第9話 命を奪う愛
逞しい腕に強く抱き寄せられた未亜の視界を占めていたのは、怒りではなく、焦燥と激しい困惑に揺れるヴェルラウトの琥珀色の瞳だった。
その背後、土煙が舞う闇の奥で、血のように真っ赤な六つの瞳が揺らめき、ゆらゆらと不気味に迫りつつあった。
全長五メートルにも及ぶ漆黒の巨躯は、直前にヴェルラウトが叩き込んだ衝撃波によってあちこちから赤黒い血を撒き散らしている。
未亜が恐怖で悲鳴を上げるよりも早く、異変を察知したヴェルラウトが未亜を庇うように立ち塞がった。
彼が振り向ざま、無造作に右手をかざせば、前髪を大きく揺らす凄まじい衝撃波が解き放たれる。
ズドォォォォン……ッ!!
空気を切り裂く不可視の魔圧が、地鳴りを立てて暴魔熊を叩きのめす。
数トンにも及ぶ巨体が虚しく空を舞い、重厚な鉄格子の瓦礫を巻き込んで再び地面へ激しく叩きつけられた。
「グゥ……オォ……ッ!」
二度目の打撃で骨が砕けたのか、暴魔熊は立ち上がろうとするたびに、己の重さに耐えかねて地表へ崩れ落ちる。
だが、その魔獣は諦めなかった。
ぐったりと地面に横たわりながら、血の混ざった息を荒く吐き出し、六つの真っ赤な瞳だけが、ヴェルラウトの背後に隠れた未亜の姿を捉えて離さない。
ヴェルラウトは殺意を宿した瞳で暴魔熊を睨みつける。暴魔熊に向けた掌に、死を象徴する漆黒の魔力が集束していく。
その命の危機を察したのか、倒れ伏した暴魔熊の口から「ヒィ……ン……」と、巨体にはあまりにも不釣り合いな、か細い悲鳴のような鳴き声が漏れた。
真っ赤に濁っていた瞳が、痛みと恐怖に激しく揺れている。
助けて——苦しい、助けて——。
言葉にならない悲痛な叫びが、未亜の胸の奥を鋭く刺した。
その瞬間——未亜の脳裏を、昼間の恐ろしい光景が鮮烈に駆け抜けた。
『王妃の間』の窓ガラスを突き破ってきた、あの巨大な純白の魔鳥。
あの鳥もまた、救いを求めるような瞳で自分を見つめていた。
けれどヴェルラウトが放った圧倒的な魔力によって、断末魔すら上げる暇もなく、サラサラとした漆黒の灰へと姿を変え、吹き込む風に乗って虚しく散っていったのだ。初めからこの世に存在すらしなかったかのように消えた、あの哀れな命。
(あの時と……おんなじ……っ!)
目の前で、助けを求める命が、あんなふうに灰にされて消えてしまう——!
その記憶が、未亜の身体を突き動かした。
「やめて……っ!!」
頭で考えるよりも先に、声が口から飛び出していた。
未亜はガタガタと震える脚を死に物狂いで動かし、転がるように立ち上がった。
驚愕に目を見開くヴェルラウトの横を擦り抜け、暴魔熊の元へと走り出した。
「ミア……!? 止めろ、何をしているッ!?」
背後でヴェルラウトの焦燥しきった叫びが上がる。
だが未亜は止まらなかった。恐ろしい怪物へ向かって一直線に走り込み、その巨体とヴェルラウトの間に、身体を投げ出すようにして立ち塞がったのだ。
両腕を広げ、荒い息を吐きながら魔王を睨みつける。
「……ッ!? ミア、何を……っ! 危険だ、そこを離れろ!!」
ヴェルラウトの顔から血の気が引き、取り乱した叫びが夜空に響く。
普段の冷酷な絶対君主の面影はどこにもない。
未亜は震える唇を固く噛み締め、涙で濡れた瞳で魔王を真っ向から見返した。
「殺さないで……! お願い、殺さないって約束して……っ!」
「……何だ、と……?」
ヴェルラウトの琥珀色の瞳が、信じられないものを見たように大きく揺れた。縦に細まっていた瞳孔が混乱に開き、固まったように動きを止める。
「な……ッ、何を言っている!? そいつはお前を殺そうとしていたんだぞッ!!」
「でも、あなたが助けてくれたから、私は生きてます……! でも、この子は……この子は死にそうなの……っ!」
「当然だ!! お前を傷つけようとしたのだぞ!? 死をもって償うことすら生ぬるい!!」
噛み合わない。
二人の想いは、決定的にすれ違っていた。
ヴェルラウトにとっての世界の全ては『未亜の安全』であり、彼女を脅かすものは惨殺すべき敵だった。
けれど未亜にとっては違う。
