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第6話 焦燥の魔王

西の塔——禍々しい魔王城において、直属の臣下さえ足を踏み入れることが許されない絶対の聖域。

その最上階に位置する『王の間』は、東の塔にある『王妃の間』の華やかさとは対照的な黒岩を削り磨いた重厚な壁と、豪奢でありながら装飾を極限まで削ぎ落とした無機質な冷気で満たされていた。 

鏡のように磨き上げられた黒大理石の床に、重厚な黒い装飾が施された広大な空間。その窓際に置かれた一人用の高背椅子に、ヴェルラウトは身を沈めていた。

普段の漆黒のシャツや重厚なハーフケープは脱ぎ捨てられ、纏っているのは胸元が大きく開いた暗灰色のガウンのみ。人間よりもわずかに高い体温を宿した身体が、静かな呼気とともにゆるやかに上下している。

窓の向こうに広がる空は、濃密な紫と黒が混ざり合う、魔界の真夜中の色。

幾千もの星すら呑み込む闇のなか、ヴェルラウトは遥か東の空——この部屋からは主塔の影に隠れて見えない東の塔の方角を、切なげに見つめていた。


(……ミア)


胸の奥が、痛むように熱い。

脳裏に焼き付いて離れないのは、昼間の光景だ。

結界を突き破った魔鳥の急襲。ガラスが粉々に砕け散る爆音の中、恐怖に顔色を激しく失い、失神するように倒れ込んだ未亜。

あの華奢な身体を抱き上げ、ベッドへ運んだ時の儚い重みが、今も腕に残っている。


思い返せば、彼女は今朝の朝食の時から様子がおかしかった。

今度こそ彼女の心を和ませようと贈ったオルゴールも虚しく拒絶され、挙句の果てに侍女長のステラからは「体調が優れないためにお休みになられている」と告げられた。夕食の席に、彼女が姿を現すことはなかった。

毎日、多忙な執務の合間を縫っては彼女のもとへ足を運び、夕食の席ではただ静かに向かい合う。言葉を交わさずとも、その小さな姿を瞳に映すことだけが、666年の孤独を生きてきた彼にとって唯一の救いだった。


(本当に……ただの体調不良なのか……?)


傷ついているのではないか。一人で泣いているのではないか。

一度芽生えた不安は、熱病のようにヴェルラウトの理性を蝕んでいく。

ベッドに横になることすら叶わず、静まり返った部屋でただ一人、届かぬ愛しさに胸を焦がし続けていた。


だが——もう、耐えられなかった。

ヴェルラウトは深々と吐息を漏らして立ち上がった。


一目だけでいい。すやすやと寝息を立てて眠るあの愛しい顔を確認できれば、この狂おしい胸の焦燥も治まるはずだ。


そう、自分に言い聞かせるようにして、ヴェルラウトはガウンの裾を翻し、王の間を後にした。

王妃の間がある東の塔は、魔王城のなかでも孤立した特殊な要塞だ。そこへ向かうには、西の塔を出て、まず中央主塔の豪華な回廊を通らねばならない。

ヴェルラウトは、西の塔を出ると、重々しい足取りで主塔へと続く回廊を進む。

主塔の長い廊下の静寂を靴音で乱しながら進んでいると、不意に前方の闇からカツン、カツンと黒檀の杖を突く音が近づいてきた。


「……陛下?」


現れたのは、背中に届く白銀の髪をきっちりと撫で付けた老執事——ガルムだった。


「……ガルムか。こんな夜更けに何をしている」


普段ならすでに自室へ下がっているはずの老兵に、ヴェルラウトは低い声を投げかけた。

ガルムは隙のない高貴な執事服のまま、深く頭を下げる。胸元にある端の欠けた古びた勲章が暗がりで鈍く光った。


「昼間、東の塔の結界が魔鳥如きに破られてしまうという不始末がございましたので、城内の魔導陣の再点検と巡回を行っておりました。若い兵どもだけに任せていては、万一の際に陛下の御身を守れません故」


厳格そのものの報告。白く濁り始めた灰色の瞳は、しかし、着崩した夜着姿のヴェルラウトと、彼が進もうとしている『東の塔』の方角を鋭く射抜いていた。


「して……陛下。このような刻限に、どちらへ?」

「……ミアの様子を見に行く。体調が悪く寝ていると聞いているが、もう目を覚まして腹を空かせているかもしれん」


ヴェルラウトが当然のように言葉を紡いだ瞬間、ガルムの額に生えた太い羊角が、ピクリと不快そうに揺れた。

刻み込まれた深い皺がさらに深くなり、冷ややかな蔑みと苦々しさがその顔に走るのを、ヴェルラウトは冷徹に見下ろしていた。


(不愉快か、ガルム)

 

