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『女になった俺は、放課後ひとりで迷宮に潜る』  作者: 白峰ユラ


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第二話《第八層》

暗闇の中で、獣が一歩近づいた。姿は見えない。ヘッドライトを消した以上、通路の先は完全な闇だ。それなのに、俺には相手の位置が妙にはっきり分かっていた。六、七メートル先。


四足。俺より少し低いくらいの体高で、頭を下げている。前脚に体重を乗せ、こちらの出方を窺っていることまで何となく分かる。


「いや、本当に何なんだこれ」


さっきまでの俺なら、音と気配から「何かいる」程度しか判断できなかったはずだ。ステータスのPERは十七から三十四に増えている。単純に倍になったから感覚も倍、という話ではないが、原因として思い当たるものはそれしかない。考えている間にも、獣は少しずつ距離を詰めてきた。


低い唸り声。岩を引っ掻く爪の音。それに混じって、湿った獣臭が鼻に届く。俺は右手の探索ナイフを構えた。


できれば戦いたくない。第八層まで飛ばされたうえに、身体まで変えられたばかりだ。ここで正体もよく分からない魔物相手に命を張る理由はない。問題は、相手にそのつもりがあるかどうかだった。獣の肩が沈む。


来る。そう感じた瞬間、俺は横へ飛んだ。直後、さっきまで俺の太腿があった場所を何かが通り抜ける。


「っ!」


着地しようと右足へ力を入れた。その瞬間、靴の中で踵が大きく滑った。


「うわっ!」


身体が横へ流れ、肩から岩壁へぶつかった。応急処置でタオルを詰め、テープで固定したとはいえ、二サイズ以上大きい登山靴だ。全力で踏み込めばこうなる。俺が体勢を崩した隙に、獣が反転する。わずかに残っていた管理区画側の光が、その姿を照らした。


灰色の毛。細長い身体。犬に似ているが、口元から覗く牙だけが白ではなく、濁った石のような色をしている。


「石歯犬かよ……」


危険度E級。浅層でも出現する犬型魔物だが、第一層では滅多に見ない。鉱物質に変化した牙は鉄板くらいなら簡単に穴を開ける。新人探索者が複数人で相手にする代表的な魔物。


