない。今後は見つけられる時に確保するべきだ。
幸い、第七層には洞兎が多い。
さっきから二度ほど気配を感じている。地図上でもこの周辺は採取区画として登録されていた。
俺は通路を外れすぎない範囲で洞兎を探した。
十五分探しても見つからなかった。
二十分ほど経ったところで小型生物の気配を感じたが、見つけたのは岩鼠だった。食えるには食えるが、肉が少ない。
さらに十分ほど探す。
「さっき見逃したやつが急に惜しくなってきた」
そういうものだ。
いらない時にはいる。必要になるといなくなる。
俺は水を少し飲んだ。
腹が減る。
思考にも影響し始めている。まだ問題になるほどではない。だからこそ今のうちに食料を確保しておきたい。
危険感知を意識して周囲を確認する。大きな危険は感じない。
PERの高さも頼りながら、音と匂いにも注意を向ける。
そして、迷素の糸を使った。
「これ、生き物にも使えるのか?」
試したことはない。
壁へ指をつけ、迷素の糸を地面沿いに伸ばす。
一メートル。
二メートル。
三メートル。
地面や小石、根の感触が伝わってくる。
その中に、小さな振動が混じった。
「ん?」
糸をそちらへ寄せる。
直接触れたわけではない。それでも、地面を通して軽く一定の足音が伝わってくる。
近い。
俺は手を離した。
右側だ。
岩壁の向こうに細い通路がある。回り込む。
いた。
洞兎が二匹いる。
「やっと見つけた」
小声で呟く。
洞兎はまだこちらに気づいていない。
どうするか考える。
ナイフを持って追いかけるのは難しい。ウサギ型は速い。AGIが上がったとはいえ、まともに追えば逃げられる。
罠を作るなら、テグスや細引きが使える。ただし時間がかかる。
投擲なら石がある。
俺は地面から拳大の石を拾った。DEX二十二。投げるのは得意な方だ。
ただし、当てても即死する保証はない。無駄に怪我をさせて逃がす可能性もある。
俺は洞兎の動きを観察した。
二匹のうち、一匹は岩壁沿いにいて、もう一匹は苔を食べている。近くには逃げ込めそうな穴もあった。
なら先に逃げ道を塞ぐ。
細引きを出す。
大がかりな罠ではない。穴の入口へ簡単な輪を作る。自分の匂いを残しすぎないよう手袋も使う。
もう一ヶ所の抜け道には石を置いた。
これで完全ではない。でも逃げる方向を限定できる。
準備には十五分ほどかかった。
終えると、俺は大きく迂回して洞兎の正面へ回った。
距離は二十メートルほどある。
石を一つ拾って投げる。狙ったのは洞兎ではなく、左側にある岩だった。
石が当たって音が響く。
二匹が同時に跳ねた。
予想通り、右へ逃げる。
俺は反対側から飛び出した。
二匹が方向を変える。
一匹は奥へ逃げた。
もう一匹が穴へ向かう。
仕掛けていた細引きが前脚に引っかかり、洞兎が転んだ。
「ごめん」
俺は走った。
ナイフを抜き、一撃で首を切る。
迷わない。手間取る方が苦しませる。
刃を入れると、洞兎は一度大きく動き、その後、力が抜けた。
「……」
俺はしばらくその場にしゃがんでいた。
魔物だ。
人間ではない。
市場では普通に肉として売られている。
それでも、自分で殺して食べるとなると話が違う。
昨日の石歯犬は向こうから襲ってきた。生き残るために殺した。
今回は俺から殺した。
「食べるからには、ちゃんと使うか」
感傷に浸って腐らせたら、その方が無駄だ。
母さんに一度、鹿の解体を見せてもらったことがある。自分でやったことはない。
講習でも小型魔物の処理手順は習った。
知識はあるが、実践は初めてだ。
まずは水場が必要だった。
地図を見ると、近くに小さな流水マーカーがある。
洞兎を運ぶ。
今のSTR八には、そこそこ負担になる重さだった。
「肉って状態だと軽そうなのに、生き物の形してると重いな」
十五分ほど歩いて水場へ着く。
周囲を確認する。
危険はない。
まず血を抜き、その次に皮を剥ぐ。
「えーっと、後脚から……」
手順を思い出す。
ナイフを入れて切るが、上手くいかない。
「母さん、もっと簡単そうにやってたな」
当たり前だ。
プロと初回を比べても仕方ない。
皮が途中で破れ、肉にも少し傷をつける。
次は内臓を慎重に取り出す。胃腸を破れば臭いが移る。
洞兎には食用にできる部位と避けるべき部位があり、特に額の魔石周辺と肝臓の一部には迷素が濃縮しやすい。そこは使わない。
全部終えるまで四十分ほどかかった。
「長い」
手際が悪い。
それでも肉は取れた。
全部持っていく必要はない。今日と明日の朝に使える程度でいい。
