第62話 治療魔法は使えますが、誰から治すかで揉めます
名作をパク――参考にすれば、名作になるに決まってるじゃない!
第62話 治療魔法は使えますが、誰から治すかで揉めます
旧穀物倉庫の火鼠騒ぎから、二日後。
俺は黙った。
リナも黙った。
アレンも黙った。
ミリアは、やや不満そうに杖を磨いていた。
セイルは、いつも通り静かだった。
ガルドは、宿の窓から外を見ていた。
聖剣は寝ていた。
いや、正確には、少しだけ起きかけていた。
鞘の中で、たまに弱く光る。
だが、喋らない。
俺の雑な剣筋を全力で補正して以来、聖剣はほとんど休眠状態だった。
その間に、俺は鉄棒を持つようになり、リナは斥候として細い跡を拾い、ミリアは火を出さずに火の魔物を鎮めた。
かなり忙しい旅だった。
聖剣も寝る。
そして、俺は鉄棒を手元に置いていた。
杖。
天秤棒。
荷物固定具。
護身具。
そして、最近は一呼吸を稼ぐための棒である。
「今日は何も起きませんね」
リナが言った。
「言うな」
俺は言った。
「え?」
「そういうことを言うと、起きる」
「でも、本当に何も」
外から、鐘の音が聞こえた。
一回。
二回。
三回。
短く、激しい。
火事ではない。
魔物襲撃でもない。
王都の緊急集合鐘だった。
俺は黙った。
リナも黙った。
アレンは立ち上がった。
「行くぞ」
「ほら」
俺はリナを見た。
リナは小さく頭を下げた。
「すみません」
「悪いのは鐘だ」
俺たちは宿を飛び出した。
王都西区。
荷馬車の集積場。
そこに向かって人が走っていた。
悲鳴。
怒号。
馬のいななき。
木材が崩れる音。
嫌な音だった。
現場に着くと、巨大な足場が崩れていた。
商館の改修工事中だったらしい。
木組みの足場が半分折れ、隣の荷馬車置き場へ倒れ込んでいる。
荷箱が割れている。
馬車が横倒しになっている。
人が倒れている。
血がある。
土埃がある。
泣き声がある。
「負傷者多数!」
誰かが叫んだ。
「治療師を呼べ!」
「こっちにも人がいる!」
「動かせ!」
「いや、動かすな!」
混乱している。
かなり悪い。
アレンが前に出た。
「全員、落ち着け!」
勇者の声は通る。
人々が一瞬、止まった。
その一瞬で、セイルが前に出た。
表情は静かだった。
だが、目が変わっていた。
「ユートさん」
「何だ」
「治療区域を作ってください」
「分かった」
「アレンさんは人を下げてください。ミリアさんは埃を落として視界を確保。リナさんは倒壊部の下に人がいないか確認。ガルドさんは崩れそうな場所へ人を近づけないでください」
「承知した」
アレンが動く。
ミリアが杖を振る。
風が起きる。
ただし強くない。
土埃だけを横へ逃がす。
リナはすでに崩れた足場の影へ走っていた。
ガルドは倒れかけた木組みの前に立ち、人を止める。
俺は鉄棒で地面に線を引いた。
「ここから内側、治療区域! 歩ける者は外へ! 座れる者はここ! 寝かせる者はこっち! 水、布、板、紐、毛布を持ってこい!」
荷場の人間が動き出す。
混乱はまだある。
だが、線があると人は少し動ける。
線は大事だ。
良くも悪くも。
セイルは負傷者を見ていた。
一人目。
腕から血が出ている若者。
叫んでいる。
二人目。
腹を押さえている中年。
顔が青い。
三人目。
頭から血を流した老人。
意識はある。
四人目。
馬車の下敷きになった男。
動かない。
五人目。
泣いている子供。
足首が曲がっている。
六人目。
足場の木材に挟まれた職人。
「セイル!」
女性が叫んだ。
「こっち! この人、血が出てる!」
別の男も叫ぶ。
「こっちが先だ! 動いてない!」
「子供を先に!」
「父さんを助けてくれ!」
声が重なる。
セイルは目を閉じなかった。
迷わなかった。
