第5話 自由への扉
すり減りきった精神は麻痺し、感情の波すら失っていた。
どうやって時間をやり過ごしたのか、未亜には記憶がなかった。気がつけば、夜にもやって来るあのおぞましい湯浴みは終わりを告げていた。
締め付けの強いコルセットドレスは脱がされ、滑らかなシルクのネグリジェ——胸元に繊細なレースをあしらった、真珠色の柔らかな布地に包まれていた。
必要最小限の手際で未亜を整えた侍女のステラとネルは、東塔の下層にある私室へととっくに引き上げていた。
取り残された寝室には、恐ろしいほどの静寂だけが横たわっている。
天井の疑似天窓からは、極限まで削られた三日月の夜のような、深く冷たい青白い光が降り注いでいる。
絶望の底に落ち、心が完全に折れてしまった身体は、まるで魂を抜き取られた人形のように重い。
天蓋付きの豪華なベッドに身を投じる気力すら湧かず、未亜はベッドの足元、床一面に敷き詰められた毛足の長い純白のカーペットの上で、小さく膝を抱え込んで座り込んでいた。
連れて来られてから十三日目の夜。
もう、涙すら枯れ果てて出てこない。人間界でどんな暮らしをしていたのか、カフェの香りも、家族の笑顔すらも、この圧倒的な鳥籠の虚無に呑み込まれて霞んでいくようだった。
(私、ここで……死んでいくんだ……)
諦めと絶望が胸を麻痺させていた、その時だった。
ぼんやりと見つめていた視線の先、ベッドの下のわずかな隙間に、チラリと何かが青白い月光に反射して小さく光った。
本来の未亜は、好奇心に溢れ、思い立ったらすぐに行動する性格だった。止まっていた思考の奥底で、その本能が微かに揺らぐ。未亜は吸い寄せられるように、細い腕をすうっとベッドの下へと差し入れた。
指先に触れたのは、小さく冷たい金属の感触。
つまみ上げて手のひらに乗せ、目の前へと持ち上げた瞬間、未亜の息が止まった。
「……ぁ……」
それは、小さく可憐に揺れる一粒ダイヤモンドのピアスだった。
二十歳の誕生日、母親が「おめでとう、大人になったお祝いよ」と、あたたかな笑顔で贈ってくれた、世界で一番大切な宝物。
魔王ヴェルラウトに攫われたあの日。気を失わされ、目覚めた時にはすでにこの見知らぬ豪華なドレスに着替えさせられ、身に着けていたバッグも小物もすべて奪われていた。ピアスもてっきり没収されたのだと思い込んでいたが、このベッドへ乱暴に寝かされた際、偶然耳から抜け落ちて隙間に転がり込んだのかもしれなかった。
「……お母さん……」
震える指先で、未亜はその冷たい粒を強く握りしめた。
冷たい金属の感触が、優しかった母親の温もりと、失われた人間界での日常を鮮烈に引き戻す。
必死になって、未亜はもう一度ベッドの下を奥まで覗き込んだ。手を奥まで伸ばし、目を凝らす。
けれど、どこを探しても、もう片方は見つからなかった。
(片方……だけ……)
胸が押し潰されそうだった。
涙が一粒、手のひらのダイヤモンドの上に零れ落ちる。
もう二度と、あの優しい温もりのある家に帰ることはできない。自分はこの絢爛豪華な城で、恐ろしい魔王の気まぐれに弄ばれ、飼い殺されるだけなのだろう。
そして、最後に待つのは『死』のみ。あの魔鳥のように、もう用済みだとばかりに灰にされて消されるのだ。
けれど——それなら、せめて。
母親と自分を繋ぐ、世界でたったひとつのこの証だけは、死ぬその瞬間にも『心から愛された宝物の記憶』として、両耳に揃えて手元に残しておきたい。
強烈な飢餓感のような想いが、死んでいた未亜の胸を突き動かす。
その瞬間、未亜は考えるより先に立ち上がっていた。
握りしめた小さなダイヤを胸元に抱き締め、狂おしいほどの焦燥感に駆られて寝室中を探し回った。
白磁のドレッサーの引き出しを片端から開け、宝石箱をひっくり返し、豪華な金糸の刺繍が施されたソファの隙間に指を滑らせる。
けれど、見つからない。
寝室を飛び出し、広大なリビングへと向かった。
ヴェルラウトが持ち込んだ宝飾品やドレスが山のように積み上がる一角を、形もなく崩しながら床を這い回る。
白銀の大理石に膝を打ち付けても、痛みに気づく余裕すらなかった。
ここにもない。
ならば、着替えの最中に落としたのだろうか。
未亜はすがるような思いで、ダイニングの奥に佇むサロンエリアへと足を進めた。
王妃のプライベートなティータイムのために用意されたそのサロンには、上品なソファと小さなテーブル、ドレッサーが置かれている。
壁一面の書棚や、白磁のティーテーブルの周りを捜しながら、ふとドレッサーの前に立った。
握りしめていた思い出のピアスを、そっと自分の左耳に通す。冷たいダイヤが耳朶に触れた。ただそれだけで、遠く離れた場所にいる母親が、死にかけているこの心を支えてくれるような気がした。
ピアスをつけ終わると、どこかにあるはずのもう片方も必ず見つけ出そう、とサロンの隅々へ視線を走らせる。
そこで、未亜は、壁際に垂れ下がる重厚な金のドレープカーテンに目を留めた。
普段は気にも留めていなかった、空間を仕切る布。
すうっと引き寄せられるように近づき、震える手でその重いカーテンを押し開く。
「……あ……」
そこに隠されていたのは、アーチ状の小さな扉と、その奥へ続く優美な白銀の螺旋階段だった。
下へ向かって、ゆるやかに描かれる曲線。冷たい風が、階段の底からふわりと吹き上がってくる。
(どこに繋がってるんだろう……?)
