第12話 魔王の痛みに気づいて
純白の大きなソファ。未亜のすぐ隣には、彼から羽織らされたガウンに包まれた小さな身体を護るように、長い腕を伸ばし、重厚な身体を寄せたヴェルラウトが座っていた。
ソファの深みに埋もれる未亜の足元で、膝をついた宮廷魔導医長アスクレスの細くしなやかな指先が、実に洗練された手際で動き続ける。
二匹の白蛇の精霊が傷口の周囲を這うと、その身から淡い光が滲み、付着した泥や血を洗い流していった。まるで消毒をしているようだった。
それから、清められた未亜の足を、アスクレスの滑らかな手がそっと包むと、ひんやりとした薬液で擦り傷を優しく包むように塗った。
魔法薬を使用した再生ポーションだったのか。途端に、痛みの熱はすうっと引いていった。
けれど、隣に座るヴェルラウトは、まるで未亜を護ることだけが己の使命であるかのように、その手を片時も離さなかった。
壁際では老執事長ガルムと侍女たちが息を殺して控えていた。
「——よし、処置は完了だ。」
アスクレスが包帯を巻き終えると、白蛇の精霊たちが首元で小さく鎌首をもたげ、白衣の袖口を滑り降りていく。
「これほど上質な再生ポーションを塗り込んだのだ、明日の朝には跡形もなく消えているだろうが……念のため、明晩もう一度傷口の状態を確認しに来てやるよ」
アスクレスは軽薄な笑みを浮かべながら、手際よく医療鞄へ薬瓶を戻し始めた。
その言葉を受け、未亜の隣でずっと身を硬くしていたヴェルラウトが、重厚な体躯を揺らして立ち上がる。そして部屋の壁際に身を縮こまらせていたステラとネルへ、氷のように冷ややかな視線を向けた。
「……無能ども。森の泥で汚れたミアの身体を清めよ。傷に触れぬよう配慮し、清潔で心地よい夜着を用意しろ。二度目はないぞ」
「ハ、ハイッ! ただちに!」
自分たちの手落ちで未亜を行方不明にさせ、処刑寸前まで追い詰められていたステラとネルは、失態を挽回せんばかりの緊張感で身をこわばらせ、青ざめた顔で、慌ただしく動き出そうとした。
——その、まさに直後のことだった。
未亜の視界に入ってきたのは、立ち上がり、未亜に背を向けたヴェルラウトの、広く頑強な背中だった。
素肌の上に羽織っていた暗灰色のガウンを未亜に与えてしまったため、彼は今、上半身を完全に露わにしている。
その、灰銀色の滑らかな皮膚で覆われているはずの背の中央から肩にかけて——ドス黒く血が固まり、肉が深々と引き裂かれた、絶句するような巨大な爪痕が走っていたのだ。
「……ッ……きゃあッ……!?」
未亜の悲鳴が響いた瞬間、ヴェルラウトの身体が跳ねた。
「ミアッ!?」
振り向くより早く、彼は未亜のもとへ身を屈めていた。
「どうした!? どこが痛む!? 足か? それとも、他に傷を……」
焦燥に揺れる琥珀ゴールドの瞳が、未亜の顔から足元へ、細い腕へと走る。
自分の背中に残る傷など、今の彼の意識には少しも入っていない。
それどころか、アスクレスの処置が痛みを誘ったのだと勘違いしたヴェルラウトの瞳は、狂暴な殺意を宿してぎらりと光った。まだ治療道具を片付けている最中のアスクレスを、射殺さんばかりに睨みつける。
だが、未亜の指先が震えながら指し示していたのは、アスクレスではなく、ヴェルラウト自身だった。
「違います……!」
未亜は震える指で、彼の背後を指した。
「魔王さんの、背中……っ!」
ヴェルラウトが、ぴたりと動きを止めた。
「ひどい怪我じゃないですか……っ!! 私の傷なんかより……早く、手当てをしてもらってください……っ!!」
未亜の叫びが、豪奢な『王妃の間』の空気を瞬時に凍りつかせた。
しん、と静まり返る。