「順番を決めます」
その声は静かだった。
だが、周囲の声を切った。
「重傷者からではありません。今、手を入れれば助かる人からです」
男が怒鳴った。
「見捨てるのか!」
セイルはその男を見た。
「見捨てません」
「じゃあ、すぐ治せ!」
「すぐ治すために、順番を決めています」
「血が出てるんだぞ!」
「血が出ている人が、最初とは限りません」
空気が止まった。
その言葉は重かった。
俺も一瞬、黙った。
セイルは若者の腕を見た。
「ユートさん、布で圧迫。強く。腕は上げる。これは待てます」
「分かった」
俺は布を受け取り、若者の腕を押さえた。
「痛い!」
「生きてる証拠だ。押さえるぞ」
「痛い!」
「すまん。だが押さえる」
セイルは次に腹を押さえた中年を見る。
「この方を先に」
「血は出てないぞ!」
誰かが言った。
セイルは短く答えた。
「中で出ています」
全員が黙った。
セイルの手が光る。
柔らかな白い光。
だが、いつもの治療より細い。
深く、狭く、必要な場所だけへ入っていく光だった。
「ミリアさん、こちらを冷やしすぎない程度に。体温は落とさないで」
「分かった」
ミリアが熱を整える。
炎ではなく、温度の制御。
セイルは次の負傷者へ移った。
老人の頭。
「これは圧迫と固定。意識確認を続けてください」
「誰が?」
「話しかけられる人」
俺は近くの商人を指さした。
「あんた。名前を聞け。眠らせるな。返事が変ならすぐ呼べ」
「お、俺が?」
「今できる」
「分かった!」
次。
子供の足首。
「骨折。痛みは強いですが、命にすぐ関わりません。固定します」
「子供なのに後か!」
母親が叫んだ。
セイルは母親の肩に手を置いた。
「お子さんは助かります。だから、順番を待てます」
母親は泣きながら頷いた。
「待てる」は、残酷な言葉にも聞こえる。
だが、今は希望でもあった。
リナが足場の奥から叫んだ。
「一人います! 木材の下! 息があります!」
ガルドがすぐに動いた。
「人を下げろ。まだ崩れる」
アレンが手伝う。
「持ち上げるぞ!」
「待ってください!」
セイルが叫んだ。
全員が止まる。
「そのまま持ち上げると、出血が増えるかもしれません。圧迫位置を作ってからです」
アレンが頷いた。
「分かった」
ガルドも短く言う。
「指示を」
セイルは現場へ走った。
木材の下に、職人が挟まれている。
足が潰れている。
顔色が悪い。
息は浅い。
セイルは一瞬だけ目を細めた。
だが、動きは止まらない。
「ユートさん、板。布。紐。あと水ではなく、清潔な布を多めに」
「分かった!」
「アレンさん、持ち上げるのは合図で。ガルドさん、木材が戻らないように支えてください。ミリアさん、埃を抑えて。リナさん、他に埋まっている人がいないか続けて確認」
「はい!」
全員が動く。
ここで、白い影が駆け込んできた。
長い耳。
丸い尻尾。
白い毛。
妙にきらきらした目。
キュルルだった。
「ユート!」
「契約なら後だ!」
「今日は契約じゃないよ!」
キュルルは息を切らしていた。
「説明会の帰りに鐘を聞いたんだ。書類、いる?」
「今は紙より布だ!」
「紙でも使えるよ!」
キュルルが口を開いた。
一枚。
二枚。
三枚。
書類が地面に落ちる。
「緊急処置同意書!」
四枚。
五枚。
「搬送記録用紙!」
六枚。
七枚。
「応急処置記録票!」
「一枚ずつなのか!」
俺は叫んだ。
「仕様だよ!」
八枚。
九枚。
十枚。
キュルルは吐き続ける。
「喋りながら出せるのか!」
「営業獣だからね!」
十一枚。
十二枚。
十三枚。
「今、営業関係あるか!」
「書類を止めたら負けだよ!」
「何にだ!」
「現場に!」
セイルが、その書類を一枚拾った。
「使えます」
俺はセイルを見た。
「使うんですか?」
