第7話 黒い森と魔獣
重い木製の扉を押し開けた瞬間、未亜の全身を包んだのは、湿り気を帯びた夜の冷気だった。
周囲を気にしながら、慎重に一歩踏み出す。靴も靴下さえも履いていない足に伝わるのは、ふかふかの絨毯でも磨き上げられた大理石でもない。
水気を含んだ泥と、腐った落ち葉のぬめりを帯びた土の冷たい感触。さらに足先にへばりつく生々しい黒苔に、未亜はヒッと息を呑んで素足を竦ませた。
鼻を突くのは、カビと腐葉土、そして遠くから漂う硫黄の匂い。
(やだ…っ、気持ち悪い…っ)
激しく上下する胸を押さえる。
おずおずと振り返り、自分が抜け出してきた建物を仰ぎ見た。
そこに佇んでいたのは、白銀の美しい姿を誇る『東の塔』とは似ても似つかない、半ば風化して崩れかけた石造りの異様な廃塔だった。
周囲の土には、折れた建築資材や異形の彫像の首、魔力が潰えて錆びついた謎の魔導具が、ゴミ屑のように無造作に打ち捨てられている。
(ここは……城のゴミ捨て場……?)
そこは、魔王城で不要となった物品を廃棄するための場所だった。
あの日、人間界から拉致された際に身に着けていた、愛着のある白いセーターとスキニージーンズが、なぜこの汚れた廃塔にあったのか。その残酷な答えが胸を突く。
(あの怪物にとっては、人間界の私も、この服に詰まった思い出も——全部、どうでもよかったんだ)
毎日毎日、飽きもせずに豪華な贈り物を抱えてやってきていた魔王の絶世の美しい容貌が、脳裏に浮かぶ。
『俺の愛を受け入れてくれ』『愛してる』『お前のためなら、この世の全てを捧げよう』
あの怪物は、本当に心から愛しているかのような言葉を並べながら、裏では、その「愛してる女」の私物をゴミ同然に破棄していたのか。
もしかしたら、ポーチや財布、スマホに家の鍵。それらを入れていたバッグも、このゴミ置き場のどこかに投げ捨てられ、朽ち果てていくのを待っているのかもしれない。
ぎゅっとセーターの胸元を握り締め、未亜はさらに視線を巡らせた。
鬱蒼と生い茂る漆黒の巨木——黒樹林の隙間から見えたのは、月光を反射して禍々しく背を伸ばす、中央主塔と天守の巨大な影だった。
(……まだ、お城の中なんだ……)
鳥籠の扉は開いたものの、ここはまだ魔王城の広大な敷地内——魔王の支配から逃れられてはいなかった。
絶望に膝が折れそうになるのを、左耳に戻ってきたピアスの冷たくも温かい感触が踏みとどまらせる。
「行かなきゃ……」
未亜は覚悟を決め、魔王城に背を向けると、黒い原生林のような裏庭を歩き出した。
だが、明かりひとつない黒樹林は、人間の娘にとって恐怖そのものだった。足元に毒々しい青白い微光を放つキノコが、かろうじて足元を照らしているものの、灯りと呼ぶにはあまりにも心許ない。
素足に触れる水気を含んだ土や腐った草の感触に耐えながら歩き続けていると、ぬめりけのある黒苔に素足を滑らせてしまった。その拍子に踏みつけた毒々しいきのこが「グニュッ」と嫌な粘液を吐き出す。
「ひゃあ……っ!?」
情けない悲鳴を上げ、未亜は跳ね起きるように、きのこの群生地から足を引き抜いた。
その後も、闇に怯え、すり足で這うように進んでいた未亜だったが、ふいにバランスを崩し、傍らの大木に手をついてしまう。
「いたっ……!」
幹に絡みついていた棘を持つ蔓が、未亜の手のひらを浅く切り裂いた。
じんわりと生温かい血が触れた肌を濡らす。痛みと恐怖に涙が滲み、未亜はその場にしゃがみ込みそうになった。
その時だった。
——ドォンッ……!!