あまりにも突飛で、この城の常識から乖離した未亜の叫びに、部屋にいた全員が息を呑んだ。
最初にその静寂を破ったのは、床に跪いたままのアスクレスだった。
「……へぇ」
嘲笑ではなく、未知の珍しい症例でも見つけたかのような、深く不気味な興奮を孕んだ笑みが、彼の整った唇を歪める。
続いて、壁際にいたステラが呆れたように「ハッ」と息を漏らし、ガルムは「何をバカなことを」と言いたげに深く眉間の皺を刻んだ。そして小柄な竜人のネルに至っては、堪えきれずに「ぶっ」と吹き出し、お腹を抱えて笑い始めた。
「ひぃーっ、腹痛ぇ……! 魔王様に手当てだって!? 本気で言ってんのか、人間……っ!?」
あまりにも不躾な反応に、未亜は混乱と激しい苛立ちで頬を赤く染めた。
「な、何がおかしいんですか……っ!? あなたたちの世界の魔王様が大怪我をしてるんですよ!? なんで平然と笑っていられるんですか……っ!!」
怒りを露わにする未亜に対し、ヴェルラウトだけは冷酷に怒るでもなく、ただ酷く困惑したように琥珀色の瞳を揺らしていた。
「……ミア。俺に手当てなど必要ない」
「何言ってるんですか、こんなに酷く引き裂かれてるのに……っ!!」
未亜が必死に言い返す。
その時、壁際に直立していた老執事長ガルムが、重々しい足音とともに一歩前へ出た。白銀の髪をなびかせ、白く濁った灰色の瞳で未亜を冷酷に見下ろす。
「下等な娘よ、無知とは真に恐ろしいな。我が主たる魔王陛下にとって、そのような傷は傷のうちにも入らん。陛下に下等な他者の手を借りて手当てをさせるなど、王たる絶対の尊厳を貶める無礼千万な愚行だ」
冷ややかに言い放つガルムの言葉に、未亜は頭が痛くなるような混乱に襲われた。
普段、あれほど魔王陛下と崇め奉り、過剰なほどに敬意を払っている臣下たちが、なぜ主の大怪我を平然と放置し、笑い飛ばせるのか。
「ガルムの言い方は偏屈だが、事実だよ、お嬢さん。」
未亜が混乱していると、片付けの手を止めたアスクレスが、事もなげに解説を挟み込んだ。
「確かに、傷そのものは深い。だが、陛下の肉体は、我々高位魔族とすら一線を画す。超高密度の魔力が絶えず肉体を巡っているため、どんな傷を負おうと、驚異的な速度で自然に細胞が修復されるんだ。それこそが『絶対強者』の象徴であり、下手に手当てなどして外から魔力を干渉させれば、かえって治癒を遅らせることすらある。……分かったかい?」
アスクレスの解説で、未亜は彼らが「手当ては不要だ」と言い切る理屈をようやく理解した。
——けれど、納得など、到底できるはずもなかった。
傷の治りが速い、とは。 強さの象徴とは、なんなのか。
ガルムたちの誇らしげな言い分は、未亜の耳には「最強でいなければならない魔王の、愚かな意地と痩せ我慢」にしか聞こえなかった。
「やれやれ。無駄な騒ぎで私の睡眠時間が削られたな。仕事は終わった、私は地下の調合室へ戻って眠らせてもらうとしよう」
パタンと鞄の金物を留め、アスクレスがすくっと長身を立ち上がらせた。
「もう……いい……」
ぽつりと、掠れた声が未亜の唇から漏れた。
誰にも聞こえないほどの小さな呟き。だが、隣にいたヴェルラウトだけはその声を聞き逃さず、「どうした、ミア?」と覗き込むように顔を近づけてくる。
(私のかすり傷の手当てを優先させている間、この人はどれだけの痛みを背中で耐えていたんだろう…)
未亜は勢いよく顔を上げた。
そして立ち上がると、迷いなく歩き出す。足裏の傷が痛んだけれど、構わなかった。
「私が魔王さんの手当てをします。……そのお薬、そこに置いていってください!」