「厚い。清潔。折れる。縛れる。血を吸いすぎない。記録欄もあります」
「契約書で止血するのか」
キュルルが訂正した。
「正確には、応急処置記録票だよ!」
十四枚。
十五枚。
「そこは正確なんだな!」
「紙の用途は大事だからね!」
セイルは応急処置記録票を折り、布と重ねて圧迫材にした。
「ユートさん、ここを押さえてください」
「これを?」
「はい。契約書で」
「応急処置記録票だそうです」
「今は止血材です」
俺は押さえた。
紙が血で染まる。
だが、確かに使える。
厚い。
折れる。
圧がかかる。
記録欄は読めなくなっていく。
「記録欄、使えないぞ!」
キュルルがまた一枚出した。
十六枚。
「写しを出すよ!」
「まだ吐くのか!」
「二部提出だからね!」
「現場で二部提出するな!」
だが、助かる。
かなり助かる。
紙が足りる。
布が足りない現場で、紙がある。
しかも清潔。
契約書を読む旅が、まさか止血に帰ってくるとは思わなかった。
セイルが職人の足を見た。
「今から木材を上げます。上げた直後に出血が増えます。ユートさん、押さえて。アレンさん、合図で。ガルドさん、支えて」
「分かった」
「三、二、一」
木材が上がる。
職人が呻く。
血が増える。
俺は応急処置記録票を押さえた。
セイルの手が光る。
止血。
固定。
痛みを抑える。
だが、セイルの顔色が少し悪くなった。
「セイル」
アレンが言った。
「魔力は?」
「まだあります」
「本当か」
「まだ、使えます」
その言い方は危ない。
聖剣の「まだ振れる」に似ている。
俺は少し嫌な予感がした。
リナがまた叫んだ。
「奥にもう一人! 小さい子です!」
空気が凍った。
崩れた荷箱の陰。
粉塵と木材の奥に、子供がいた。
さっきの子とは別だ。
息が弱い。
顔色が悪い。
胸に木片が当たっている。
セイルが駆け寄る。
一瞬、周囲がざわついた。
「子供を先に!」
「いや、こっちの足の人が!」
「血が出てる!」
セイルは、子供を見た。
次に職人を見た。
中年を見た。
老人を見た。
腕の若者を見た。
全員を見る。
そして言った。
「この子は、今すぐ生命維持が必要です」
「じゃあ先に!」
「ですが、この方の止血を放すと、こちらが死にます」
誰も何も言えなかった。
セイルの手は二つしかない。
魔力も無限ではない。
時間もない。
ここで間違えれば、どちらかが死ぬ。
俺は背中の聖剣に触れた。
寝ている。
分かっている。
でも、触れた。
「聖剣」
返事はない。
「一呼吸だけ、貸してくれ」
鞘の中で、かすかな光が揺れた。
かなり弱い光。
眠りの底から起きるような光。
『……一呼吸だけだ』
声がした。
細い。
だが、はっきりしていた。
「すまん」
『我は治療具ではない』
「分かってる」
『治せはせぬ』
「分かってる」
『命をつなぐだけだ』
「十分だ」
聖剣の光が、鞘から漏れた。
いつものようにアレンの剣へ流れる光ではない。
魔を断つ光でもない。
敵を斬る光でもない。
細く、弱く、震える光。
それが子供の胸元へ伸びた。
子供の呼吸が、ほんの少しだけ整う。
止まりかけていた何かが、一呼吸だけ後ろへずれる。
『死ぬ順番を、少しだけ後ろへずらす』
聖剣が言った。
俺は黙った。
その言い方は、剣らしくなかった。
だが、今はそれでいい。
セイルは職人の止血を終えた。
「今です」
セイルが子供へ向かった。
迷いはなかった。
手が光る。
祈りの光。
治療の光。
聖剣の細い光に、セイルの光が重なる。
子供の胸から、浅い呼吸が戻った。
一回。
二回。
三回。
母親らしき女性が泣き崩れた。
「息をしてる……!」
セイルはまだ手を離さない。
「動かさないでください。胸を固定します。呼吸を助けます」
キュルルがまた口を開く。