背後から殺気を感じた瞬間、地底から響くような地鳴りとともに、凄まじい「圧力」の波が空気を激しく震わせた。
黒樹林の葉が一斉にざわめく。
ズン、と全身の肌を叩くような重圧に、地面すら微かに振動した気がして、未亜の身体が大きくよろめいた。
「きゃっ……!?」
木の幹に必死に手を突き、未亜は息を呑んだ。
何が起きたのかは分からない。
けれど、今確かに、あの背後に聳え立つ巨大な城の方角から、恐ろしいほどの怒りと狂気が解き放たれた気配がした。
(私がいなくなったことに……気づいたの……?)
冷や汗が頬を伝い落ちる。
心臓が早鐘のように嫌な音を立てて鳴り響く。
恐怖で膝がガタガタと震えた。
黒い木々の合間から、ぼんやりとした青白い光が漏れているのが見え始めていた。
無意識に、左耳にはめたピアスを指先で撫でる。
逃げても捕まるかもしれない。けれど、この闇のなかでじっと震えていても死を待つだけだ。
未亜は傷ついた手を強く握り締め、その光を目指し、必死に足を進めた。
闇を抜けた先で未亜の視界を塞いだのは、見上げるほど高く、どこまでも続く重厚な外城壁だった。
漆黒の巨石が積み上げられた壁面には蔓草がへばりつき、上部では、教科書でしか見たことがない魔族文字が静かに青白く明滅している。
そして壁には、規則正しく埋め込まれた青白いランタン——『幽晶灯』が、静かな冷気を孕んだ光を放っていた。
(これも……教科書で見たことある……魔界の灯りだ……)
学生時代、人間界の授業で習った知識が不意に脳裏をよぎる。
真っ暗な夜の黒樹林の中で、ようやく見つけた灯り。そしてこの巨大な城壁を辿っていけば、いつか外へと抜け出せる扉か、小さな穴が見つかるかもしれない。
城壁にそっと手を添え、青白い光の道標を頼りに歩き出したばかりの未亜の足が、ふと止まる。
壁際に、背中に小さなコウモリの翼を持つ、巨大な犬のような石像が鎮座していた。
気味悪さに息を殺し、そっと通り過ぎようとした、その瞬間。
ゴゴ……と不気味な岩の擦れる音が響き、石像の皮膚のヒビ割れから赤黒い光が漏れ出した。グッと大きく開いた黄金色の縦瞳が、まっすぐに未亜を捉える。
「ヒッ……!?」
未亜は喉を詰まらせた。
慌てて後ずさろうとして、尻もちをつきそうになる。
それはただの石像ではない。城の警備を司る魔獣——『岩石鬼犬』だったのだ。
終わった、襲われる——そう思った未亜はぎゅっと目を瞑った。
けれど、予想していた痛みが訪れることはなかった。
代わりに届いたのは、甘えるような低い「ルゥルゥ……」という鳴き声と、丸みのある大きな頭部が、肩の辺りに擦り寄せられてくる温かい体温だった。
目を開ければ、赤黒く光っていた皮膚の輝きがすうっと柔らかな黄金色へと変わり、凶暴な唸り声は消え失せていた。
「……え……?」
超大型犬ほどの大きさもある恐ろしい姿をした魔獣が、警戒心をすっかり解いていた。そして、信じられないことに、大きな岩の身体を低くかがめ、未亜に撫でてほしいと言わんばかりに尻尾を振っている。
未亜は、恐る恐る手を伸ばし、硬い皮膚をそっと撫でてやった。
気持ちよさそうに喉を鳴らす巨体に、彼女の強張っていた心が少しだけ解ける。
「……一緒に行く……? あなたがいると、すごく心強いんだけどな……」
怪物だらけで恐怖しかなかった魔界に、ようやく、味方になってくれるかもしれない存在を見つけた気がした。
縋るように問いかけたが、賢い警備魔獣は寂しそうにひと鳴きすると、自らの持ち場を守るように再び城壁の前に座り直した。
「そっか、お仕事中なんだもんね。お利口さんだね……、バイバイ」
最後にもう一度その頭を名残惜しげに撫で、未亜は再び城壁沿いを歩み始めた。
城壁沿いには、定期的に岩石鬼犬が鎮座し、魔王城の警護に徹しているようだった。けれど、彼らは未亜を見送るばかりで、敵意を向けてくることはなかった。
四頭目の岩石鬼犬を通り過ぎた直後のことだった。
ジャッ、ジャッ、と規則正しく土を踏み鳴らす、複数の重厚な足音が暗闇の奥から近づいてきた。
同時に、松明の青い炎がチラチラと黒い木々を赤く染め上げていく。
(……誰かいる……っ!?)