目の前で失われようとしているのは、踏みにじられてもいい命ではない。この世にただひとつしかない、かけがえのない命なのだ。
未亜を生かすためなら世界をも滅ぼす魔王の苛烈な愛と、目の前で失われかける命を放っておけない未亜の必死の情愛が、深い断絶となって暗闇に激突する。
「ミア……! 待て、戻れッ!!」
制止する声を無視し、未亜は足元をふらつかせながら、地表に横たわる暴魔熊へと歩み寄った。
さっきまで必死に立ち上がろうとしていた暴魔熊は、すでにその気力すら失ったのか、地面にぐったりとうつ伏せていた。
立ち上がれば五メートルを超える異形の怪物。硬質な骨が突き出た漆黒の皮膚、鋭い牙が何本も覗く裂けた口。
怖くないはずがなかった。
指先が強張り、体中の血が凍りつく感覚に襲われる。
それでも未亜は、血に濡れた砂利の上で、躊躇なく膝をついた。
泥と血に塗れた地面に跪き、呼吸を乱す怪物の顔を覗き込む。
六つの真っ赤な瞳は、もはや光を失いかけて虚ろに揺れていた。
太い丸太のような前脚の付け根から、ドクドクと赤黒い生血が溢れ出し、漆黒の毛並みを湿らせている。
(血が……、止まらない……っ)
未亜は迷うことなく、着ていたあの真っ白なセーターの裾を掴んだ。
寒風が肌を叩くなか、セーターを頭から脱ぎ捨てる。キャミソール一枚になり、冷たい夜風に晒された肩が大きく震えた。
「……ッ!? なにをやっている……っ!! 退くんだ、ミア!!」
後ろでヴェルラウトが息を呑み、正気を疑うように怒号を上げる。
「嫌です……っ!」
未亜は短い拒絶だけを乱暴に吐き、脱いだセーターの布地に爪を立てる。
魔王の城から逃げている途中で蔦の棘で怪我をした掌の傷には血が滲み、今もまだ痛みが残っていた。けれど、未亜はなりふり構わず、力任せにセーターを引き裂き始めた。
そして、止血のために、暴魔熊の傷ついた前脚へと力一杯巻き付けていく。
「グゥ……ッ……!」
傷口を強く締め上げられた激痛からか、暴魔熊が低く唸りを上げた。
「ヒッ……!」
未亜の口から小さな悲鳴が漏れる。
ビクッと身体を強張らせたものの、縛る手だけは絶対に止めなかった。
血で真っ赤に染まっていく大切なセーターの布切れ。両手で必死に結び目を作り、硬く、硬く縛り上げる。
「やめろ……頼むから、俺の言うことを聞いてくれ……ッ!!」
いつもなら冷酷無比な魔王が、未亜の無茶な行動に狂わされ、情けなく声を裏返させて懇願している。
けれど、未亜は頑なに彼を見ようとはしなかった。
「じっとして……おとなしくするの……」
恐怖で、未亜の声は震えていた。
「そうすれば……誰も、あなたを殺さないから……っ」
それでも未亜は、血に濡れたセーターの上から、うつ伏せる怪物の大きな肩を優しく、包み込むように撫でた。
「グゥ……ゥ……」
それが、言葉を理解した肯定だったのかは分からない。けれど確かに、未亜の手の温もりに応えるように、暴魔熊は短く鼻を鳴らした。
その温もりに身を委ねるように、荒かった息が静まっていく。
背後で、ヴェルラウトが再び息を飲む気配がした。
未亜の温もりに緩みかけていた六つの瞳が、ヴェルラウトを捉えた。その瞬間、暴魔熊の瞳に、カッと禍々しい光が戻ってしまった。
「ガアアアアアアアアアアアッ!!!!」
突如として、死に体だったはずの巨躯が咆哮とともに跳ね起きた。
その激しい動きに耐えきれず、尻もちをついた未亜は、驚愕に目を見開き、巨大な怪物を見上げる。
未亜のセーターが巻き付けられた太い前脚が、まるで死に際の暴走を起こしたかのように跳ね上がる。そしてそれは無情にも、未亜へと勢いよく振り下されようとしていた。
「あっ……!?」
未亜の顔から血の気が引き、悲鳴すら凍りつく。
目の前を覆い尽くす、刃物のような黒い爪。死が、数センチの距離まで迫った——。
次の瞬間。
視界が不自然に歪み、強い衝撃とともに身体が横抱きにさらわれた。
疾風のような速度で滑り込んできた漆黒の影。
気づいた時には、未亜はヴェルラウトの分厚い胸の中に強く、強く抱きしめられていた。
ドォン……ッ!!