十七枚。
十八枚。
十九枚。
「小児搬送記録用紙!」
「そんなものまであるのか!」
「説明会で子供連れが多かったから追加したんだ!」
「成長してるな!」
「ありがとう!」
「褒めてる場合じゃない!」
二十枚。
二十一枚。
二十二枚。
「固定用の厚紙も出すよ!」
「お前、紙なら何でも出せるのか!」
「申請書系ならだいたい!」
「申請書系限定なのか!」
セイルはその厚紙を使って、子供の胸を固定した。
「使えます」
「また使えた」
「今は助かります」
キュルルはかなり誇らしそうだった。
だが、口からはまだ紙が出ている。
二十三枚。
二十四枚。
「もういい!」
俺は言った。
キュルルは口を閉じた。
最後の一枚が、ぺらりと地面に落ちた。
「止め時が難しいんだよ」
「書類にも止め時がある」
「覚えるよ」
現場は、少しずつ落ち着いていった。
セイルは止まらなかった。
だが、走り回るのではない。
順番に、確実に、必要な処置を入れていく。
腕の若者。
圧迫止血で待てた。
老人。
意識確認を続け、頭の傷を閉じた。
子供の足首。
固定してから、痛みを抑えた。
腹の中年。
最初に治療したことで助かった。
足を挟まれた職人。
止血が間に合った。
胸を打った子供。
聖剣の一呼吸とセイルの治療で、呼吸が戻った。
リナは、さらに二人の軽傷者を見つけた。
ミリアは埃を抑え、灯りを作り、体温が落ちないよう熱を整えた。
ガルドは崩れかけた足場の前から一歩も人を通さなかった。
アレンは怒鳴る人間を止め、運ぶ人間を並べ、馬車を搬送用に変えた。
キュルルは、必要になるたびに書類を一枚ずつ出した。
一枚。
二枚。
三枚。
たまに多い。
そして俺は、荷の導線を作った。
人を運ぶ道。
水を運ぶ道。
布を運ぶ道。
負傷者を寝かせる場所。
馬車へ乗せる順番。
戻ってくる人と出ていく人がぶつからないようにする線。
人間も、今は荷だった。
ただし、壊してはいけない荷。
絶対に。
夕方。
最後の負傷者が治療院へ運ばれた。
現場に、死者は出なかった。
誰かが泣いた。
誰かが座り込んだ。
誰かが神に祈った。
セイルは、その場に膝をついた。
俺は慌てて支えた。
「セイル」
「大丈夫です」
「大丈夫の言い方ではない」
「少し、魔力を使いすぎました」
アレンが水を持ってくる。
ミリアが体温を見て、布をかける。
リナが不安そうに見ている。
ガルドは静かに周囲を見て、誰も近づきすぎないようにしていた。
聖剣は、鞘の中で弱く光った。
『……無理をした』
「ありがとう」
俺は言った。
『我は剣だ』
「知ってる」
『次は斬る方で呼べ』
「できれば呼ばない」
『それでよい』
聖剣の光は消えた。
また寝た。
かなり深く。
「聖剣さん、大丈夫ですか?」
リナが聞いた。
「寝た」
「またですか」
「今回は、かなり専門外だった」
アレンが静かに言った。
「命をつないだのか」
「ああ。一呼吸だけ」
セイルが目を閉じたまま言った。
「その一呼吸が、必要でした」
俺はセイルを見る。
「判断がすごかった」
セイルは首を横に振った。
「すごくはありません」
「すごいだろ」
「間違えれば、死者が出ました」
「出なかった」
「皆さんが動いたからです」
「それでも、順番を決めたのはセイルだ」
セイルは少し黙った。
そして、静かに言った。
「治療魔法は、傷を治す前に、順番を決める魔法です」
かなり重い言葉だった。
宿に戻ったのは夜だった。
全員、疲れていた。
キュルルも疲れていた。
なぜか口元に紙の端が一枚残っていた。
「出てるぞ」
俺が言うと、キュルルは慌てて吸い込んだ。
「出しすぎた」
「ずっと吐いてたからな」
「吐いてるって言わないでよ。書類を発行してたんだよ」
「現場で連続発行していた」
「うん」