残った部分をどうするか考える。
その辺へ放置すれば魔物を呼ぶ。
地図を見ると、解体残渣用の処理穴が管理ルート沿いに設置されていた。少し遠い。
「ちゃんと持っていくか」
密封袋を取り出す。
講習で持っておけと言われていた大型袋が、ここで役に立った。母さんの準備癖がここでも効いている。
肉を袋へ入れる。
気温は高くないとはいえ、生肉だ。今日中に食べる分以外は早めに火を通した方がいい。
俺は水場から離れ、安全そうな窪地を探した。
煙を出す焚き火はしない。
固形燃料と金属カップ、それから非常用の小型網を取り出した。
「持っててよかった」
荷物を確認した時は地味すぎて説明から外していたくらいの装備だ。今は重要だった。
肉を薄く切る。
味付けに使えそうなのは塩タブレットくらいしかない。
「これ料理に使っていいのか?」
成分を見ると、塩のほかに糖やミネラルも入っている。
変な味がしそうだ。
普通の塩は持っていない。
「ないよりましか」
少量を砕いて振りかけ、網の上で焼く。
じゅう、と音がして、肉の匂いが広がった。
「……これやばいな」
腹が一気に反応した。
焼けるまで待つ。
中まで完全に火を通す。魔物肉を生焼けで食うほど勇気はない。
一切れを取って半分に切り、中まで火が通っていることを確認してから食べた。
「うまっ」
非常食のリゾットとは違う。
ちゃんと肉を食べている味がする。
鶏肉より少し癖がある。ウサギ肉らしいと言われればそんな気もするが、地上で食べたことはないので比較できない。
塩タブレットのせいで少し甘い。
「味付けは失敗だな」
でも食える。
二切れ、三切れと食べても、まだ手が止まらなかった。
半分ほど食べても、腹はまだ受け付ける。
「……本当に食う量増えてるな」
以前ならここまで食べれば満腹だった。
今は七割くらいだ。
身体の大きさは減っている。消費量は増えている。
どう考えてもおかしい。
肉をもう少し焼く。
結局、一食でかなりの量を食べた。
残りはしっかり加熱して袋へ入れる。
冷却できないので長期保存は無理だ。明日の朝までに食べ、それ以上残れば捨てる。
「地上なら冷蔵庫あるのにな」
冷蔵庫の中にある卵や豆腐、それからプリンを思い出す。
急に家が恋しくなった。
人恋しいわけではない。家が恋しい。
「一人暮らし始めて三日でホームシックって、ちょっと違う気がするけど」
原因は八層へ飛ばされたことだ。誰でも帰りたくなる。
食べ終わってから後片付けを始め、魔物を呼ばないよう匂いをできるだけ残さないようにする。
水で器具を洗い、処理残渣をまとめる。
全部終わった頃には一時間以上経っていた。
「食うだけでこんなかかるのか」
地上ならスーパーで肉を買えば終わりだ。
文明は偉い。
◇
食事を取ってから、身体の動きが明らかによくなった。疲労感が減った。肩の痛みも軽い。MPはすでに満タン近くまで戻っている。
「迷素と飯の両方いるんだな」
なんとなく仕組みが見えてきた。
迷素はエネルギーで、食事は材料になる。
そんなところかもしれない。
正確なところは専門家に調べてもらうしかない。
俺は第六層を目指して移動を再開した。
途中、例の《生物密度上昇》区画を大きく迂回する。危険感知のおかげで、魔物との接触は一度だけで済んだ。
遠くに石角猪らしき気配を感じたが、先に道を変えた。
戦わない。
食料はある。
地上へ帰るのが目的だ。
午後一時過ぎ。
第六層への主要昇層路まで残り一キロになった頃には、迷素の糸を移動中にも少しずつ使えるようになっていた。
壁へ直接手をつけなくても、指先から短く伸ばせる。
岩や床、根に触れる。
距離は一メートル程度まで落ちるが、それでも使える。
「こう?」
右手を軽く動かす。
見えない感覚が床へ伸び、前方の石と、その裏側にある空洞を捉えた。
「便利だな」
踏む前に分かる。
試しに石を棒で押すと崩れ、その下に三十センチほどの穴が現れた。
足首を取られる程度だ。
命に関わる罠ではない。でも転倒は避けられる。
もう一度、糸を使う。
今度は二本に分けて左右へ伸ばすと、入ってくる情報量が一気に増えた。
頭が少し重い。
同時に使える数にも限界があるらしい。
そこで通知が出た。
《Skill Formation Complete》
俺は足を止めた。
《Species Trait Acquisition》
《迷素糸Ⅰ》
「種族特性?」
見慣れない分類だった。
通常のスキルではない。
詳細を開く。
《迷素糸Ⅰ》
《体内迷素を糸状に延伸し、接触対象の形状・振動・迷素状態を知覚する》