未亜が、さっさと立ち去ろうとしていたアスクレスの背中へ声を投げた。
ピタリと、アスクレスの足が止まる。
「……は?」
アスクレスが振り返る。今度は混乱しているのは、彼の方だった。
ガルムが「貴様、何を戯けたことを……っ!」と苦々しく表情を歪め、ステラとネルが信じられないものを見るように顔を見合わせる。
「ミア、俺は大丈夫だ。心配はいらん」
宥めるようなヴェルラウトの言葉すら無視し、未亜は素足の痛みを無視して、ずんずんとアスクレスの元へ歩み寄った。
そして、長身の宮廷魔導医長を、強い意志を込めた瞳で見上げる。
「すぐに治るっておっしゃいましたけど……誰も『痛まない』とは言いませんでした」
アスクレスのエメラルドグリーンの瞳が、一瞬だけ驚愕に大きく見開かれた。
未亜の言葉に一歩遅れて追いついたアスクレスは、思わず彼女の斜め後ろに立つヴェルラウトへと視線を走らせる。
静かに未亜の隣へ歩み寄ってきたヴェルラウトが、彼女の華奢な肩にそっと掌を添える。
「……これくらい、なんともない」
平然と吐き捨てられたその言葉。けれど、未亜にはそれが、必死に強がっているようにしか見えなかった。
——脳裏に、あの瞬間の記憶が蘇る。
あの狂乱した暴魔熊の爪がヴェルラウトの背中を打った瞬間、自分を抱きすくめた彼の口から、一瞬だけ押し殺した苦しげな呻き声が漏れていた。
あのときは、殺されるという恐怖で混乱していて気づけなかったけれど、あれは絶対に、痛みに耐える声だった。
未亜はそれをあえて口にはしなかった。魔王としての誇りや強がりを、皆の前で暴くのは違う気がした。
「手当てが必要ないのなら……痛み止めだけでも、私に塗らせてください」
未亜の揺るぎない言葉に、アスクレスの唇が片方だけ跳ね上がった。
「……ほう」
アスクレスは、面白くてたまらないといった風に小さく声を漏らした。そして彼は、迷うことなく医療鞄から琥珀色の小さな薬瓶を取り出し、未亜の手元へ放って渡した。
「即効性のある痛覚麻痺の薬液だ。人間に扱えるような代物じゃないが……まあ、塗るくらいなら問題ない」
「アスクレス! 陛下にそのような真似を許すとでも——」
ガルムが憤怒に震えて叫びかけたが、アスクレスはそれを完全に無視し、チラリとヴェルラウトへ視線を送った。
『どうされるおつもりで?』と問いかけるように。
ヴェルラウトは、握りしめた薬瓶を胸元に抱える未亜に視線を落とした。
意志の強い真摯な瞳でアスクレスを見返す未亜をしばらくじっと見下ろしていたが、やがてゆっくりと壁際で控える家臣たちへと視線を向けた。
「……全員、下がれ」
低く、けれど一切の反論を許さない絶対の威圧だった。
その瞬間、『王妃の間』を満たしていた、人間の小娘が戯けたことをほざいている——という程度の空気が、一変した。
「陛下……っ!? 本気でそのような人間の戯言を——」
「聞こえなかったのか、ガルム。……下がるのだ」
絶対君主の冷徹な命に、ガルムは「……くっ」と悔しそうに歯を噛み鳴らし、深く頭を下げざるを得なかった。ステラとネルも顔を見合わせ、戸惑いながらも慌てて退出の礼をとる。
アスクレスだけが、期待通りの展開にフッと満足げな笑みを浮かべていた。
「やれやれ、これで私も邪魔されずにゆっくり眠れる。……健闘を祈るよ、お嬢さん」
軽薄な捨て台詞を残し、家臣たちが次々と部屋から出ていく。
重厚な白銀の扉が静かに閉じられ、広い『王妃の間』には、ついにふたりきりの静寂が訪れた。
※今日は、1日2話更新でお届けします。
次回は本日21:10頃に更新予定です。
引き続きお楽しみいただけましたら嬉しいです。