下等で脆い人間の小娘のために、魔王陛下が自ら足を運ぶなど——言葉にせずとも、ガルムの全身がそう叫んでいた。


「……左様でございますか。では……万一の不調に備え、このガルムもお供いたしましょう」


数秒の沈黙の後、ガルムは恭しく頭を下げた。

言葉とは裏腹に、その申し出に忠誠心など欠片もないことを、ヴェルラウトは見抜いていた。 

ガルムの歪んだ執着を察するヴェルラウトは、未亜のいる聖域に、彼女を嫌うガルムという男を近づけたくはなかった。

だが、ここで言い争い、一刻でも未亜に会う時間が遅れることの方が、今のヴェルラウトにとっては耐え難い苦痛だった。

 

「……勝手にしろ」


冷たく吐き捨て、ヴェルラウトは大股で歩調を速めた。


主塔を抜け、宙に浮くような長い空中回廊を渡る。

やがて東の塔の6階——『王妃の間』へと続く重厚な白銀扉が見えてきた。扉の両脇には、身の丈を超える長い漆黒の槍を手にした黒銀甲冑兵たちが直立している。

真夜中に姿を現した魔王と執事長に、甲冑兵たちは息を呑み、慌てて背筋を正して最敬礼を捧げた。

 

ヴェルラウトは扉の手前で足を止め、後ろのガルムへと振り返ることなく言い放った。


「お前はここで待て。……中へ足を踏み入れることは許さん」

 

隠そうともしないヴェルラウトの独占欲に、ガルムは「……は」と苦々しく頭を下げ、その場に留まった。

ヴェルラウトは一人、重厚な白銀の扉を押して室内へ入った。


静まり返った『王妃の間』。

だが、足を踏み入れた瞬間、ヴェルラウトの琥珀ゴールドの瞳が不穏に細まった。

相変わらず、東の塔の灯りは幻想的で美しい。天井の疑似天窓からは、極限まで削られた三日月の夜のような、深く冷たい青白の光が降り注いでいる。

だが、その儚い灯りが照らす薄暗い部屋で、最初にヴェルラウトを襲ってきたのは、リビングの異様な光景だった。

整然と並べられているはずの白磁の家具の周囲、そして連日彼が持ち込んだ宝飾品やドレスの山が、まるで室内で暴風が吹き荒れたかのように崩れ落ち、床一面に乱雑に散らばっていた。高価なカーペットはめくれ上がり、何かが引きずられたような跡が残っている。

 

(……なんだ、これは……?)


不審者の侵入などあり得ない。

初代魔王から続く、東の塔を外敵から守る絶対結界は完璧に機能しており、昼間に傷ついた箇所もヴェルラウトの魔力で完全に修復したはずだ。

胸を突く不吉な予感と波打つ動揺を抑え込み、ヴェルラウトは奥の寝室へと急いだ。

焦燥で胸が焼き尽くされそうなのに、眠っているはずの未亜を驚かせまいと、ドアノブを掴む手に余計な力を込めないよう慎重に回す。

そっと、音もなく扉を開いた。

 

「……っ!?」


寝室もまた、異常な惨状を晒していた。

白磁のドレッサーの引き出しは開け放たれ、棚の扉も無造作に開いている。


(体調が悪く、気が立って部屋を荒らしたのか……? )


必死に自分を納得させる理由を探しながら、ヴェルラウトは足音を殺して部屋の奥へ進む。

視線の先にあるのは、極上のシルクで覆われた巨大な天蓋付きベッド。彼女は必ず、このシルクのカーテンの向こうで、小さくなって眠っているはずだ。


(どうか、無事でいてくれ……)

 

祈るような心地で、未亜を起こさぬよう、そっと繊細なシルクの天蓋カーテンを手で繰り寄せ、押し開いた。

——開かれたカーテンの向こうにあったのは、美しく整えられたままの、誰もいない冷たいシーツだけだった。


「……ミア……?」


ぽつりと漏れた掠れた声が、無人の静寂に吸い込まれて消える。

誰もいない。どこにも、彼女の熱も気配も存在しない。

琥珀ゴールドの瞳が狼狽に大きく揺らぎ、縦に裂けた瞳孔がキュッと極限まで細まる。

そこにいるはずの愛しい存在が消えたという恐ろしい事実に、数百年以上もの間、力強く鼓動し続けてきた魔王の心臓がヒュッと凍える。


守るためにあてがった侍女たち、見張りの甲冑兵どもがいながら、なぜ彼女が消えている!?


