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第11話 魔王が案じる、小さな傷

重厚な白銀の扉を押し開け、足を踏み入れた『王妃の間』は、未亜が姿を消す前よりもはるかに荒れ果てていた。

未亜自身が大切なピアスを必死に探し求めた痕跡に加え、主を失って青ざめた侍女たちが、文字通り部屋をひっくり返す勢いで捜索した跡までが残っている。散らばった調度品や崩れた装飾の合間を縫い、ヴェルラウトは腕の中の小さな身体を、純白の革製ソファの上へとそっとおろした。

未亜を包んでいるのは、彼から羽織らされた重厚なガウンだけだった。

その肩口から、セーターを脱ぎ捨てたキャミソール一枚の素肌が無防備に覗いている。

いつもは豪奢なドレスに隠されている、華奢な鎖骨や柔らかな胸元の線、透き通るような肌。

 

ふと、ヴェルラウトの動きが止まった。

未亜は怪訝に彼を見上げる。

先ほどまであれほど迷いなく傷を確かめていた手が、なぜか宙で止まっていた。

その琥珀色の瞳が、一瞬だけ自分から逸らされる。


「……そのままでは、駄目だ」


低い声が、妙に硬かった。

琥珀ゴールドの瞳がほんのわずかに揺らぎ、彼はどこか不器用に、けれど急ぐように未亜の腕をガウンの袖へと通した。


「……後で侍女に着替えを用意させる。それまでは……これで我慢しろ」

 

ヴェルラウトは、なぜか未亜と目を合わせようとはしなかった。

未亜の視線から逃げるように、ひたすら自分の手元をじっと見たまま、羽織らせたガウンの前を深く合わせた。太い帯を、必要以上にきゅっと固く結び直す。

未亜の小柄な体躯では、ヴェルラウトのガウンは手先も足先もすっぽりと覆い尽くしてしまうほど大きく、魔族特有の、微熱を帯びたような高い体温が胸いっぱいに広がる。


ガウンを結び終えても、ヴェルラウトはソファには座らなかった。

磨き上げられた床に直に膝を立て、未亜の前に低く跪く。そして、まるで世界で最も脆いガラス細工に触れるかのような手つきで、血と泥に塗れた未亜の足元へと、痛々しげに手を伸ばした。


「痛むだろう……。すぐに城で最も腕の立つ者に手当てをさせる。それまで……頼むから辛抱してくれ」


絶対君主の面影など微塵もない、切迫した焦燥。

少し離れた壁際では、追いついてきた老執事長ガルムが、下等な人間の女に膝を折り、甲斐甲斐しく尽くす我が君の姿を苦々しげに見つめていた。白く濁った灰色の瞳にどす黒い不快感を宿し、固く握りしめた黒檀の杖に力を込めている。