今の俺は一人。装備はサイズが合っていない。しかも、さっきまで男だった。


「条件悪すぎない?」


石歯犬には通じなかった。再び前脚が沈む。俺は今度こそ靴を信用せず、小さく横へ動いた。飛びかかってきた石歯犬が俺の横を抜ける。


速い。けれど、見えないわけではない。以前の俺なら反応できなかった速度なのに、今は肩の動きも、前脚が地面を蹴る瞬間も分かる。身体が追いついていないだけだ。


石歯犬が着地し、すぐに振り返った。俺はゆっくり距離を取る。逃げられるか。後ろは旧管理区画の壁。


もう開かない。前方には石歯犬。左右に分岐はない。通路幅は三メートルほど。


「戦うしかないか」


自分から望んだ答えではない。石歯犬が三度目の突進に入った。今度は直前まで動かない。引きつける。


四メートル。三メートル。二メートル。俺は一歩だけ右へずれた。


石歯犬がこちらを追って頭を振る。しかし勢いまでは殺せない。俺の身体を掠め、そのまま岩壁へ肩からぶつかった。鈍い音が響く。


「今だ」


ナイフを握り、首の付け根を狙う。以前の身体なら、それなりに力を込めれば通ったはずだった。刃先が毛皮を裂く。そのまま押し込もうとして、止まった。


「硬っ……!」


STR七。今の俺には力が足りない。石歯犬が暴れた。慌ててナイフを抜く。


前脚が腹へ当たり、身体が後ろへ弾き飛ばされた。


「ぐっ!」


背中から岩へ転がる。一瞬、息ができなくなった。視界の端にステータス警告が出る。


《HP 72 / 86》


「一発で十四……」


まともに食らえば何発も耐えられない。石歯犬の肩から血が流れている。致命傷ではない。むしろ怒らせただけだ。


俺は立ち上がろうとして、腹の痛みに顔をしかめた。今までなら、ここで距離を取って逃げる。でも逃げ道がない。だったら倒すしかない。


石歯犬が低く唸る。その身体を見た瞬間、妙な違和感があった。肩。さっき傷をつけた場所。


そこだけ何かが乱れている。血が流れているからではない。もっと内側。迷素。


身体の中を巡っている薄い流れが、傷口の周辺で崩れている。


「……そこが弱いのか?」


こんなもの、以前は見えなかった。正確には今も目では見えていない。しかし感覚として分かる。石歯犬が再び走り出した。


俺は逃げず、左腕を前へ出した。我ながら嫌な賭けだった。牙がジャケットの袖へ食い込む。


「痛っ!」


防刃素材が多少は耐えてくれたが、石の牙は布ごと腕を締めつけた。それでも位置は固定できた。右手のナイフを振り下ろす。さっき傷つけた肩。


一度目。浅い。二度目。今度は刃が入る。


石歯犬が頭を振った。腕が引っ張られる。


「離せ!」


三度目。刃が深く沈んだ。石歯犬が甲高い声を上げ、俺の腕を離した。そのまま後ろへ下がる。


追撃はしない。石歯犬は前脚を踏ん張ろうとしたが、左側に力が入らない。数歩よろめき、地面へ倒れた。俺はナイフを構えたまま待った。


十秒。二十秒。呼吸が浅くなり、やがて動かなくなる。


「……終わった?」


すぐには近づかない。死んだふりをする魔物もいる。一分ほど待ってから小石を投げる。反応なし。


ようやく息を吐いた。


「勝った感じ、全然しないな」


左腕が痛い。腹も痛い。ステータスを確認するとHPは六十一。初戦闘で最大値の三割近く持っていかれている。


もう一匹来ればかなり危ない。


「講習で言われた通りだな。E級でも普通に死ねる」


魔物を倒せばレベルが上がる。そんなゲームみたいな理由だけで戦うやつもいるらしいが、俺には理解できない。一回の戦闘でこれだ。素材を取ったところで、治療代と装備修理費の方が高くなる。


それ以前に命が足りない。俺は石歯犬の死体へ近づいた。魔石を取れば数千円にはなる。牙も素材になる。


少し迷ってから、やめた。今は重量を増やすべきではない。


「九千円分捨てた直後に魔物素材拾ってたら意味ないしな」


それよりバックパックだ。石歯犬が最初の突進で噛みついたせいで、側面に二つ穴が開いている。


「これ中古でも結構したんだけど……」


水のボトルは無事。食料も問題ない。浄水器も壊れていない。バックパックそのものは布テープで補修できる。


生きて帰ればどうにでもなる。俺はその場を離れた。血の匂いは他の魔物を呼ぶ。五十メートルほど進み、二つ曲がり角を越えたところで、ようやく壁際へ座った。


左腕を見る。耐刃ジャケットには穴が開いていた。脱ごうとすると、長い髪が襟に絡む。


「っ……邪魔だなこれ」


無理に引っ張って余計に痛い。髪を片手でまとめながら、どうにかジャケットを脱ぐ。腕には牙の痕が二つ。幸い深くはない。


水で洗い、消毒してからガーゼと包帯を巻く。腹は青くなり始めていたが、骨まではやられていない。そこで改めて自分の身体を見る。細い腕。


白い肌。以前より明らかに小さい手。男だった頃の身体を基準にして動こうとすると、全部少しずつずれる。力も足りない。


代わりに相手の動きはよく見える。


「使い方覚えないと、本当に死ぬな」


女になったことについて落ち込む時間が欲しい気もする。だが、第八層はそんな都合を聞いてくれない。身体について悩むなら、少なくとも安全な地上へ帰ってからだ。俺は水を一口飲み、地図を開いた。