次の瞬間——理性が、粉々に砕けた。

主を失った東の塔に、凄まじい咆哮が轟く。

怒りと恐怖。その二つが臨界点を越えた瞬間、ヴェルラウトの全身から漆黒の魔圧が爆発的に噴き出した。

地響きのような圧力が寝室を突き抜け、東の塔全体を揺らす。頑丈な壁面にメリメリと大きな亀裂が走り、天井の魔導大結晶が悲鳴を上げて軋んだ。部屋の灯りがチカチカと揺れる。

その激しい衝撃波と魔圧は、廊下で待機していた者たちをも容赦なく襲った。


扉の外で待機していた黒銀の甲冑兵たちが、耐えかねて大理石の床にガシャンッ!!と大きな音を立てて膝をついた。老執事のガルムすらも顔色を変え、黒檀の魔導杖を強く握りしめて激痛に耐えるように歯を食いしばる。


ヴェルラウトは、寝室の扉を弾け飛ばす勢いで飛び出すと、そのままリビングを大股で突っ切り、王妃の間の重厚な扉を激しく押し開いた。

その顔は死人のように蒼白だった。だが、琥珀ゴールドの瞳は縦に裂け、狂乱した獣のようにギラギラと凶暴な光を放っている。

あまりの威圧感に、ガルムの呼吸が止まる。


「……陛下!? 一体何が……」


問いかけるガルムに対し、ヴェルラウトの喉から地底の鳴動のような低く凄惨な殺気が漏れ出した。


「……ミアが、いない」

「な……!?」


ガルムの顔からも血の気が引いた。


「部屋が荒らされている。昼間の魔鳥だけではない……誰かが城内へ侵入した。ミアを連れ去ったのだ!」


未亜を幸せにするための豪華な城。未亜を美しく着飾るドレスや装飾品。この城は、魔界において最も安全な未亜の楽園であるはずだった。

彼にとって、この城は檻ではない。

愛する女を守るために築いた、世界で最も安全な場所だった。 

未亜が自ら逃げる——そんな可能性だけは、ヴェルラウトの思考の中に存在しなかった。

だからこそ、ヴェルラウトの怒りは頂点に達していた。ギリ、と強く握り締められた拳から黒い硬質な爪が皮膚を深く引き裂き、アッシュグレー色の肌から赤黒い血が床へぽたりと滴り落ちる。


「バ、バカな! あり得ませぬ! 東の塔の結界に異常はございません! 侵入警報も、一度たりとも発動しておりませぬ!」


ガルムが黒檀の杖を強く握り締めて、言葉を返す。

東の塔の結界は、魔界の初代魔王が張った強大な防衛魔法だ。さらにそこに、歴代魔王で最も強大な魔力を持っているとされるヴェルラウトが補強までしている。

そんな完璧な要塞から未亜を攫うなど、ありえないことだった。

非常事態に狼狽えているのは、ガルムも同じだった。

けれど実際、未亜は、東の塔の王妃の間から姿を消している。

ヴェルラウトの統べる魔界で、彼の理解できないことが起きているのだ。

 

「ではなぜいない!!」


天地を揺るがす雷鳴のような一喝。

ドッと放たれた魔圧の衝撃波に、老執事の巨体すらも宙を舞い、背後の壁へと激しく打ち付けられた。

魔王が寵愛している人間の娘が攫われてしまったという最悪の事態に、床に平伏していた甲冑兵たちは、自分たちの首が今にも飛ぶことを確信し、絶望に歯をガタガタと鳴らしている。

ヴェルラウトは狂乱と焦燥の混ざった瞳で、牙を剥き出しにしながら、城内に轟くような大声で命じた。


「全兵に通達しろ……! 城内、および城の全区画を即刻封鎖せよ!! 鼠一匹逃がすな! ミアに指一本でも触れた者がいれば……その魂ごと灰に変えてくれる……っ!!」

「は、ハハッ……直ちに!!」


壁に打ち付けられたガルムが慌てて立ち上がり、床に這いつくばっていた甲冑兵たちを押しのけるようにして走り出す。甲冑兵たちも半狂乱で立ち上がり、重い鎧を鳴らして廊下を駆け出していく。


城内中に緊急事態を告げる魔導の警笛が響き渡り、静寂に包まれていた魔王城が一瞬にして戦慄の渦へと叩き落とされた。

嵐のような狂乱の合図が駆け巡り、城内がパニックと怒号に包まれていく中——。

ヴェルラウトだけが、荒れ果てた『王妃の間』の入口に独り取り残されていた。

部屋の壁に力なく背中を預け、震える両手で自分の顔を深く覆う。

先ほどまで城中を震わせていた魔王の咆哮が、嘘のように消えていた。

 

「……ミア……」

 

掠れた声が、誰もいない部屋に落ちる。

 

(無事でいてくれ……頼む……っ)

 

激しい殺意の裏で、彼の心臓は感じたこともない恐怖に小さく震えていた。

奪われた。あの温かく眩しい、世界で唯一の光を。

もし彼女を失ったら——自分はこの世界すべてを滅ぼしてしまうかもしれない。

 

敵の姿すら見えない。

手がかりもない。

ただ、愛しい少女が自分の手の届かない場所にいるという事実だけが、ヴェルラウトの胸を締めつける。

 

魔王はただ闇の中で、まだ見ぬ敵への殺意と、愛しい少女の無事を祈る絶望に打ち震えていた。 



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