息が止まりそうになった。
未亜は弾かれたように、傍らにあった太い漆黒の巨木の陰へと滑り込み、背中を固い幹に押し付けて屈んだ。
口を両手で強く覆い、震える身体を限界まで小さく丸める。
「——そっちにはいたか!?」
「いや、影も形もない! 雑木林の奥まで探せ!」
樹木のすぐ脇を、カチャリと冷たい甲冑や装具を擦れ合わせる騎士たちの集団が通り過ぎていく。
長い槍と剣を携えた魔王軍の騎士たち。その殺気立った横顔が、松明の揺らめく青白い火に照らし出されていた。
「し、しかし…!結界の破れも確認できません……!まだ城内にいるとしか……!!」
「無駄口を叩くな!クソッ、陛下はお怒りだぞ! 逃げた人間を逃がせば、俺たちの首が飛ぶ!」
「鼠一匹逃すな、外郭の隅々まで探し出せ!!」
荒々しい怒号と金属の擦れる音が、未亜のすぐ目と鼻の先で交わされる。
未亜は強く目を閉じ、心臓の爆音も手で押し潰すように、ひたすら息を止めて祈り続けた。
セーターに擦れる自分の呼吸音すら、死に直結する恐怖。口を覆う手の指先に力が入り、爪が手のひらの傷に食い込んだ。その痛みで狂いそうな動揺を必死に耐える。
(見つかったら……連れ戻される……っ)
やがて、慌ただしい足音と松明の火光は、ゆっくりと遠くの闇へと遠ざかっていった。
遠くで金属音が消え去るまで、さらに数十秒。
限界まで詰めていた息を、未亜は無意識のうちに「はぁ……っ、ふぅ……っ」と掠れた吐息にして吐き出した。
全身からドッと冷や汗が吹き出し、膝がガクガクと震えて立っていられないほどだった。
(やっぱり……逃げたのがバレてる……! もう、時間がない……!)
あの恐ろしい魔王が、城中の騎士を使って自分を探させている。
見つかれば今度こそおしまいだ。
未亜は震える膝を必死に叩き立ち上がると、縋るように再び壁に手を添え、足早に歩み出した。
二十分ほど歩き続けた頃、樹木が途切れ、急に開けた場所へと躍り出た。
見渡す限り黒い砂利が敷き詰められ、太い鉄杭がいくつも打ち立てられた荒涼とした広場。そこは、魔王軍の騎士たちが技を鍛える訓練場のようだった。
真夜中のため人影はないが、消し炭の匂いと、生々しい獣の臭気、そして鉄錆と血の匂いが鼻を突く。
訓練場に沿うようにして慎重に歩き続けていると、広場の外縁部に、漆黒の鉄格子で組まれた巨大な檻の列が整然と並ぶエリアが現れた。
未亜は息を殺し、刺激しないよう慎重に檻の横を通り過ぎる。
最初の檻の中にいたのは、全身が黒鉱石のような外骨格に覆われた大型の馬だった。一本の鋭い角を壁に預け、蹄から青白い息を漏らしながら静かに眠っている。
未亜が横を通り過ぎても、起きる気配すらない。
続く檻には、二つの頭を持つ漆黒の巨大狼——『双頭の影狼』がいた。
未亜の気配に気付いた片方の頭がフッと目を覚まし、二対の赤い瞳をギラリと光らせた。悲鳴を噛み殺す未亜だったが、影狼は牙を剥き出しにするどころか、耳を寝かせて「クゥーン……」と可憐な声で鼻を鳴らし、檻の隙間からすり寄ってきた。
その姿は、未亜が働いていたカフェによく遊びにきていた野良犬によく似ていた。
「……可愛い……」
魔王に仕える騎士達が自分を探しているという恐怖が消えたわけではない。
けれど、可愛らしいその姿に、緊張の糸が少しだけほぐれ、未亜の頬に小さな笑みがこぼれる。