この先に何があるのかわからない不気味さに足がすくむ。
けれど、どこを探しても見つからなかったもう片方のピアスが、この下にあるかもしれないというかすかな期待と、元来の好奇心が、静かに未亜の背中を押した。
未亜はネグリジェの裾を少し持ち上げ、静かにその白銀の階段を降りていった。
螺旋階段を降り切った先には、思わず息を飲むような光景が広がっていた。
そこは、王妃専用のドレスルームだった。
部屋全体が、まるでひとつの巨大な宝物庫のようだった。
整然と並ぶ無数のラックには、古今東西の最高級の生地で縫い上げられた豪華なドレスが、幾重にも並べられて咲き誇る花のように飾られている。見上げるほど高い天井まで届くクローゼットには、宝石を散りばめた靴やショールが無限のように連なっている。
(そうか……ステラたちは毎朝、ここからあのドレスを持ってきていたんだ……)
人間一人を閉じ込めるためだけに用意された、常軌を逸した贅沢の極み。
あまりのスケールに圧倒されながらも、未亜は吸い寄せられるように無数の衣装の間を彷徨い歩いた。
その最奥、部屋の中央に鎮座しているものが目に入り、未亜の足が止まる。
それは、高さが二メートル半を超える、大柄な魔族でも全身がすっぽり収まるほどの、巨大な楕円形の姿見だった。
白銀の鉱石で象られた枠には、繊細で美しい薔薇と蔓の彫刻が施されている。けれどその彫刻はどこか生々しく、見つめていると細い蔓がかすかに蠢いているかのような錯覚を覚えた。鏡面はあまりに深く澄み渡り、吸い込まれそうなほど透明な奥行きを湛えている。
未亜はその鏡の前に、吸い寄せられるように立った。
そこに映し出されていたのは、真珠色の繊細なシルクのネグリジェを纏った、惨めな一人の女だった。
毎日、朝と晩に欠かさず入れられる湯浴み。霊泉の温水と上質なケアのおかげか、肌は人間界にいた頃よりも透き通るように白く、滑らかになっている。
けれど、喉を通らない食事と、帰れない苦しみによってすっかり痩せ細り、頬はこけ、目元には深い陰りが落ちていた。
豪華で美しい衣装と、その中に閉じ込められたみすぼらしく惨めな自分。
あまりの落差に、胸の奥から吐き気が競り上がってきた。
「こんなの……私じゃない……」
ポツリと零れた声は、あまりにも寂しく部屋に響いた。
こんな偽物の美しさなんていらない。
未亜はすがるように周囲を見回した。
攫われたあの日に着ていた、人間界の服。あの使い古した、真っ白でゆったりとしたニットのセーターと、履き慣れたスキニージーンズ。私を私でいさせてくれた、あの服はどこかにあるのだろうか——。
そう強く願った、その瞬間だった。
鏡の奥深く、静かな水底のような青銀色の微光が揺らぎ始めた。
次の瞬間、鏡面全体が波紋を打つように激しく揺らめき、淡い菫色と白銀が混ざり合った幻想的な光が溢れ出したのだ。
「きゃっ……!?」
未亜は思わず息を呑み、一歩後ずさった。
鏡全体が眩い光に包まれ、ドレスルームを柔らかく照らし出した。
煌々と輝いていた光が数秒ほどで静まると、鏡面に映る景色が一変していた。
鏡の中に映っていたのは、ネグリジェ姿の自分ではなかった。
そこに映し出されていたのは、見たこともない古びた景色の映像だった。
どこかの古い倉庫のような場所。空気すら煤けて見えるような暗がりの中、埃をかぶったガラクタや未完成の調度品が無造作に積み上がっている。
煤けた工具が無造作に積み上げられたその一角、古びた木箱の上に——それは打ち捨てられていた。
「あっ……! 私の……服……っ」
それは、未亜が探していた、あの白いセーターとジーンズだった。
なぜこんなところに。疑問よりも先に、愛おしさが胸を突いた。
未亜は吸い寄せられるように手を伸ばす。指先がガラスに触れた瞬間——カチャリ、と重厚な鎖が外れるような硬質で静かな音が響いた。