《現段階有効距離:約3.4m》
《最大同時形成数:3》
《分類:SPECIES TRAIT》
「人間に種族特性なんてあったっけ」
少なくとも俺は聞いたことがない。
獣人型の異種化者なら、《獣耳聴覚》のような身体特性が表示されることはある。それに近いのだろうか。
RACEを確認する。
《人間》
「矛盾してない?」
人間なのに、人間にはない種族特性がある。
ADPはERRORのままだ。
身体には迷素循環核があり、回復速度も異常に速い。食欲や感覚性能も、以前とは明らかに違っている。
「病院で何て説明すればいいんだこれ」
『迷宮で転移罠踏んだら母親のデータを使って女にされて、変な糸が出るようになりました』
自分で言っていて怪しい。
「信じてもらうためにもタグは絶対なくせないな」
胸ポケットを確認する。
母さんの探索者タグはちゃんと入っていた。
俺は歩き出した。
第六層への昇層路が見えてくる。
今度は正式な管理階段だった。反射板と手すりが設置され、階層表示も残っている。
《6F》
「ようやく普通の階段だ」
近づいた時、スマホから通信音がした。
続いて振動する。
「え?」
急いで取り出す。
アンテナ表示が一本だけ立ち、すぐに消えた。
少しして、また一本立つ。
《緊急メッシュ接続中》
「繋がれ」
立ち止まって待つ。
数秒後。
《接続》
「よし!」
すぐに探索者協会アプリを開き、緊急通報を選ぶ。
《送信中》
しばらく待ったが、
《送信失敗》
と表示された。
「なんで!」
もう一度試そうとしたところでアンテナが消え、再び圏外になった。
「……一瞬だけか」
第六層まで上がれば、もっと通信設備が多いはずだ。
そこまで行けば繋がる可能性が高い。
俺は階段を上がった。
一段、二段と進む。
途中でスマホが再び振動した。
アンテナが一本立つ。
今度は消えない。
《緊急メッシュ接続》
俺はその場で立ち止まり、通報画面を開いた。
《未帰還者照合》
《雨宮 湊》
《緊急捜索登録――確認》
「捜索始まってる」
当然だ。
帰還期限から十時間以上過ぎている。
《現在位置送信》
俺は送信を押した。
《送信完了》
「……帰れる」
肩から力が抜けた。
これで協会に現在位置が伝わった。
俺は第六層にいる未成年の仮探索者で、すでに救助対象になっている。
自分で第一層まで歩かなくても済むかもしれない。
数秒後、アプリに朝霧第一迷宮管理本部から返信が届いた。
《朝霧第一迷宮管理本部》
《雨宮湊さんの生命証および位置情報を確認しました》
《現在位置を維持し、安全確保を優先してください》
《救助班を派遣します》
「助かった……」
画面を読む。
その下には、
《推定到着時間:約3時間20分》
と表示されていた。
「三時間?」
今いるのは第六層で、地上まではまだ五階層ある。
救助班も瞬間移動できるわけではない。
当然か。
《移動は原則禁止》
《ただし周辺に危険を認めた場合、最寄り退避区画へ移動してください》
俺は周囲を見る。
危険感知では、今のところ何も感じない。
「三時間なら待つか」
ここで勝手に動き回る方が危険だ。
母さんにも怒られる。
地図を見ると、二百メートルほど先に小さな管理休憩区画がある。
そこへ移動することにした。
スマホを確認しながら歩く。通信は弱いものの、接続は維持されている。
管理休憩区画へ着くと、金属製のベンチや壁面照明も正常に動いていた。
俺は座った。
「終わった……」
まだ地上ではない。
でも、一人で帰還路を探す必要はなくなった。
昨日からずっと張っていた緊張が、少しだけ抜ける。
バックパックを足元へ置き、水を取り出して少し多めに飲んだ。
地上へ帰れる。
風呂に入れる。
まともな飯も食える。
病院にも行かなければならない。
そこまで考えてから、今の身体と制服のことを思い出した。
「……制服」
忘れていた。
入学式まであと九日しかない。
俺の部屋にあるのは男子用の制服だけだ。
今の身体では、どう考えてもそのまま着られない。
「買い直し?」
金が足りない。
入学前の時点ですでに六万円不足している。
今日稼ぐつもりだった九千円分ほどの素材は、旧管理区画へ置いてきた。
探索装備も破損している。
靴や服も、今の身体に合わせて買い直さなければならない。
制服まで新しく必要になる。
「……」
生還できることは嬉しい。
本当に嬉しい。
でも。
「俺、地上帰った瞬間から金ないんじゃない?」
迷宮より先に、そっちの問題が待っている気がした。




