第8話 愛する者の行方
緊急事態を告げる魔導の警笛が、真夜中の魔王城にけたたましく響き渡っていた。
嵐のような騒乱が、静寂を無残に引き裂き、魔王の配下たちが生きた心地もなく城内を駆け回る。
眠りを叩き起こされた侍女のステラとネルは、寝巻き姿のまま、顔を蒼白にして、『東の塔』の一階から屋上までを半狂乱で駆け回っていた。
「ミア様……! おいでですか、ミア様……っ!」
完璧主義のステラですら黒髪をふり乱して背中の黒い羽を震わせ、小柄なネルは細い竜のしっぽを不安げに硬直させて、幾重にも連なる豪華な室内の影を必死に覗き込んでいる。
姿を消した未亜を見つけられなければ、待っているのは自らの処刑のみ。血の気の失せた顔を強張らせる二人のいる東の塔の外では、黒銀の甲冑に身を包んだ城内護衛騎士団が、鎧の重い金属音を響かせて通り過ぎていく。
同時に、城の警備を統括する大型ゴブリンの重甲冑兵たちによって、巨大な鉄格子の門が次々と轟音を立てて叩き落とされ、とうとう魔王城は要塞としての牙を剥き始める。
さらに、本来ならば魔王とこの魔界を守護するために存在する正規騎士団までが駆り出されていた。
東の塔を繋ぐ空中回廊、本丸の長い通路、さらには広大な城の敷地内に至るまで、松明の青い炎が城のそこかしこを不気味に揺らしている。
「あの人間の小娘め……! どこまで我が君を……っ、この城を翻弄すれば気が済むのだ……っ!」
廊下の暗がりの中、白銀の髪をきっちりと結い上げた老執事ガルムは、胸元の割れた勲章を冷たい指先で強く握りしめ、歯の隙間から憎々しげな毒を吐き捨てた。
白濁し始めた灰色の瞳にどす黒い憤怒を宿し、ローブの裾を揺らしながら黒檀の魔導杖を振るう。杖の先端から放たれた索敵の魔光が、青い蜘蛛の巣のように城内の宝物庫や主要施設へと伸びていく。
下等で脆い人間の娘が入り込んだことで、完璧だったはずの魔王城の秩序が崩壊していく。その忌々しさに、ガルムは腑が煮えくり返る思いだった。
一方、狂乱の発信地である『王妃の間』——。
ヴェルラウトは一人、血の気が引いた顔で静まり返ったリビングに佇んでいた。
彼は、未亜を奪った不審者の痕跡を探すべく、鋭い視線を巡らせる。
何者かの侵入を示す結界の歪みは一切ない。ならば、なぜ彼女は消えたのか。
乱雑に崩された宝飾品の山と、めくれ上がったカーペットを見つめながら、ヴェルラウトは大股で奥へ進んだ。
ダイニングを兼ねたサロンへ足を踏み入れると、ヴェルラウトは深く眉をひそめた。
そこもまた、見る影もない惨状を晒していた。白磁のティーセットが傾き、書棚の隙間やテーブルの周囲で、繊細な調度品がまるで嵐に揉まれたように散らかっている。
(ここで何があった……?)
