第10話 魔王の腕に抱かれて
血と泥の臭気が淀む暗闇の中、息絶えた暴魔熊の無惨な冷たさだけが、未亜の手のひらに残されていた。
撫で続けていた毛並みから、命の温もりが完全に失われていく。その残酷な現実を受け止めきれずにいた未亜の耳に、静かに近づいてくる足音が届いた。
湿った砂利を重厚な革ブーツで踏みしめる足音。重く、冷たく、周囲の空気を圧迫する圧倒的な存在感。
振り返るまでもなく、それが魔王——ヴェルラウトなのだと未亜には分かった。
「どうして……殺さなきゃいけなかったんですか……っ」
ヴェルラウトがすぐ背後に立つよりも早く、振り返りもしない未亜の口から、責め立てる言葉が絞り出された。
背後で、魔王が不意を突かれたように息を呑む気配がする。
だが、直後に落ちてきた声音は、どこまでも低く静かな、そして当然だと言わんばかりのものだった。
「言ったはずだ。お前を害しようとする者は、この世の何であれ存在を許さん。……お前の髪一本分であっても、俺のすべてを賭して護る」
重苦しいほどの情熱と、狂気すら孕んだ愛。
本当は、ちゃんと分かっていた。あの時、暴魔熊は間違いなく正気を失い、未亜を殺そうとしていた。
ヴェルラウトがその身を呈して守ってくれていなければ、今ここで動かない冷たい塊となっていたのは自分だったのだと。
助けられたのだ。彼に命を救われた。
頭では理解しているのに、それでも——救いを求めるように悲痛に瞳を揺らし、最期に一滴の涙をこぼして息絶えた一つの命を、「仕方なかった」と割り切ることなんて、どうしてもできなかった。
「……っ、でも……っ、殺さなくたって……っ」
虚しい綺麗事だと自覚しながらも必死に言葉を紡ごうとした未亜の、キャミソール一枚になった剥き出しの華奢な肩に、そっとあたたかく重い布地が乗せられた。
「……っ!」
ビクッと肩を跳ねさせ、未亜は思わず振り返る。
自分を覆っていたのは、ヴェルラウトが纏っていた暗灰色の重厚なガウンだった。
見上げれば、そこには冷酷な絶対君主の面影はどこにもなかった。
自分からガウンを脱ぎ捨てたヴェルラウトが、アッシュグレーの素肌を夜気に晒したまま、ただ未亜を痛々しいほど愛おしみ、壊れ物を扱うように心配そうに見つめている。
「城へ戻る。お前の手当が先だ」
さっきまで一滴の慈悲もなく巨体を切り裂いた男とは思えないほど、未亜に添えられた大きな手のひらは繊細で、優しかった。
その言葉で初めて、未亜は自分の足元へ目をやった。
私服のスキニージーンズの裾から覗く素足の裏は、黒樹林の棘や瓦礫で傷つき、血と泥で濡れて酷い有り様になっていた。あまりの恐怖と緊張に、痛みすら麻痺していたようだ。
気付いた途端に、ジンジンとした激痛が肌を駆け上がってくる。
思わず顔を顰めた未亜を横抱きに抱え上げようと、彼の太い腕がすうっと伸びてきた。
「……待って……っ」
掠れた声で制止した。ヴェルラウトの手が、ピタリと途中で止まる。
未亜はゆっくりと身体を折り、もう一度、暴魔熊の死に顔へと向き直った。
半開きになった口からは鋭利な牙が覗き、六つの赤い瞳は、魔界の禍々しい紫黒の夜空を空虚に見上げている。
ふと仰ぎ見れば、雲の切れ間から青白い光を落としているのは、太陽の輝きどころか、満月すら知らない魔界の空にぽつりと浮かぶ、冷たく細い「三日月」だけだった。
未亜は小さく膝をつき、その恐ろしい怪物の瞳にそっと温かな掌を重ね、ゆっくりと瞼を閉じさせた。
その時だった。
血と泥に汚れた漆黒の毛並みの中、怪物の額の真ん中に、ぽつりと浮かび上がる『白銀の模様』が未亜の指先に触れた。
泥を擦り落とせば、そこに現れたのは、まるで夜空に浮かぶ月をそのまま写し取ったかのような、美しくも儚い三日月の形をした白い斑紋だった。命を散らした巨躯の中で、そこだけがまるで星屑を集めたように美しく儚い輝きを宿している。
指先に伝わるのは、刺々しいはずの毛並みのなかに残された、かすかな柔らかさ。
(……こんな、きれいな月模様があったんだ……)
天を見上げる冷たい三日月と、怪物の額に刻まれた小さな三日月。ふたつの月が重なった気がして、未亜の胸の奥が切なく締め付けられた。
未亜はその白銀の三日月の上にそっと掌を重ね、瞳を閉じた。
「……どうか……」
未亜は祈るように呟いた。
——次に生まれてくるときは、その命を慈しみ、大切にしてくれる誰かとばかり出会えますように。
冷たい三日月の光が、未亜の手元と魔獣の額を静かに照らし出す。
その祈りが、届くのかなんて分からない。