未亜は、何も言えなかった。

ただ静かに唇を噛み締め、膝の上のブカブカな袖口を見つめて目を伏せる。

これほど激しく拒絶し、逃げ出そうとしたのに、結局はこうして魔王の膝元で守られることしかできない自分が、酷く惨めで、悔しかった。


返事のない未亜の沈黙を、ヴェルラウトは気にする様子もなかった。

それ以上を求めることもなく、問いかけを続ける。


「……他に、痛むところはないか?」


ヴェルラウトはさらに前傾姿勢になり、未亜の顔を覗き込んだ。

琥珀色の瞳が揺れ、大きな掌が未亜の冷え切った頬や首筋、細い腕を、確かめるように優しく撫で上げていく。

そして——右手の甲を包み込んだ瞬間、ヴェルラウトの動きが完全に止まった。

黒樹林の棘のある蔓で切り裂かれた、生々しい浅い傷痕。未亜自身すら忘れていた小さな傷を見つけた途端、彼の眉間が痛々しく激しく歪んだ。


「これは……ッ」


ヴェルラウトから、怒りと自責が混ざり合った低い呻きが漏れた、その時だった。

重厚な扉が小さく叩かれ、返事を待たずに弾かれたように開いた。

ステラとネルがなだれ込んでくる。顔を青ざめさせた侍女たちの後ろから、すうっと音もなく姿を現したのは、白衣を纏った線の細い男だった。


「わざわざ……宮廷魔導医長のアスクレスまで呼び出されおったのか」


ガルムが呆れと深い苛立ちを隠そうともせず、苦々しく吐き捨てる。

ステラとネルの後ろから優雅に現れた宮廷魔導医——アスクレスは、驚くほど整った容姿をしている男だった。

背中まで届く銀髪を無造作に結い、銀縁眼鏡の奥に冷たいエメラルドグリーンの瞳を覗かせている。黒いシャツに白衣を羽織った姿は、一見すると人間の医師そのものだった。

けれど未亜は、彼が部屋を踏みしめた瞬間、その首元から肩にかけてショールのように巻き付いている「それ」を目にして、息を呑んだ。

それは、意思を持つようにうねる、二匹の小さな白銀の蛇だった。


「ヒッ……!」


未亜の手先が跳ね、小さく引きつった悲鳴が漏れる。

直後、未亜の怯えを察したヴェルラウトが、素早くその頭を大きな手で包み込み、引き寄せるように優しく撫でた。


「大丈夫だ……。怯える必要はない」


ヴェルラウトの静かな低い声とは対照的に、部屋の中央へ歩み出てきたアスクレスは、緊迫した空気をどこ吹く風とあしらうような、飄々とした笑みを浮かべていた。意気揚々と抱え込んできた高級な革鞄には、最高級の再生ポーションや、滅多に使われない外科道具が詰め込まれている。


「して……陛下。その『大脅威』なる患者はどちらで? 侍女どもが処刑を恐れて半狂乱で私を叩き起こすものですから、てっきり前線の将軍が腕でも吹き飛ばされたのかと期待して参りましたが」


偏屈で軽妙な、けれど徹底して空気を読まない声音だった。


「……ミアだ。足の裏と右手に、酷い大怪我をしている」


ヴェルラウトは一切冗談ではない真剣な面持ちで言い放つと、立ち上がり、未亜の隣へと座り直した。未亜の肩を引き寄せ、守るようにその身を寄せる。


アスクレスの視線が、ソファに収まる未亜へと向けられた。

彼は、床にすっと膝をつき、未亜の目の前へと跪く。

そして、迷いなく未亜の右手——蔓で切れた小さな傷跡へ指先を滑らせた。


その瞬間。


「……ん?」


アスクレスの顔から軽薄な笑みが消えた。そして、ほんの僅かな変化だったが、何かに気づいたように小さく瞳が見開かれた。

未亜の肌に触れた指先から、探るような強い視線が未亜の顔へと向けられる。じっと吸い付けられるように自分を観察してくる魔導医の反応に、未亜は身を縮こませた。


「……あ、の……何か……?」

「……ふむ。あぁ……なるほど、そうか」


未亜の不安そうな問いかけに、強張っていたアスクレスの身体からスッと力が抜けた。

代わりに、彼の薄い唇が、愉悦と興味に満ちた形で歪んでいく。


「君か。我が絶対の陛下が、なりふり構わず夢中になっているという人間の娘は。……道理で。なかなか、面白い生気を纏っている」


クスクスと喉を鳴らすアスクレス。

その言葉と視線が気に入らなかったヴェルラウトが、眉間を激しく寄せ、氷を噛み砕くような冷酷な声を放った。


「……無駄口を叩くな。治療以外でミアを見ることも許さん。速やかに手当てを行え」


部屋を圧迫するほどの嫉妬と独占欲に、アスクレスは呆れたように片眉を上げると、意地悪く口元を緩めた。


「はいはい、仰せのままに……『偉大なる魔王陛下』」


ヴェルラウトの殺気を軽く受け流すと、アスクレスは今度こそ未亜の右手に視線を落とした。

綺麗に整えられた白銀の眉が、ピクリと上がる。

続いて、ガウンの裾から覗く未亜の両足の裏——泥と小さな切り傷がついた足先を検分する。さっきよりもさらに高く、眉が上がった。


「…………は?」


静寂が室内を支配した。

数秒のフリーズの後、アスクレスはゆっくりと顔を上げ、引き気味の視線をヴェルラウトへ向けた。


「陛下……。まさか、本当に『これ』のために私を召喚されたのですか……? 熟睡していた私を、あの哀れな侍女たちに叩き起こさせてまで?」

「なんだその口ぶりは。早く治せ」


本気の殺気を孕んだヴェルラウトの瞳孔が細まるのを見て、アスクレスは「やれやれ」と大げさに肩をすくめた。


「まったく……。天下の宮廷魔導医長を何だと思っていらっしゃるのやら」


毒づきながらも、アスクレスの手際は流石というほか無かった。

革鞄から小さく輝くガラス瓶を取り出し、ひんやりとした透明な液体を綿布に含ませる。

 

「少し冷たくなりますよ、お嬢さん」


アスクレスが手際よく未亜の足裏の泥や苔を優しく拭い去り、洗練された動作で消毒を進めていく。

冷たい感触に未亜が小さく身を寄せるたび、隣に座るヴェルラウトの身体が強張った。そのたびに、彼は未亜の肩を優しく抱き締め直すのだった。


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