不審者が荒らしたにしては、金品への執着が見られない。
ヴェルラウトの視線は、サロンの奥、壁際に垂れ下がる重厚な金のドレープカーテンに向いた。
不自然に押し開かれている。
「ここか…!」
ヴェルラウトはその奥に隠されたアーチ状の扉を見つけ出し、ためらいなく無骨な手で押し開けた。
現れたのは、下層へと深く伸びる白銀の螺旋階段。
ヴェルラウトは迷うことなく、暗く静かな階段を駆け降りた。
辿り着いたのは、五階にある広大な『王妃専用衣装部屋』だった。
古今東西の最高級の生地で縫い上げられたドレス、無数の靴や宝石が所狭しと並び、彼の視界を鬱陶しく阻む。
切迫感に襲われるヴェルラウトは、荒い呼気を吐き出しながら衣装の列を掻き分けた。
「ミア……! いるのか、ミア……ッ!」
抑えきれない不安と焦りを掠れた声に乗せて叫ぶ。
だが、返事はない。ただ、彼が買い与えた贅の限りを尽くした空間が、無機質に沈黙しているだけだった。
奥へ、さらに奥へ——無我夢中で衣装の列を掻き分けて進んでいたヴェルラウトの足が、部屋の中央でピタリと止まった。
そこにあったのは、部屋の最奥に佇む楕円形の巨大な鏡——【幻衣の姿鏡】だった。
高さ二・五メートルを超える白銀鉱石のフレーム。生き物のように蠢く薔薇と蔓の彫刻をあしらった完璧なクリスタルガラス。
主が望む衣装を投影し、一瞬で仕立て変えるための最高級魔法具。そして城内のあらゆる衣装庫や保管庫と空間を繋ぐ「転送門」の役割を果たす鏡でもある。
その澄み渡るクリスタルガラスの鏡面の前に立った瞬間、ヴェルラウトの瞳孔が小さく収縮した。
「……ッ、これは……」
鏡の前に漂う、かすかな空気の揺らぎ。
鏡面の周りに、まるで金色の星屑を散らしたかのように、可憐で温かな「光の残滓」がふわりと揺らめいていたのだ。
(……ミアの、光……?)
人間界の路地裏で彼女を初めて目にしたあの日。孤独な暗闇の中で何百年も生きてきた彼を射抜き、一瞬で心を奪った、あの愛おしい魂の輝きだった。
その光の粒子が、鏡面へ吸い込まれるように漂っている。
吸い寄せられるように鏡に歩み寄り、手袋を外した大きな手で冷たい鏡面に触れる。
その瞬間、ヴェルラウトは息を詰めた。
鏡面の奥深くに、未亜がここを通ったという確かな「空間の歪み」が残っていたのだ。
(自ら……この扉をくぐったというのか……?)
ヴェルラウトの思考が、激しく揺れ動く。
この魔鏡の空間転送機能には、初代魔王の強力な二重結界が施されている。
本来、城主である魔王、あるいはそれと同等の権限を持つ者でなければ起動すらできない。
権限を持たない者が触れれば、黒い電撃で弾き飛ばされる——それが、この鏡の理のはずなのだ。
(……なぜだ。なぜ、ミアがこの鏡を動かせた……?権限を与えた覚えは……)
そこで、ヴェルラウトは衝撃的な真実に思い至る。
この『東の塔』は——初代魔王が最愛の妻のために築いた聖域。それからは、歴代の魔王達が妃を住まわせ続けてきた。
故に、ヴェルラウトが未亜をこの塔へ受け入れたその瞬間から、東の塔そのものが、魔王に心から愛されている彼女を『この塔の主(王妃)』として認識し、全権限を解放していたのだ。
未亜は囚われの身などではなく、この塔の正当な主として、鏡の扉を開く資格を有していた。
そして、彼女は、自らの意思でこの鏡を使い、王妃の間から姿を消したのだ。
でも、なぜ——。
望むものなら、どんなものでも与えると伝えていたはずだ。しかし、愛おしい彼女は、ヴェルラウトに何もねだろうとはしなかった。
ならば、なぜ、この魔鏡は、彼女が求めるものに反応し、その扉を開いたのか。
(本当は、あの部屋のドレスでは、満足できなかったのか……? より豪華で、より美しい衣服や宝飾品を求めて……別の宝物庫へ移動したというのか……!?)
