取り返しのつかない失敗(改)
加筆しました。
楽しんでいただけると幸いです。
「プレシャスを呼べ」
書斎にいたオールストン卿は娘のプレシャスを呼び、プレシャスは乗馬服のまま入ってきた。
「どうしたの?お父様?」
「プレシャス、アリーの本名は?」
「アリソン・クリスティアナ・ノエルよ」
「これを見てみなさい」
そう言って一枚の手紙を卿はプレシャスに手渡した。プレシャスはみるみる眉間に皺を寄せて「信じられない」と言った。
「誰からの手紙?アリーの本名もミドルネームも間違えるなんて」
「アリーの父親からの手紙だ。ーー前にあれのメイドに名字をつけてやっただろう?その礼の手紙だよ。どうやらアリーが話していたことはジョークではなく本当だったらしいな」
「ひどいにも程があるわ。今から文句を言いに行ってくる。アリーがあの家でどんな扱いを受けているのか心配になってきた」
「やめておきなさい。今のアリーがあの程度の貴族に負けるとでも思うのかね?ーーしかしこれは見過ごせないな。友人たちにも話しておこう」
「そうしてくださってお父様。私も友達に言っておくわ。アリーのことが好きな友達は多いもの。許せないわ」
私は今の手紙を見て気分が悪くなったので乗馬をして考えてきます、と礼をしてプレシャスは出て行った。残ったオールストン卿は葉巻に火をつけ手紙をもう一度見た。中身はいたって普通。メイドに名字をくださってありがとうございます。そしてアリーの世話をありがとうございます。以上。
オールストン卿はアリーが家に帰りたがらなかった理由を理解した。
オールストン卿は煙をくゆらせつつ友人に手紙を書くために椅子に座った。まずはバーナーズ大公爵から。彼は自分の名前を書いた。
ブラッドフォード・アントニー・オールストン公爵が彼の本名であった。
ロベルト・セドリック・バーナーズ大公爵の反応もかねがねオールストン公爵と同じだった。彼は妻のアイリーンと娘のコーデリアを呼び2人にアリーの本名を尋ねた。
「アリソン・クリスティアナ・ノエルよ。どうなさったの?」
妻と娘はまさかバーナーズ大公爵がアリーの本名を忘れたのかと心配になったが、バーナーズ大公爵がオールストン公爵からの手紙を見せてみるみる顔を曇らせた。
「ーーつまりあなた、アリーの家族はアリーの本来の名前もミドルネームも知らないということですの?」
「手紙によればそうだ。名前を綴り間違いではなくそもそも間違えていたらしい」
「なんてひどい」
アイリーンは口に手を当て潤んだヘーゼルの眼を夫に向け、後ろで美しく結い上げた茶髪の髪の一部を指に絡ませた。これはアイリーンの困惑したときの癖だった。コーデリアは憤慨し柔らかそうなウェーブがかかった茶髪を揺らし、ヘーゼル色の眼を吊り上げた。コーデリアはアリーがスティーブン王に掛け合って女子の大学進学を許可してもらい、この春から他の貴族令嬢と共に大学に通っていたためにアリーとは特に仲が良い。
「お父様、どうなさるおつもりですの?」
「それを今考えているところだよコーデリア。娘の名前を間違えたことを罰する法律はないからな。だが」
バーナーズ大公爵は葉巻をくわえ綺麗に撫でつけた白髪交じりの茶髪に髭を少し指でいじり煙をしばしくゆらせて言った。
「アリーと仲の良い貴族や将校は多い。これは話しておかねばならんな。家族を愛せない者が国や民を愛せるとは思えん」
「私もお友達に言っておきますわ。アリーのおかげで大学に通えるようになったのですから」
「わたくしも夜会でそれとなく話してみましょう。なんらかの間違いであればいいのですが」
「アイリーン、ブラッドフォードはただの間違いならこうして手紙に書いて広めるほど馬鹿な男ではないよ。深刻な問題だと判断しなければこうして手紙など出してはこない」
バーナーズ大公爵は娘のコーデリアの怒りを宥め、2人に手紙を書くからと席を外させた。息子のベネディクトがいなくてよかったと考えた。息子のベネディクトは今入隊して軍にいる。軍にいる彼に伝えて勢いのままノエル家に突進されては困る。アイリーンもコーデリアもそこは分かっているのかベネディクトには折を見て言うことにした。
ベネディクトは16歳の時に当時16歳のアリーがバーナーズ大公爵家に遊びに来た時に初めて出会った。彼は明るい栗色の髪にヘーゼルの眼でいかつい輪郭に格好良い顎をし、端正な顔立ちをしていた。遅い成長期が来て180cmを超えていたアリーよりも身長が高かった。筋骨隆々とした彼は父に尋ねた。