未亜をその身で覆い隠したヴェルラウトの背中に、重厚な衝撃が叩きつけられた。
「グッ……ぁ……ッ」
未亜の耳元で、聞いたこともないヴェルラウトの低く苦しげな呻き声が漏れる。
背中に回された逞しい腕。その大きな掌越しに伝わる体温が、一瞬だけ酷く跳ね上がった気がした。
けれど——恐怖で混乱していた未亜には、その意味を考える余裕などない。
無意識に閉じていた目を開けた、その一瞬のことだった。
ヴェルラウトは彼女を腕の中に抱いたまま素早く反転した。
その琥珀色の瞳が冷酷な殺意でギラリと光る。
「……消えろ」
ヴェルラウトが、空間を滑らせるように右手の手刀を水平に振るった。
夜の闇を切り裂いたのは、音すら置き去りにする漆黒の光の刃だった。
風を孕み、大気そのものを切り裂く巨大な魔力の断空波。
ズガァンッ……!!
圧倒的な威力を孕んだ漆黒の刃が、暴魔熊を一直線に真横に横断する。背後の鉄格子と石壁までをも一刀両断にする凄絶な斬撃だった。
静寂が訪れた。
未亜の目の前で、さっきまで暴れていた暴魔熊の巨体が、腹のあたりから上下二つに分かれて滑り落ち、砂利の上へと崩れ落ちた。
さっきまで未亜が命を救おうと必死にセーターを巻きつけていた腕が、虚しく砂利の上に転がる。
「あっ……ああ……っ」
言葉にならぬ声が未亜の喉から漏れた。
ヴェルラウトの腕から抜け出すようにして地面へ倒れ込み、未亜は血の海の中へ駆け寄った。
真っ黒の空を仰ぐようにして、上下に引き裂かれた巨体が転がっている。
屈強で凄まじい生命力を持つ特級危険魔獣ゆえなのか、胴体を切断されてなお、暴魔熊はまだかすかに息があった。
それが、あまりにも残酷だった。
「グ……ァ……ッ……」
暴魔熊は苦痛に狂いそうな掠れ声を漏らし、体を痙攣させていた。
駆け寄り、その傍らで膝をついた未亜を、暴魔熊の六つの赤瞳が見上げる。
殺意も、狂気も、もうそこにはなかった。
ただ、耐えがたい激痛と、命が消えていく恐怖。
未亜が見つめる目の前で、真っ赤に滾っていた六つの瞳のうち、特に大きなひとつから、ハラリと大粒の涙が零れ落ちた。
涙は未亜の足元の、煤汚れた地面へと落ち、小さく染みを作った。
それが、彼の最期だった。
暴魔熊の六つの瞳から光が失われ、巨体がビクンと大きく震えて、完全に動かなくなった。
冷たい夜風が、セーターを失った未亜の剥き出しの肩を容赦なく叩いていく。
血の海の中にへたり込んだまま、未亜はただ呆然と、冷たくなっていく悲しい怪物の遺体を見つめ続けていた。