背筋を冷たい悪寒が駆け抜ける。
「俺の愛では足りなかったというのか……ミア……!」
狂おしいほどの独占欲と動揺が、胸を焼き尽くす。
ヴェルラウトは跳ねるように螺旋階段を駆け上がった。
魔王城は、魔界でもっとも強固な要塞でもある。だが同時に、侵入者を排除するための恐ろしい魔術がいくつも仕掛けられている。
特に今は、未亜という愛する女を守るために、ヴェルラウトが強力な魔術防衛網を城中に張り巡らせていた。
か弱い人間が自由に歩き回り、無事でいられるような平穏な城ではないのだ。
連れ去られたという恐怖が「城内で怪我をしているかもしれない」という焦燥へと形を変える。
王妃の間の扉を荒々しく叩き破るようにして廊下へ飛び出すと、ヴェルラウトは城全体を震わせるような、圧倒的な魔圧とともに咆哮した。
その声は魔導の波動となり、城内の壁や床を伝って、凄まじい威圧とともに城中へと響き渡る。
『全兵に告ぐ——!!』
城内のすべての者の鼓膜を突き破らんばかりに響き渡る。
空間を揺らす魔王の威厳に、城中の臣下たちが息を呑み、その場に平伏する。
『ミアは城内にいる!! ミアが好みそうな豪華なドレスのある衣装部屋、宝物庫、サロンを片端から探せ! 爪の先ほどの隙間すら逃すな!!必ず見つけ出せ!!!』
雷鳴のごとき命令に、城中を駆け回っていた騎士や甲冑兵たちが一斉に動きを変える。
ヴェルラウト自身も、疾風のごとく廊下を駆け出した。
向かうのは、中央主塔の上層にある、魔王城で最も貴重で高価な宝飾品ばかりが集められた『極上宝物庫』だ。
そこに彼女がいるはずだという強い思い込みを胸に、主塔の高層にかけられた空中回廊を渡ろうとした、その時だった。
ヴェルラウトの琥珀ゴールドの瞳が、夜闇の底を捉えた。
そこは、豪華な宝物庫でも、絢爛たるサロンでもない。
手入れが完全に放棄された、不気味な黒樹林が鬱蒼と生い茂る城の北西外郭——打ち捨てられた廃棄エリアだった。
その黒い土の上に、一筋の光の残滓が、かすかにたゆたっているのが見えたのだ。
「……な……に……?」
足を止めたヴェルラウトは回廊の縁に手をかけ、絶句した。
激しい困惑に襲われる。
あのような汚らしく不快な場所に、未亜が好むような美しい衣装や宝石など存在するはずがない。
ならば、なぜ彼女の光があんな場所に残っているのか。
困惑と不気味な予感が胸を刺す。
だが、次の瞬間、その光の軌跡が向かう先を認識したヴェルラウトの顔から、完全に血の気が引いた。
あそこは今——数日前に魔王軍の討伐隊が生け捕りにした凶暴な魔獣がいる。魔王城の城下町で暴れ回り、街を壊滅させかけた暴魔熊。調教も効かず、解剖・研究されるか処分の判断を待つために一時的にぶち込まれている。
「ミアッ……!!」
彼女がそこにいる理由など、どうでもよかった。
ヴェルラウトは迷うことなく、はるか遠くに地上を望む回廊の欄干を蹴り上げ、夜の闇へと身を躍らせた。
暗灰色のガウンが夜風を孕んで激しく翻る。
消えかける光の軌跡を追って、城の巨大な尖塔の屋根から屋根へと、疾風のごとき速度で軽々と飛び移っていく。足場を蹴るたびに黒大理石が砕け散り、彼は一直線に地上へと急降下した。
地上に降り立つと、その光の軌跡だけを頼りに、樹木を薙ぎ払い原生林の暗闇を疾走した。
黒樹林の棘のある蔓も、湿った土も、今の彼には障壁になり得ない。
ただ、彼女の無事を祈る一心で風を切る。
「キャアアアアアアアッ!?」
開けた訓練場の砂利を蹴立てて、鉄格子の並ぶ最奥へと突進していたとき、夜風を引き裂く甲高い悲鳴が届いた。
「——ミアッ!?」
ヴェルラウトの心が凍りついた。
不吉な鉄錆と血の匂いが漂う隔離エリアの最奥へ飛び込んだ瞬間、目の前に広がっていたのは、悪夢のような光景だった。
分厚い魔導鋼の檻が内側から無残に打ち砕かれ、飛び散った鉄くずと煙の中、五メートルを超える漆黒の巨躯——『暴魔熊』が、狂乱の咆哮を上げて立ち上がっていた。
そしてその足元、黒い砂利の上に転がる華奢な娘に向かって、丸太のような前脚と刀身のごとき長い爪が、容赦なく振り下ろされようとしていたのだ。
「——させんッ!!!!」
ハッキリと見えた未亜の華奢なシルエット。だが、まだ距離がある。
間に合わないと悟った瞬間、ヴェルラウトの手が反射的に突き出されていた。
手先から放たれた漆黒の衝撃波が、夜の空気を灼き切りながら一直線に奔る。
ドガァァァァンッ……!!