現在地は第八層の西側。第七層へ続く管理昇層路までは直線で四キロ弱。ただし、迷宮内で直線距離にはあまり意味がない。実際に歩けば倍になることもある。


現在時刻は二十二時を回っていた。


「今日中に七層は無理だな」


急いで移動して二匹目の石歯犬に会ったら終わる。まず休める場所。それから水。今持っている一・五リットルで明日一日歩き続けるのは厳しい。


食料も、非常食を全部合わせて一日分程度しかない。母さんの教え通り「六時間帰れない準備」はしてきたが、八層から地上まで帰る準備まではしていない。


「さすがにそこまで想定してたら荷物だけで二十キロ超えるしな」


俺は立ち上がった。歩き始めてすぐ、今度は靴の問題が出てきた。詰め物をしているとはいえ、足に合っていない。少し速く歩くだけで踵が動く。


さっきの戦闘で滑った理由もこれだ。今度は足を大きく前へ出さず、身体の真下へ置くように歩く。慣れてくると意外と悪くない。身体が軽い。


小さな段差なら、以前より楽に越えられる。STRは落ちた。でもAGIは十五。DEXは十八。


力仕事以外なら、以前より動きやすい部分もあるらしい。少し歩いたところで、また髪が頬へ張りついた。


「これもどうにかしないとな」


腰近くまである。探索で垂らしておく長さではない。岩や枝に引っかかれば危険だ。切ることも考えたが、暗い迷宮で自分の後ろ髪をナイフで切るのは別の意味で怖い。


バックパックを下ろし、使えそうなものを探す。輪ゴム。ない。紐。


ある。結束バンド。もっとある。


「これでいいか」


髪を後ろへまとめる。慣れていないので何度か失敗した。髪の量が思ったより多く、手から逃げる。最終的に低い位置で一つにまとめ、結束バンドで固定した。


「外す時は切ればいいし」


見た目は知らない。誰も見ていない。顔に髪が落ちてこなくなっただけで、かなり楽になった。歩き始めて十分ほど経ったところで、俺は立ち止まった。


左から湿った空気が流れてきている。温度も少し低い。水場。そう思った。


耳を澄ます。水音はまだ聞こえない。


「近くにある?」


地図を見る。左の通路は管理ルートから少し外れる。行って戻れば二百メートル程度。水は必要だ。


俺は左へ曲がった。三十メートル。湿気が強くなる。さらに進む。


ようやく水音が聞こえ始めた。


「……おかしいな」


俺が水の存在に気づいた場所から、百メートル近く離れている。風だけで判断したにしては早すぎる。PER三十四。それが理由なのだろうか。


通路の先に小さな水場があった。壁の割れ目から細い水が流れ、岩の窪みへ溜まっている。水は透明。異臭なし。


泥の上に大型魔物の足跡もない。小さな透明の蟹が岩陰を歩いていた。水滴蟹。危険度Fの小型魔物で、強い毒性のある水域にはほとんど棲まない。


「悪くない」


だからといって、そのまま飲むつもりはない。簡易迷素計を入れる。正常範囲。水質判定紙。


危険反応なし。携帯浄水器を通す。これなら使える。俺は地図に《水場》の個人マーカーを付けた。


ボトルはまだ残っているので、今すぐ全部入れ替える必要はない。帰路で使う可能性もある。


「さて」


問題は寝る場所だ。水場の近くは魔物も集まる。ここで寝るほど勇気はない。さらに百五十メートルほど離れたところで、横へ伸びる狭い穴を見つけた。


入口は高さ一メートル少し。中は三メートルほどで行き止まり。大型魔物は入りにくい。糞や骨もない。


獣臭もない。


「今日はここだな」


アルミシートを敷く。入口にはテグスを張り、金属カップの蓋を括りつけた。何かが入れば音が鳴る。こんな簡単な罠で安全になるとは思っていないが、ないよりはいい。


ナイフはすぐ取れる位置へ。バックパックも身体に紐で結ぶ。準備が終わってから、ようやく腹の減り方がおかしいことに気づいた。


「さっき夕飯食ったんだけどな」


鯖。白飯。味噌汁。プリン。


迷宮へ入る前に普通に一食分食べている。それから数時間しか経っていない。なのに、丸一日何も食べていないような空腹感がある。適応処置で身体を作り直された影響かもしれない。