それでも未亜は、今夜失われた命に、そしてその額に刻まれた小さな三日月に、心からの祈りを捧げずにはいられなかった。
未亜が静かに目を開けると、待っていたかのようにヴェルラウトの逞しい腕が未亜の身体を包み込んだ。
肩に掛けられたガウンごと、こぼれ落ちないように強く抱き上げられる。
「あ……」
抱きすくめられた瞬間、未亜の身体がこわばった。
ガウンを預けたことで、ヴェルラウトは分厚い胸板とアッシュグレーの皮膚を剥き出しにした上半身裸の姿だった。
王に護られる姫のように横抱きにされた未亜の身体に、魔族特有の熱を帯びた高い体温が容赦なく伝わってくる。
だが、今の未亜の頭の中を占めていたのは、目の前で失われた暴魔熊の死と、額に残されたあの切ない三日月の印、そして逃亡が完全に失敗してしまったという絶望的な事実だけだった。
異形の男のむき出しの肉体や、自分を包み込む体温すらも、ただ「自分を縛りつける逃れられない檻」の象徴としてしか視界に入らない。
自分の胸元で未亜が青ざめて固まっていることなど気づく様子もなく、ヴェルラウトは一切の迷いのない足取りで、東の塔へ向けて歩み出した。
逃げ出そうとして一人で彷徨った、手つかずの黒い原生林。
途中、城壁の前で微動だにせず佇む警備魔獣『ガーゴイル・ハウンド』の脇を通り過ぎる。抱えられた未亜が一瞬視線を送ると、鬼犬はチラリとこちらを見たものの、先ほどのように甘えた声を出すことも、尾を振ることもなかった。ただ忠実に、魔王の威圧に伏するように静かに前を見据えている。
その一瞬の静寂が、魔王の腕の中で、自分が辿ってきた道をただ引き返しているという事実を突きつけ、未亜の胸を惨めに締めつける。
人間界に帰れるかもしれない——そんな淡い期待を抱いてしまった自分の足掻きは、あまりにも愚かなことに思えた。
ヴェルラウトは逃げ出した未亜を責めるような言葉を一切口にしなかった。ただ深く重い足音だけが、不気味な夜闇に響いていく。
未亜もまた、自分の存在そのものを消し去りたいと願うように、浅い息すら潜め、固く口を閉ざし続けた。
やがて、白銀に輝く東の塔の門が見えてきた。
そこでは、未亜の捜索に追われていた甲冑兵たちが、上半身裸で異様な威圧感を放つ魔王の帰還に驚愕の声を上げ、慌てて最敬礼を捧げていた。
さらにその奥から、足音を乱して駆け寄ってくる人影があった。侍女のステラとネルだ。
二人とも夜着のまま、髪を乱し、顔をぐちゃぐちゃにして崩れ落ちるように膝をつく。
「ミ、ミア様……! ご無事で……っ! お命があって……ああ、良かった……っ!」
「よがっだぁぁああ……っ! 僕、もうお仕置きで首を撥ねられるかと……っ!!」
泣き叫ぶような安堵の声。
けれど、未亜には分かっていた。二人が胸を撫で下ろしているのは、未亜という人間を心から案じているからではない。自分という「魔王のお気に入り」を死なせたり、見失ったりすれば、その瞬間に自らの命も危ういからだ。
安堵の底にあるのは、未亜への情ではなく、己の身を守れたことへの安堵。それが分かってしまうことが、酷く虚しかった。
「無能どもが。……今すぐに『王妃の間』へアスクレスを連れてこい。遅れれば生かしてはおかん」
ヴェルラウトの喉から絞り出されたのは、二人を氷漬けにするような冷酷な殺気だった。
「ひっ……! た、ただちに!!」
ステラとネルは血の気を完全に失い、弾かれたように回廊の奥へと走っていった。
ヴェルラウトは未亜を抱いたまま、東の塔の優美な螺旋階段を上がり、6階の『王妃の間』へと足を進める。
そのフロアの入り口で、青い魔導の光を纏った一人の老兵が待ち構えていた。
索敵魔術の光を消し、白髪をなびかせて恭しく一礼したのは、老執事長ガルムだった。その灰色の瞳には、隠しきれない冷ややかな不満が宿っている。
「お戯れも大概にしていただけますかな、お嬢様。無事に見つかり、我が君のお手を煩わせずに済んだことだけは、何よりでございます」
恭しく頭を下げながらも、その灰色の瞳には、人間の小娘に振り回される現状への不快感が滲んでいた。
ヴェルラウトはガルムを激しい不快感とともに睨みつけると、冷たく言い放った。
「……ミアが怪我をしている。これより王妃の間で手当てを行う。余計な邪魔は立てるな」
ガルムの返答を待つことなく、ヴェルラウトは重厚な白銀の扉を蹴るようにして開け、未亜を抱えたまま、静まり返った部屋の深奥へと姿を消した。
※今日は、1日2話更新でお届けします。
次回は本日20:10頃に更新予定です。
引き続きお楽しみいただけましたら嬉しいです。




