第13話 魔王の背に触れて
アスクレスが重厚な白銀の扉を丁寧に閉め切ると、廊下の向こうでガルムが吐き捨てる不満の声も、やがて夜の静寂の中に溶けていった。
あれほど騒がしかった『王妃の間』に、唐突な静寂が満ちた。
ふたりきりになった空間。部屋の真ん中にぽつりと取り残された未亜は、己の軽率な行動に、遅まきながら指先を小さく強張らせた。
(どうして……私、あんなことを言っちゃったんだろう)
我に返った途端に、言いようのない気まずさと後悔が胸を突く。
隣にいるのは、穏やかな日常から自分を惨めに引き剥がした、この地獄の元凶。この世で最も恐ろしく、恨むべき魔王だ。
それなのに、臣下たちが彼の血を流す背中を「平気だ」と笑った瞬間、胸の奥を突き上げた猛烈な理不尽さのまま、勢いで手当てを買って出てしまった。
未亜はおずおずと視線を上げ、隣に立つ男を見やった。
未亜の視線に気づいたヴェルラウトが、静かにこちらを見つめ返してきた。
絶世と謳われる彫りの深い顔立ちと、闇の中で怪しく光る琥珀ゴールドの瞳。普段その瞳には、魔王としての圧倒的な自信か、あるいは未亜の心を手繰り寄せようとする必死で重苦しい懇願ばかりが宿っていた。
だが、今の彼の瞳の深淵には——見たこともないような、純粋で幼い『戸惑い』だけが揺らめいていた。
なぜ自分を庇うのか。なぜ、自分などの痛みを案じて怒るのか。
言葉にならない困惑を瞳に宿した魔王の視線から逃れるように、未亜はサッと目を逸らした。
「……アスクレス先生からいただいたお薬を塗ります。……ソファに、座ってください」
掠れた声を残し、未亜は純白のソファへ向かって早足で歩き出した。
未亜が先に腰を下ろすと、ヴェルラウトもまた、未亜を追うようにゆっくりと歩み寄ってきた。
いつものように圧倒的な威圧感を放ちながら大股で迫るわけではない。まるで小動物を脅かさないよう気を払うかのように、未亜の顔色を伺いながら、少し距離を置いてそっと隣に腰を沈めたのだ。
「……背中を、向けてください」
未亜が小さく促すと、ヴェルラウトは一切の反論をすることなく、素直に身を翻した。
目の前に現れた、圧倒的な男の背中。
この魔界を絶対的な力で支配し、人間界にまでその威名を届かせる魔王の背には——右肩から左腰にかけて、暴魔熊の凶悪な爪が残した、肉を深く裂く無惨な痕が走っていた。朱に染まった痛々しい傷口を目にした瞬間、未亜は思わずひっと息を詰めた。
「これくらい、平気だ。……お前が気に病むことではない」
未亜の息の詰まる気配を察したのか、ヴェルラウトが肩越しに少しだけ振り返った。
相変わらず、自分の背中に走る傷には恐ろしいほど無頓着で、ただ未亜が傷ついているのではないかと、それだけを本気で心配している。
いつもなら、その重すぎる過保護さに逃げ出したくなっていたはずだった。
だが今、未亜はその瞳から目をそらさなかった。
逃げるためではなく、確かな意志を込めて、彼の傷ついた背中をまっすぐに見つめ返す。
「……私を見てたら、手当てができません。背中を向けてください」
きっぱりと、静かな声音。冷たさはなかったが、そこには揺らぎようのない小さな決意が滲んでいた。
ヴェルラウトは何かを言いかけ、わずかに唇を開きかけたが、やがて何も言わずに静かに前を向いた。未亜の隣で、無防備にその広い背を晒し直す。
未亜は、手に握りしめていた琥珀色の小さな薬瓶の蓋をそっと開けた。
ひんやりとしたガラスの中で、液体が揺らめく。ツンとした薬品特有の匂いが、かすかに鼻腔を掠めた。
瓶を傾け、自分の左手のひらにとろりとした薬液を少しだけ落とす。
「……痛かったり、沁みたりしたら、言ってください」
言われたところで、自分はアスクレスのような名医ではない。傷を癒やす魔導も使えない。けれど、痛む場所が分かれば、それ以上に彼を傷つけないよう配慮することはできるはずだった。
ヴェルラウトからの言葉による返答はなかった。ただ、背を向けたまま微動だにしないその佇まいが、すべてを未亜に委ねる無言の承諾に思えた。
「……塗ります」
未亜は左手のひらに落とした薬液を、右手の指先ですくい取った。
そして、生々しい爪痕のなかでも、比較的浅そうに見える端の傷口の縁へと、恐る恐る指先を滑らせた。
——ピクッ。
その瞬間、ヴェルラウトの背中の筋肉がほんのわずかに跳ね、灰銀色の滑らかな肌が一気に強張った。
「っ……痛かったですか? 次はもっと優しく——」
「いや。痛みはない」
間髪を容れずに落とされた、ヴェルラウトの平然とした声。
そこに躊躇いや、強がりの迷いは微塵もなかった。少し前に未亜が想像していたような「強者としてのプライドによる痩せ我慢」の響きすら、彼の声には存在しない。
だが——薬液を滑らせた未亜の指先には、確かに一瞬、彼が痛みに反応して身体を硬直させた感触が残っていた。
(あぁ……)
未亜の胸の奥で、悲しい歪みが音を立てて弾けた。
この人は、痛いときに「痛い」と言うことを、必要とはせず、いつしか「痛み」そのものを忘れてしまったのかもしれない。
その理由はただひとつ、彼が『魔王』だからという、あまりにも単純で理不尽なもの。
魔王というものは、強く、無敵で、恐怖の象徴でなければならない。
彼が魔王であり続けるためには、弱点となる『痛み』など、存在してはならず、許されなかったのかもしれない。
そうして、彼はいつからか、痛みに耐えることを当たり前だと思うようになったのだろうか。
臣下たちはその強さを崇拝し、崇め奉るばかりで、血を流すひとりの生身の存在として彼を見ることなど、考えもしない。
臣下たちが盲目的に捧げる敬意と信頼。それが、魔王自身に「自分は痛みなど感じない」と思い込ませてしまったのだとしたら——そんなものを、敬意と呼んでいいのだろうか。
少なくとも未亜には、残酷な押し付けに思えてならなかった。
生きている限り、傷つけば痛む。身体の痛みも、心の痛みも、等しく存在する。人間として生きてきた未亜にとって、それは揺らぎようのない当たり前の真理だった。
魔王の背中に出来た大怪我に取り乱した未亜に、ヴェルラウトが困惑し、ガルムたちが鼻で笑った。そして、アスクレスが諭すように「魔王だから手当ては不要だ」と説いた理由が、今ようやく、痛いほど理解できた。
自分自身が生きてきた当たり前と、この異形の城を支配する常識が、決定的にすれ違っていたのだ。
「……わかりました。次は、もう少し優しく塗りますね」
未亜はあえて、彼の「痛くない」という言葉を否定しなかった。
彼には「痛み」と引きかえに守ってきたものがあるのなら、今ここで不要に「事実」を押し付けるのは、あまりにも無粋な気がした。だから、未亜はただ静かに、その言葉を受け止める。
けれど、薬液をつけた未亜の指先は、今度こそ彼に『痛み』を感じさせないよう、祈りを込めるようにそっと、静かに傷口を撫でていった。