栄養バーを一本開ける。半分だけ食べるつもりだった。気づいたら一本なくなっていた。


「……まずいな」


足りないという意味で。羊羹にも手を伸ばしかけたが、止めた。食料は有限だ。ナッツを一握りだけ食べ、水を少し飲む。


食事としてはかなり悲しい。


「家帰ったら豚汁作ろう」


具を多めに。豚肉。大根。人参。


ごぼう。こんにゃく。考えたら余計に腹が減ったので、やめた。壁に背中を預けて、ステータスを確認する。


《雨宮 湊》


RACE 人間SEX 女性LEVEL 3HP 66 / 86


MP 214 / 214STR 7VIT 9AGI 15


DEX 18MAG 11MND 17PER 34


ADP ERROR


「HP増えてる?」


戦闘直後は六十一だった。治療はした。でも回復薬は使っていない。五ポイント程度なら自然回復の範囲かもしれないが、それにしても早い気がする。


それよりMP。二百十四。適応処置前は四十一だった。レベル三で二百を超えるのは明らかに多い。


MAGそのものは十一しかない。


「魔法使い向きになった……わけでもなさそうだな」


照明魔法を使ってみようとも思ったが、やめた。今のところヘッドライトで足りる。MPが多いからといって無駄遣いする必要はない。表示を閉じる。


眠い。寝なければ明日動けない。しかし寝ている間に何か来たら終わる。そこを考えても答えは出ない。


俺はライトを最弱にして横になった。長い髪が背中に当たる。結束バンドの位置を直す。服の中の身体も、動くたびに違和感がある。


肩幅。腰。脚。何もかも以前と違う。


ステータスには女性と表示されている。スマホのカメラでも確認した。俺は女になった。普通なら、もっと取り乱すところなのかもしれない。


ただ、今この場で取り乱したところで何も解決しない。


「帰ってから考えるか」


地上へ戻れば病院もある。探索者協会もある。異種化について詳しい専門家だっているだろう。戻せるかどうかも、その時調べればいい。


俺は胸ポケットを触った。母さんの探索者タグ。あの装置は母さんを《第一世代》と呼んだ。俺を《第二世代継承個体》と呼んだ。


つまり、母さんはあの装置について何か知っていた可能性がある。


「何してたんだよ、母さん」


答えはない。俺は目を閉じた。静かな洞窟。遠くの水。


どこかで小さな生き物が動く音。そこまで聞こえてくる。以前なら気にならなかったものばかりだ。しばらくして意識が沈んだ。



金属の音で目を覚ました。


「っ!」


反射的にナイフを掴む。入口に仕掛けた金属蓋が揺れている。何かがテグスへ触れた。俺はライトを点けず、入口を見る。


暗い。それでも、外に小さな生き物がいることが分かった。犬型よりずっと小さい。耳が長い。


「洞兎?」


数秒後、小さな影が入口前を横切った。こちらへ入ってくることなく、そのまま離れていく。どうやらテグスに触れて驚いただけらしい。スマホを見る。


午前三時四十二分。


「二時間半しか寝てないのか」


もう一度横になろうとして、腕に違和感を覚えた。痛みがほとんどない。


「……え?」


包帯を外す。牙が入った場所。まだ赤い。でも傷口が閉じ始めている。


数時間前まで、はっきり穴が開いていた場所だ。ステータスを開く。


《HP 82 / 86》


「早すぎない?」


二時間半で十六回復。普通ではない。腹の打撲も、押せば痛い程度まで治まっている。俺は胸へ手を当てた。


心臓が動いている。当然。そのすぐ近くに、別の感覚があった。小さな熱。


拍動とは違う。ゆっくりと、周囲の何かを吸い込んでいる。あの装置の表示を思い出す。