「役に立った」
キュルルは少し照れたように胸を張った。
「そう?」
「ああ」
「契約書で止血したしね」
「正確には応急処置記録票だろ」
「覚えてくれたんだ」
「血まみれで覚えた」
キュルルは少し真面目な顔になった。
「書類って、契約を取るためだけじゃないんだね」
「責任を残すためでもある」
セイルが言った。
「今日は、命をつなぐためにも使いました」
キュルルは黙った。
そして、小さく頷いた。
「次から、緊急処置用の厚紙も正式に持っておくよ」
「口から出すんだろ」
「うん」
「一枚ずつ」
「仕様だからね」
俺は記録帳を開いた。
事故対応記録。
一、足場崩落。
二、負傷者多数。
三、治療区域を即時設定。
四、歩ける者、座れる者、寝かせる者を分ける。
五、血が出ている者が最優先とは限らない。
六、今治せば助かる者から治療する。
七、動かしてはいけない負傷者がいる。
八、応急処置記録票は止血材として使える場合がある。
九、ただし本来用途ではない。
十、血のついた書類は再利用しない。
十一、写しは別途発行する。
十二、キュルルは一枚ずつ出す。
十三、急いでいても一枚ずつ出す。
十四、聖剣は生命維持が苦手。
十五、それでも一呼吸だけ支えた。
十六、セイルの順番判断により死者なし。
キュルルが十二番と十三番を見た。
「そこ、いる?」
「重要だ」
「仕様だから仕方ないよ」
「だから書いた」
アレンが八番を見て、少し笑った。
「契約書で止血」
キュルルが訂正した。
「応急処置記録票だよ」
ミリアが言った。
「でも、契約書で止血の方が面白いわね」
「面白さで用途を変えないで」
キュルルは真面目だった。
さすが営業獣。
紙の分類にはうるさい。
セイルは十六番を見て、少しだけ目を伏せた。
「死者なし、と書けるのは、本当にありがたいことです」
「そうだな」
俺は頷いた。
「でも、奇跡だけではなかった」
セイルが言った。
「奇跡はありました」
「聖剣も、神様も?」
「はい」
「だが、それだけじゃない」
セイルは静かに頷いた。
「奇跡が届くまでの時間を、皆さんが作りました」
その時、木札が少し温かくなった。
頭の中に声が響く。
『持てる者を動かせ』
「神様」
『持てぬ者は動かすな』
「はい」
『命も荷である。乱暴に運ぶな』
俺は少し黙った。
「今回の教義ですか」
『採用』
「重いですね」
『命だからな』
「はい」
セイルが木札を見た。
たぶん、声は聞こえていない。
だが、何かは感じたのだろう。
静かに頭を下げた。
こうして俺たちは知った。
治療は、魔法だけでできているわけではなかった。
治癒の光がいる。
祈りがいる。
布がいる。
板がいる。
紐がいる。
水がいる。
毛布がいる。
搬送路がいる。
治療区域がいる。
記録用紙がいる。
時には、止血に使える厚紙がいる。
そして、順番がいる。
一番大きな声を出した人からではない。
一番血が見える人からでもない。
一番かわいそうに見える人からでもない。
今、手を入れれば助かる人から。
今、待てる人には待ってもらう。
今、動かしてはいけない人は動かさない。
それを決める人がいる。
それは、とても重い役目だった。
セイルはそれをやった。
静かに。
迷わずに。
いや、迷わなかったのではない。
迷う時間を、外に見せなかった。
聖剣は一呼吸だけ命をつないだ。
キュルルはずっと書類を出していた。
契約書は、契約するためだけの紙ではなかった。
応急処置記録票は、止血にも使えた。
ただし、本来用途ではない。
そこは大事だ。
物語は、きれいに一区切りを迎えた。
そう。
ここで終わっても、何の問題もない。
俺たちの救急書類運用は、これからだ。
「治療魔法は、傷を治す前に順番を決める魔法なんだよ」
第二部・完




