36 補佐官と魔王と少女
普通、泣きたいのは私ではなく、叩かれたメリルの方だと思う。
思うのだけど、涙が止まらない。
別に詩的にしたいわけではない。
本当に拭いても拭いても涙が止まらない。
こんなに涙脆くなかったはずだったが、何故だろうと思う。
「リディアー。泣き止んでよー」
「ゔー、ごめん。何か止まらない」
「あはは。しょうがないな〜」
少し落ち着いた時にメリルから腕を離して以来、上衣の袖で涙を拭っいるが一向に止まりそうにない。
刺繍の施された上衣の白い袖は薄い生地質ではないのだが、すでに広範囲で色を変えている。
私の目の前から動かないメリルに、小さな手で頭を叩かれたり撫でられたりされて、心底情けないと思う状況だ。
気がついた時には視界から消え、いつの間にか後ろのベッドに座っていた魔王と目があった時は、呆れた目を向けられた。
人の気も知らないで……。
「えーっと、ちょっと待っててね」
そう言って一度離れたメリルは、ベット横の引き出しからタオルを引っ張り出してきた。
「ほらタオル使って。目赤くなってきちゃってるよ」
「うん。ありがと」
「あー! こすっちゃダメー!」
「--お前等、どっちが保護者かわかんねえな」
はっきり言うなよー! そんな気してるよー!!
言われたとおりタオルを目に当てたまま、今までとは別の理由で項垂れた。
地味に人の背中を爪先で小突き続ける魔王は、その一言が追い打ちをかけていることに気がついているのだろうか。
…………知る知らないの前に、考えていないな。きっと。
「リディア大丈夫? まだ涙止まらない?」
「大丈夫。……止まってないけど」
「ダメじゃん」
何でかなー?
しゃくりあげるでもなく、ただただ涙だけが止まらない。
心配してくれるメリルには悪いが、こんな現象があるのかと逆に感心していたりする。
タオルで頬にまで落ちてきた涙を拭くだけにし、顔を上げてメリルと正面から向かい合う。
恐らく情けない顔をしているだろう。
鏡で確認するまでもなく、眉が下がっている感覚がある。
「なあに?」
「本当にごめん」
見た目にはメリルの頬が腫れても赤くもなっていないが、痛かっただろうと思う。
指先でそっと、叩いてしまった頬に触れようとするが、つい戸惑ってしまう。
しかし手を引く前に、メリルに両手で掴まれて掌ごと頬に押し当てられた。
「平気だよ」
「でも」
「大丈夫だよ。リディア、そんなに強く叩かなかったでしょ。痛くなかったよ」
びっくりしちゃっただけだよ、と笑うメリルには頭が下がる。
つい笑いが溢れた。
懐が広すぎるよ、もう……。
二人で笑っていると、少ししてから背中を強めに小突かれる。
後ろを振り向けば、魔王が前を見ろと言うように顎をしゃくってきた。
わかっているって。急かさないでよ。
気分は多少軽くなったが、私が謝るべきなのはそれだけではない。
メリルの頬から手を離して、頭を下げた。
「メリル。外出禁止にしてごめんなさい」
「え? え!」
例え見えなくとも、メリルが驚いてあたふたしているのは伝わってきた。
体を起こせば、思った通りに慌てていて、吹き出しそうになった。
「何でリディアがあやまるの。悪いのはお出かけしてたわたしでしょ?」
「抜け出したくなるような思いをさせたのは私だから。ちゃんと説明しなくてごめんね」
外出の話をしたときにきちんと説明していれば、いや、あの時メリルにもっと気を使っていればこんな事態はならなかったはずだ。
私の知らない所で、この子の身に何か起こっていなくて良かったと思う。
後日きちんと説明する約束をして頭を撫でると、メリルが手を払い除けて飛びついてきた。ぎゅうぎゅう締め付けてくる細い腕に、抱きしめ返す。
倒れないよう注意をしながら後ろを見れば、魔王が少し笑っているように見えた。
それにしても、涙がいつまでも止まらないといっそ放置したくなってくるものだ。
片腕でメリルを抱いたまま、タオルを床に置く。
「涙止まってないよ?」
「うん。でももういいや」
上衣も髪もすっかり濡れているし、今更拭っても変わらない。それよりも、右手の包帯が涙を吸っていて気持ちが悪かった。
メリルに傷が見えないよう、そっと包帯を解いていく。
ああー涼しい。
ぱっくり割れたままの傷に障らない程度に、軽く手を振って乾かしていると、目の前に腕が伸びて来てメリルの襟首を掴んで持ち上げた。
「おら、行くぞ」
「きゃ~。リディア~」
「--何してんの?」
ふらふら楽しげに揺れるメリルを掴み上げ、扉に向かって行く魔王に声を掛けるが、無視された。
とりあえず座って待っていると、扉の軋む音と会話が聞こえてきた。
--お前、爺が何処にいるか知ってるな? そこ行って寝ろ
--えー。リディアといたいー!
--駄目だ。これから”説教”するから
大分戻ってきていた血の気が、再び一瞬で引いた。
やっば! メリル! お願い諦めないで!
--ん~。じゃあしょうがないか~
どこが!? 全然仕様がなくないよ!!
逃げ場などないとわかっていても、思わず慌てて立ち上がろうとしたが、立ち眩みを起こしてベッドに寄りかかるだけで終わってしまう。
くぅ……! 泣き過ぎか。
部屋の向こうで、「いじめすぎちゃダメだよー!」というメリルの遠ざかる声に、更に焦りは募る。
嘘!? 本当に置いてった! メリルやっぱり怒ってたでしょー!!
「おい」
「わひゃ!?」
どうしようと悩んでいる間に、魔王は目の前に戻ってきていて、右手を掴まれて引き上げられた。
咄嗟に魔王の服にしがみついたが、正直離れたい。
上を見上げれば、人の右手を片手に痛めつける気満々の魔王の真黒い目があった。
「や、やだ……。せっかく治って、きたのに……」
「黙れ。散々大騒ぎしやがって。結局、お前が原因じゃねえか」
「ごめん……な、さい」
「感情に引っ張られんなって、何遍言った。ガキにまで手出しやがって」
淡々とした声が冷たく怖い。
包帯はさっき解いてしまっているから、最後の砦は元よりない。
傷口を撫でる感触に、数ヶ月前の痛みが蘇り、体が震える。
「や……、いや……。これから! これから注意す……するかんぐ!」
「黙ってろ。ガキが戻ってくんだろ」
魔王の手で顎ごと口を塞がれ、否が応でも声が出せない。
恐怖で働かない頭では、素直に頷くしかなかった。
「ん……、んふ」
「声、抑えてろよ」
そう言われた次の瞬間、襲ってきた激痛に魔王の手の下で叫んでいた。
傷口から血が溢れ、滴った血が頭上から落ちて頬を伝う。
膝立ちだった分動き易く、あまりの痛みにもがいて抵抗するが、床に押し倒されてしまう。
伸し掛るように目の前に迫る、魔王の顔に更に恐怖が強まった。
激痛で遠のく意識の中、歪む視界でにぃと笑った魔王を見た気がした。