《迷素循環核――形成》


「まさかこれ?」


意識を向けると、迷宮内の迷素が身体へ入ってくる感覚がはっきりした。ステータスのMPは満タン。傷も回復している。迷素を使って身体を治している?


そんなスキルは聞いたことがない。上位探索者なら自然治癒系のスキルを持っていることもあるが、俺のスキル欄には表示されていない。確認する。


《迷路記憶Ⅰ》


《平衡Ⅰ》


「平衡?」


昨日までは《迷路記憶》しかなかったはずだ。戦闘と、この身体で歩き回ったことで増えたのだろうか。さらに下。薄い文字列がある。


《――――》


詳細を開く。


《解析不能》


「またそれか」


ADPもERROR。今度はスキルまで読めない。俺のステータスは少しずつ役に立たなくなっている気がする。表示を閉じようとして、壁へついた左手に妙な感覚が走った。


「……?」


冷たい岩。そこから。指の先へ何かが伸びた。目には見えない。


糸。そう表現するのが一番近い。細い感覚が、指先から数センチだけ壁を這う。触っていない場所の凹凸まで分かった。


「何これ」


驚いて手を離す。感覚が消える。MPを見る。二百十二。


二減っている。


「魔法?」


術式は組んでいない。詠唱もしていない。そもそも俺はこんな魔法を知らない。もう一度壁へ触れる。


今度は意識して、さっきの感覚を外へ伸ばす。細い糸が三本。長さは数センチ。岩の表面をなぞる。


小さな亀裂。指で触らなくても分かる。


「便利だけど、短いな」


MPも減る。現状では壁を手で触った方が早い。それでも、昨日までできなかったことなのは間違いない。適応装置に身体を変えられた結果なのか。


異種化。そう考えるのが自然だった。


「角とか耳じゃなくて、性別変えて変な糸まで出す異種化って何なんだよ」


誰かに説明しても信じてもらえる気がしない。その時、腹が大きく鳴った。


「……そっちは分かりやすいな」


残していた栄養バー。一本食べる。さらに羊羹。迷った末に一本食べた。


「うま」


安い小型羊羹が妙に美味い。糖分が身体へ染み込む感じがする。食べ終わっても、まだ腹が減っている。身体が小さくなったのに、食欲は増えている。


嫌な予感しかしない。


「この身体、燃費まで悪かったら困るんだけど」


残りの非常食を確認する。栄養バー一本。羊羹一本。ナッツ半分強。


これで地上までは無理だ。どこかで食料を確保する必要がある。幸い、さっき洞兎を見た。協会認定の食用魔物だ。


解体方法も講習で習っている。実際にやったことはないが、腹が減れば選択肢になる。


「狩りはしたくないんだけどな」


石歯犬との戦闘を思い出す。洞兎なら危険度Fで攻撃性も低い。それでも追い回せば時間と体力を使う。今はまだ非常食がある。


必要になってからでいい。俺は寝床を片付けた。アルミシート。テグス。


金属蓋。全部回収する。バックパックの穴には布テープを何重か貼った。靴も調整する。


昨日より足の感覚に慣れたのか、歩き始めるとかなり動きやすかった。水場へ戻り、浄水器を使ってボトルを満たす。二リットル弱。これなら次の補給地点までは持つ。


地図を開く。第七層への管理昇層路まで、残り三・九キロ。


「今日中に七層までは行きたいな」


時刻は午前四時二十分。迷宮内に朝も夜もない。なら動ける時に動く。俺は第七層を目指して歩き始めた。



新しい身体には、少しずつ慣れてきた。最初はまともに走ることすらできなかったが、歩幅を小さくし、足を身体の真下へ置くよう意識すれば靴のずれもかなり抑えられる。何より身体が軽い。崩れた岩を越える時も、以前より楽だった。