「父上、彼女が噂の『アリー』ですか?陛下やアッカーソン公爵のお気に入りの」
「そうだ。少年兵でもう2年戦場にいる。まあお前が全力で挑んでもせいぜいが5分持てば良いだろうな」
「3分よ。バーナーズ大公爵」
バーナーズ大公爵の言葉にアリーは訂正した。それにベネディクトは目を吊り上げ「なに?」とアリーの方を見た。アリーはめんどうくさそうにバーナーズ卿に尋ねた。
「ねえ、私は今日この坊やを鍛えるために呼ばれたの?アッカーソン卿に頼まれた仕事があるんだけど」
「アッカーソン卿には私から言ってある。アリー、少しこの力だけの愚息に戦いとやらを教えてくれ」
「しょうがないわね」
アリーはショートカットの黒髪を掻いてベネディクトと棒で対決することになった。合計3試合。執事が「始め」というとベネディクトは突進したが、アリーがひらりと飛んで躱し、脇腹を棒でぶちのめしてベネディクトを動けなくした。アリーは無表情で言った。
「そこが肝臓。そこが打たれると息ができなくなって動けなくなるの。ーー治るまで待つ?」
「ーーーゲホ、ふざけるな」
ベネディクトが息を乱して立ち上がり、再びアリーにとびかかると今度はアリーの持っている棒に当たったが、女のアリーのどこにこれほどの力があるのか、ベネディクトが力を込めても棒はびくともしなかった。そして力でおし負け、そのまま足を棒で掬い取られてベネディクトはスッ転んだ。
なんとか立ち上がった3試合目、アリーはベネディクトの腹を棒で突いてベネディクトは倒れ込んだ。アリーの勝利だった。アリーはポケットから懐中時計を取り出し、言った。
「2分30秒。3分もいらなかったわね」
「ハッハッハ、やはり『500人殺しのアリー』は強いな」
バーナード大公爵は手を叩いて笑い、ベネディクトは驚いたような眼で父の方を見た。バーナード大公爵は改めてアリーを紹介した。
「ベネディクト、先の戦で1人で500人殺した兵士がいたと言っただろう?彼女がそうだ。なあ?アリー中尉」
「爆弾と拳銃がありゃ誰だって500人くらい殺せるわよ。ーーじゃあ用事は済んだのね?私は行くわよ」
「待て待て、今日は別件だ。コーデリアが大学進学したいと言っておってな。相談に乗ってやってくれ」
「相談に乗ってもどうすることもできない場合もあるわよ。陛下に一応言ってみるけど。彼女、交渉力あったかしら?」
「それも聞いてみると良い。コーデリアはいつもの茶会の場にいる。頼んだぞ」
「わかったわ。それじゃあねバーナード大公爵、ベネディクト坊や」
そう言って去って行ったアリーの後姿を膝をついたまま見ていたベネディクトは不思議と怒りは起きなかった。風にたなびく黒髪と挨拶をするときに初めてきちんと見た青い瞳、日に焼けた肌、濃い目の赤い唇にス、と格好よく伸びた鼻梁がただひたすら美しいと思った。
ベネディクトはその時アリーに恋をした。
それからベネディクトは自分では「アリーに勝つために」とトレーニングを日夜行い、軍にも入隊したが、家族がアリーの名前を出すたびに顔を赤くして逸らすので彼女に恋心を抱いているのはバーナーズ大公爵家では周知の事実となった。男はどうやら自分よりも強い者に惹かれるらしい、とコーデリアとアイリーンは困ったように笑っていた。
その彼は今は軍で日々アリーを超えるため、あるいはアリーのサポートをするために訓練と勉学を続けていた。少佐は大隊を率いらなければならない。500人をまとめるには少佐という司令官の下に各部隊に有能なリーダーが必要だ。
ベネディクトがアリーの家族がアリーの名前を知らないと知った時、彼は怒り狂ったが、たまたま来ていたアリーに「落ち着きなさいよ」と言われ、なんとか息を整えた。彼は尋ねた。
「アリー、いいのか?このままにして」
「私がどうにかしなくてももう事態は動いているわよ。コーデリアとアイリーン夫人が知ったんでしょう?プレシャスも、リリー夫人も。もうノエル家は死んだも同然じゃない」
「どうしてそう思う?」
「女は機転が利いて男を動かすのが上手くて残酷だからよ」
放っておけば年内にもノエル家は崩壊するわと言って煙草の箱をベネディクトに向けた。ベネディクトは一本取り、アリーと共に一服し考えた。
まあたしかにそうだろうな、と。