そっと檻の隙間から手を伸ばし、フワフワとした漆黒の毛並みと顎の下を撫でてやると、影狼は嬉しそうに目を細めた。
その奥では、岩のような鱗に覆われた巨大な竜が、硫黄の煙を吐きながら静かに未亜を見つめていた。だが、威嚇する様子はない。
どの魔獣も、未亜に対して牙をむくことはなかった。
彼らは不気味で恐ろしい姿をしているけれど、理由もなく襲ってくるような怪物ばかりではないのかもしれない、と未亜の恐怖は少しずつ和らいでいった。
だが——さらに奥へと進んだ未亜の足が、ぴたりと止まる。
そこにあったのは、今までの檻とは明らかに異質な空間だった。
立ち並ぶのは、通常の鉄格子ではなく、厚さ数十センチもの重厚な魔導鋼でできた、箱型の巨大な隔離檻。肌を刺すような刺々しい空気と、こびりついたドス黒い血の匂いが漂っている。
本能が「行ってはいけない」と激しい警鐘を鳴らしていた。
けれど、城壁の抜け穴を探すには、この重厚な隔離檻の前を通るしかなかった。
息を殺し、未亜は隔離檻の横を通り抜けようとした。
檻の暗がりの中から、重く、粘り気のある「ハァ……ハァ……」という荒い呼吸音が漏れ聞こえてくる。
未亜がその横を差し掛かった、まさにその時だった。
暗闇の奥で、血のように真っ赤な六つの瞳が、ギロリと開いた。
立ち上がれば五メートルを超えるであろう圧倒的な漆黒の巨躯。背中からは硬質な骨が突き出し、裂けた口からは凶悪な牙が覗いている。
それは、体にいくつもの痛々しい傷跡を残した特級危険魔獣——『暴魔熊』だった。
(ひ……っ!)
恐怖で血の気が引く。
だが、その暴魔熊と未亜の視線がカチリと噛み合った、まさにその瞬間だった。
暴魔熊の真っ赤な瞳から、狂気がすうっと消えた。
代わりに宿ったのは、狂おしいほどの渇望と、悲痛な懇願の色彩だった。
苦しい、救ってくれ——言葉にならない切実な悲鳴が、未亜の脳裏に直接雪崩れ込んでくる。
(また……)
昼間、王妃の間の窓ガラスを突き破ってきた四眼鷲の瞳と重なった。
(助けて……欲しいの……?)
ハァハァと荒かった呼吸が途切れ、暴魔熊は悲痛な、まるで救いを求める子供のような表情で未亜を見つめてくる。
未亜が戸惑い、すっと手を差し伸べかけた——その瞬間、暴魔熊の六つの瞳が、大きく見開かれた。
直後、暴魔熊の巨躯が暴走した。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
天地を破るほどの凄まじい咆哮が、夜の訓練場に轟き渡った。
狂乱した暴魔熊は、丸太のような前脚と長い爪を振り上げ、自らを閉じ込める魔導鋼の檻を内側から狂ったように叩きつけ始めた。
ガンッ!! ガンッ!! ドゴォンッ!!
幾重にも巻かれていた太い鉄の鎖を引きちぎり、ぶ厚い魔導鋼の壁が歪み、悲鳴を上げて弾け飛ぶ。
「キャアアアアアアアッ!?」
跳ね返った鉄くずと衝撃波に吹き飛ばされ、未亜は黒い砂利の上へと転がった。
頭を抱えて身を縮こませる未亜の頭上で、バリバリと檻が完全に粉砕される凄まじい破壊音が響く。
埃と鉄錆の煙が舞うなか、立ち上がった五メートル超えの巨大な影が、未亜を見下ろしていた。
絶体絶命の暗闇のなか、魔獣の鋭い爪が、容赦なく未亜へ向かって振り下ろされようとしていた——。