力は弱い。バックパックを背負えば肩がすぐ疲れる。その代わり、細かい動きは明らかにしやすい。崩れた足場へ右足を置き、そのまま反対側へ移る。


以前なら一度止まって確認していた距離なのに、今は身体が自然にバランスを取ってくれる。


「これが《平衡》か」


悪くない。女になった代償として納得できるかと聞かれたら別問題だが、使えるものは使う。一時間ほど進んだところで、俺は足を止めた。前。


遠くに何かいる。姿は見えない。鳴き声も聞こえない。それでも、大きな気配がある。


距離は五十メートル以上。


「昨日より分かりやすくなってないか?」


地図を見る。正面は主要ルート。右に細い迂回路がある。俺は迷わず右を選んだ。


戦わなくていいなら戦わない。百メートルほど進むと、前方に感じていた大きな気配が遠ざかった。


「便利だな」


危険感知に近い。ただしステータスにはまだ表示されていない。PERが上がった結果なのか、適応処置の影響なのかは分からない。地上へ帰ったら全部調べる。


調べる項目がどんどん増えている。さらに進み、管理ルートへ合流した。壁には協会の反射板。


《8-西-14》


正式なルートだ。


「やっとまともな場所に出た」


近くには通信中継器もあった。俺は期待してスマホを確認する。


《緊急メッシュ接続――失敗》


「壊れてるのかよ」


中継器のランプは赤。地図によれば、次の中継器まで約一キロ。そこが生きていれば協会へ連絡できる。救助を呼べる。


八層から七層、六層と歩き続ける必要もなくなるかもしれない。


「ようやく普通に帰れるか」


少しだけ気が緩んだ。二百メートルほど歩いたところで、前方に人影が見えた。


「……探索者?」


壁際に一人立っている。灰色の探索服。黒い髪。背格好は成人男性くらい。


管理ルートなら他の探索者がいてもおかしくない。むしろ、ようやく人に会えた。


「すみません!」


声をかける。反応がない。


「探索者の方ですか!」


動かない。壁へ向いたまま立っている。怪我をしている?いや。


それなら座るなり倒れるなりするだろう。俺は近づかず、ライトを少し強くした。光が届く。探索服。


人間の体型。でも。


「……影がない?」


ライトを正面から当てている。普通なら足元へ影が伸びるはずだ。何もない。人影がゆっくり振り返った。


「……嘘だろ」


顔がなかった。正確には、顔の形だけがある。目も鼻も口もなく、滑らかな皮膚で覆われている。講習資料で一度だけ見た姿。


《擬人人形》


危険度B。探索者の姿を模倣し、時には声まで真似る怪異型魔物。第八層の標準危険度ではない。本来、もっと深い場所で確認される魔物だ。


「なんで八層にいるんだよ」


答えはない。擬人人形が首を傾けた。俺が無意識にしていたのと同じ角度。次の瞬間。


『探索者の方ですか!』


俺の声が返ってきた。


「……気持ち悪っ」


女になったばかりの俺の声。まだ自分ですら聞き慣れていない。それを目の前の化け物が正確に再現している。戦えるか。


考えるまでもない。B級。昨日E級一匹でHPを三割削られた。


「逃げる」


俺は踵を返した。擬人人形が動く。速い。後ろを振り返らなくても分かった。


距離四十メートル。三十五。三十。


「速すぎるだろ!」


俺も走る。靴の問題は昨日よりまし。それでも追いつかれる。右の分岐。


行き止まり。左。地図上では未整備区画へ続く。迷う時間はない。


左へ曲がる。崩れた岩場。高さ一メートル半ほどの段差。以前の身体なら慎重に下りていた。


今はそのまま飛び降りる。着地。膝を曲げる。身体が自然に衝撃を逃がした。


「やれるじゃん」