触れた鏡面が、まるで静かな水面のようにトロリと波打ち、固形から透き通った空間へと変わっていく。ひんやりとしたガラスの感触を予想していた指先は、まるで冷たい水膜を破るように、すうっと鏡の奥へと吸い込まれていく。
「え……?」
目の前の景色と手応えに、未亜の瞳が大きく見開かれる。
鏡が、向こうの部屋と「繋がって」いるのだ。
理由を考える余裕などない。躊躇いもなかった。
未亜はネグリジェの裾を強く握りしめると、そのまま意を決して、その冷たい光の膜をくぐり抜けた。
足の裏に伝わったのは、寝室のふかふかのカーペットでも、磨き上げられた大理石でもない。
ザラついた、冷たく埃っぽい床の感触だった。
鼻を突くのは、カビと錆びついた金属の匂い。
突如現れた「魔法の道」を抜けた先は、長年使われていないらしい古い倉庫のようだった。捨てられた資材が乱雑に転がり、冷たい廃墟のような空気が漂っている。
足元には破棄された資材や瓦礫が散らばり、空気は冷たく重い。
未亜は無我夢中で駆け寄り、箱の上に放置されていたニットとデニムを抱きしめた。馴染んだ布地の肌触りと、かすかに残る自分自身の匂い。抱きしめた腕に力を込めると、背後で再び、——カチャリ、と重厚な鍵が施錠されるような静かな音が響いた。
驚いて振り返ると、今しがた潜り抜けてきたはずの空間の穴は消え去り、そこにはただの黒ずんだ古い壁が立っているだけだった。それと同時に、東の塔から届いていたはずの天窓の光も途絶え、倉庫内は完全な暗闇へと沈んだ。
闇の恐怖に肩を震わせながらも、未亜は迷うことなく高価なネグリジェを脱ぎ捨てた。
冷え切った空気の中で、慣れ親しんだニットに袖を通す。頭から被り、スキニージーンズに脚を通し、ボタンを留める。
その瞬間、生きている心地が全身に蘇った。
完璧なドレスを着ていた時よりもずっと、自分が「自分」に戻れた気がした。
もう一度、「繋がって」いたはずの壁に触れてみたが、冷たい石の感触があるだけで、二度と光る気配はなかった。
けれど、未亜に失望はなかった。
あの煌びやかで逃げ場のない「王妃の間」へ戻りたいなどとは、微塵も思わなかったからだ。
「どこか……出口は……」
未亜は覚悟を決め、真っ暗な倉庫の中で壁に手を当て、暗闇を手探りで歩き始めた。
すり足で少し進む。ステラとネルが毎日時間をかけて磨き上げた裸足の足裏を、埃や砂がざらざらと撫でた。
ガサリと足元で何かが崩れる音に心臓を跳ねさせながらも、必死に指先を動かした。
やがて、手のひらに冷たい金属の感触が触れた。
ドアノブだ。
出られる——そう思った瞬間、不安が頭をよぎる。
この扉の向こうに、また、恐ろしい異形がいたなら。王妃の間からいなくなったことに気づいた魔王ヴェルラウトが、怒り心頭で仁王立ちして扉の前に立っていたら。いや、あの鏡の不思議な力自体が、罠だったのではないか。
こわい。
それでも、未亜は祈るような心地でそれを掴み、ゆっくりと回した。
重く古びた木製の扉が、軋んだ音を立てて外側へ開いていく。
押し寄せたのは、冷え切った夜風の匂いだった。
「……っ!」
目を見開いた未亜の視界に飛び込んできたのは、豪奢な廊下でも、白銀の要塞でもなかった。
うっそうと茂る樹木たちの黒い影。どこか遠くで響く、不気味な水のせせらぎ。
見上げれば、そこには白銀の塔の天窓などではなく、魔界特有の濃い紫色の夜空が、どこまでも無限に広がっていた。
「そ……と……? 外に……出られた、の……?」
呆然とした呟きが、夜風に消えていく。
一生あの白銀の要塞に閉じ込められ、魔王の玩具として生殺しにされるのだと諦めていた。
だが、未亜の目の前には今、自由へと続く果てしない夜の闇が開かれていた。