凄まじい爆音とともに、直撃を受けた暴魔熊の巨躯が、「グアァッ!?」という悲鳴とともに横殴りに吹き飛んだ。
数トンある身体が激しく砂利を削り、何重もの強靭な鉄格子をなぎ倒す。魔獣は、背後の重厚な石壁を粉砕しながら、土煙の中へと叩きつけられる。
檻が悲鳴を上げて崩れ落ちる爆音が響き渡った。
「ハァ……ハァ……っ!」
爆風が巻き上げる埃と硫黄の煙を切り裂き、ヴェルラウトは未亜のもとへと弾かれたように駆け寄った。
勢いがついたまま地表を叩くように膝をつき、恐怖に身体を小さく丸めて震える未亜の華奢な肩へ、なりふり構わず手を伸ばす。
「ミア……っ! 無事か、怪我はないか……!?」
狂おしいほどの焦燥を瞳に宿し、未亜の肩を抱き寄せる。その手は、魔王らしからぬほど激しく震えていた。
未亜は恐怖に身体をガタガタと震わせ、怯えた瞳でヴェルラウトを見上げる。
よかった。生きている。
その無事を確認し、心底安堵したヴェルラウトだったが——次の瞬間、彼の動きが凍りついた。
琥珀ゴールドの瞳が、激しい動揺に大きく見開かれる。
そこにいたのは、彼が与えた真珠色の繊細なシルクのネグリジェを纏う未亜ではなかった。
毎日入れさせていた霊泉の香りを漂わせる、麗しい王妃の姿はそこにない。
使い古された、真っ白でゆったりとしたニットのセーター。
履き慣れた、泥のついたスキニージーンズ。
泥と煤に汚れているが、そのどちらも見覚えがあった。未亜が、人間界で彼に攫われたあの日に着ていた——慎ましい「人間の服」だ。
魔王である自分が心から愛する女。温かな魂の光を持つ彼女には、もっと相応しいドレスが必要だと考え、人間界で身につけていた安物は、侍女達に片づけさせていたはずだ。
それに未亜は、もっと美しいドレスを求めて、あの魔鏡の扉を開いたのではなかったのか——。
冷たい砂利の上に座り込む未亜の姿が、ヴェルラウトの理解を根底から揺さぶる。
「どうして……そんなものを……」
なぜ、それを着ているのか。
声にならない呟きが、ヴェルラウトの喉から漏れ出た、その瞬間だった。
——ゴゴゴゴゴ……ッ!!
崩れ落ちた檻の瓦礫を押し退け、血煙の中から、地鳴りのような荒い呼吸が届いた。
吹き飛ばされた暴魔熊が、6つの真っ赤な瞳をギラギラと殺意に燃え上がらせ、四本足でゆらりと身体を起こしていた。
裂けた口から粘り気のある涎を垂らし、暴虐の獣が、再びヴェルラウトと未亜に向かって一歩を踏み出してくる。
傷ついた人間の少女と、彼女の服に絶句する魔王。二人の悲しいすれ違いを残したまま、夜の訓練場に再び殺伐とした緊迫感が満ちていく——。