喜んでいる場合ではない。擬人人形も段差を越えてくる。距離二十メートル。速い。


前方。岩壁の裂け目。幅四十センチほど。男だった頃の俺なら無理。


今なら。


「入れる!」


バックパックを前へ抱え、身体を横にする。裂け目へ滑り込む。肩。通る。


腰。通る。バックパックが引っかかった。


「頼むから破れるなよ!」


力を込めて引く。布が岩へ擦れる。抜けた。直後、背後で大きな衝突音がした。


擬人人形が裂け目へぶつかったらしい。腕だけがこちらへ伸びてくる。人間より少し長い指。俺の顔までは届かない。


「助かった……」


そう思った直後、岩が削れる音がした。擬人人形が裂け目を広げようとしている。


「全然助かってないな」


奥へ進む。狭い通路は続いている。後ろから俺の声が聞こえた。


『探索者の方ですか!』


「もう聞きたくない」


さらに走る。五十メートル。百メートル。通路が曲がり、ようやく声が聞こえなくなった。


俺はそこで足を止めた。呼吸を整える。心臓が速い。それでも、思ったより疲れていない。


ステータスを確認する。


《HP 86 / 86》


《MP 198 / 214》


「HP全快してるし」


腕の傷もほとんど痛くない。腹の打撲も消えている。高迷素環境での回復速度。普通ではない。


ただ、今はありがたい。地図を見る。主要ルートから大きく外れてしまった。しかし、未整備区画の先には第七層へ続く古い昇層路が記録されている。


「むしろ近くなった?」


追われた結果、近道に入ったらしい。俺は壁へ手をついた。その瞬間、指先から例の感覚が伸びた。朝は数センチだった。


今度はもっと長い。


「……え?」


糸のような感覚が壁を這う。三十センチ。五十。一メートル。


その先に空洞がある。岩の向こう。さらに下へ続く段差。


「伸びてる」


MPを見る。五ポイントほど減っている。使えば使うほど伸びる?それともレベルが上がった?


試しに壁沿いを調べる。感覚の先。二十メートルほど進んだ右側。空洞。


俺はそこまで歩いた。目の前には普通の岩壁しかない。端へ指を入れる。細い隙間。


ナイフを差し込んで動かすと、岩板が少しずれた。冷たい空気が流れてくる。


「隠し通路?」


力を入れて広げる。人一人通れる程度。中には狭い階段があった。壁に古い協会マーカー。


《7》


「第七層……」


ようやく一つ上がれる。俺が階段へ足を掛けたところで、視界の端に通知が出た。


《環境適応経験を確認》


《LEVEL 3 → 4》


「上がった」


続けてステータスが更新される。HP 96MP 251STR 8


VIT 10AGI 18DEX 22MAG 12


MND 20PER 43ADP ERROR


「一日でこんな上がるものなのか?」


レベル四そのものは珍しくない。問題はPER四十三。そしてMP二百五十一。一般的な新人の数値ではない。


さらに通知が続く。


《Skill Formation》


《名称未確定》


《解析不能》


「また読めないやつ増えてるし」


まともに使えるステータス画面が欲しい。とはいえ、ここで考え込む必要もない。俺は階段を見上げた。第七層。


地上まで残り六階層。食料は減っている。装備にも傷が増えた。通信もまだ繋がらない。


それでも昨日より一層分だけ地上へ近づいた。


「今日は七層を抜けるところまで行きたいな」


母さんのタグが胸元で小さく当たる。身体のことも。母さんのことも。読めないスキルのことも。


調べるなら地上へ帰ってからだ。俺は第七層へ続く階段を上り始めた。


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