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第14話 帰りたい

広大な『王妃の間』を満たしているのは、重苦しい静寂と薬品の匂いだけだった。

 

広々とした純白のソファの上、未亜は息を潜めるようにして、隣で静かに背を向ける男の傷口と向き合っていた。


灰銀色の背中を斜めに走る、恐ろしいほど深い爪痕。痛々しい傷口を前にして、未亜が痛みを少しでも和らげようと、祈るように丁寧に指先を動かし、薬を塗っていたため、手当てには思いのほか時間がかかっていた。

未亜が薬液をそっと塗り込むたび、ヴェルラウトの背筋が一瞬だけ微かに緊張し、漏れるようなかすかな呼吸の音が静寂を揺らす。

背中の傷の半ばまで薬を塗り終えた頃だった。

ヴェルラウトが、前を向いたまま、ぽつりと低く問いかけてきた。


「……なぜ、俺が与えたドレスを着ていないのか……訊いてもいいか」

  

あまりに静かな問いに、ヴェルラウトの背中で動いていた未亜の指先が、ピタリと止まった。

背筋を走る冷たい緊張に息を詰める。

逃亡を試みたことへの追及。当然、厳しく問いただされ、最悪の罰を覚悟していた。手当てという殊勝な振る舞いをしてはいるが、魔王城全体を大混乱に陥れ、彼にこれほどの重傷を負うことになった原因が、自身の「逃亡」にあることは痛いほど自覚していたからだ。どんな罰を言い渡されても、何一つ文句は言えなかった。

だが、この真夜中に彼が真っ先に未亜へ問いかけたのは、脱走の罪ではなく、未亜が身に纏っている「服」についてだった。

その真意が分からず、重い沈黙が痛々しく部屋を満たす。

未亜は唇を固く結び、慎重に言葉を選んで答えた。

 

「……ゴミ捨て場のような廃塔で、偶然見つけたからです」


それは紛れもない「事実」ではあったけれど、今夜の「真実」ではなかった。

今度はヴェルラウトが沈黙する番だった。

未亜の言葉の真意を測りかねているのか、それとも、どう返すのが正解なのか分からずに戸惑っているのか。

ヴェルラウトが何を考え、次に何を口にするのか分からない。未亜もまた、薬を塗る手を止め、息を潜めていた。

 

少しの間を置き、ヴェルラウトが再び口を開く。


「『幻衣の姿鏡』を使ったな……。あの魔法の道を通って……お前はあの廃材集積塔へ赴いた、ということか……?」


その声には、いつもの絶対君主としての冷徹さはない。どこか上擦り、混乱の中で、それでも何が起きたのかを必死に理解しようとして、不自然に固く張り詰めている。


「げんいの……すがたかがみ……?」


聞き覚えのない言葉に、未亜は眉をひそめた。


「ドレスルームの奥にあった……あの、大きな姿見のことですか?」


一番分からなかったのは、聞き覚えのないその鏡の名前だった。けれど、身に覚えなら明確にあった。

あの絢爛豪華なドレスルームの奥に鎮座していた、不気味なほど大きく、豪奢な姿見。鏡の奥を覗き込んだ瞬間、ガラスの表面が静かな水面のように波打ち、淡い菫色と白銀の幻想的な光が溢れ出したのだ。そうして鏡の向こうへと足を踏み入れ、未亜は、思いがけず、王妃の間からの脱出を果たすことになった。


「あぁ……そうだ。あれは本来、着用者が望む装いを魔力で一瞬にして仕立て変えるためのものだ。だが……望む品が眠る場所へと直接出向くための『門』としての機能も備わっている」


ヴェルラウトの低く重い説明を聞き、未亜の中で、散らばっていた疑問がひとつに繋がった。

あの鏡に触れた時、未亜の胸を占めていたのは、人間界の服への強い切望と——母から貰った一粒ダイヤのピアスを取り戻したいという、必死な願いだった。

つまり——あの廃棄塔のどこかに、探していた片割れのピアスが捨てられているのだ。

左耳に戻ってきたピアスが、急に熱を帯びたかのように存在感を増す。


探しに行きたい、取り戻したい。

まだ、あそこにあるのだ。探せば、母との思い出を両耳に揃えられるかもしれない。

けれど、逃亡に失敗した今、もう二度とあの場所へ足を踏み入れることなど許されないだろう。魔王の監視がこれからどれほど過酷なものになるかなど、考えるまでもない。

奇跡のように手がかりを得られた歓喜と、それを永遠に失ったという絶望。

二つの感情に挟まれ、未亜が言葉を失っていると、ヴェルラウトがどこか痛々しく擦れた声で言葉を重ねてきた。


「お前は……その服が着たかったのか……? 俺が買い与えた、どんな高価なドレスよりも……」


その弱々しい呟きを聞いた瞬間、未亜の眉間がきつく寄せられた。胸の奥から、冷たい怒りが込み上げてくる。

豪華なドレスも、溢れんばかりの宝石もいらないと、これまで何度も拒絶してきたはずだった。それなのに、彼は本気で未亜の言葉を聞いておらず、理解しようともしていなかったのだと思い知らされた気がした。底知れぬ徒労感と、最低な気分が胸を灼く。


「……この服は、たまたま見つけただけです。……着たかったから、着ました」

「……着たかったから……」


反芻するように呟くヴェルラウトの声には、まだ未亜の理屈を理解できずに彷徨う困惑が滲んでいた。


「……服のことは、分かった。だが……ならば、お前はあの姿鏡に何を求めた? なぜ……あの扉を開いたのだ」


すがるような、切実な問いかけだった。

どうして、と純粋に答えを欲している彼の気配に、未亜はしばらく口を閉ざした。やがて深く息を吐き出すと、止めていた手を動かし、傷口へ薬液を滑らせながら正直に答えた。


「……母の、ピアスを探していました」

「……ピアス……?」

「はい。成人の祝いに母がくれた、小さなダイヤのピアスです。……寝室のベッドの下に片方が落ちているのを見つけて、もう片方を探そうと部屋中を探し回っていたら、偶然、階下へ続く階段を見つけたんです」


淡々と語られる説明を、ヴェルラウトは黙って聞いていた。

背中の肌を通して伝わってくる彼の気配は、あまりに重く、静かだった。未亜は動揺を悟られぬよう意識して呼吸を整えながら、傷口を撫でる指先を休めなかった。

しばらくの静寂の後、ヴェルラウトが低い声で尋ねた。


「……見つかったのか」


未亜の指先が、ピタリと止まった。

そっと指を離すと、薬瓶からもう一度、左手へとろりとした液体を零す。再び指先に薬を馴染ませ、傷口へ滑らせながら答えた。


「……いいえ。見つかったのは……今着ている、この服だけです」


その声音には、隠しきれない寂しさと落胆が滲んでいた。


「そうか」


ヴェルラウトの返答は、それだけだった。

けれど、彼はすぐに確信を突くような問いを投げかけてきた。


「……では、なぜ訓練場の近くにいた? あそこは廃材集積塔からも離れた場所だ」


逃げ場を無くすような鋭い問いに、未亜の言葉が詰まる。

未亜の動揺を察したのか、ヴェルラウトはまるで『本当の答え』を聞くのを恐れるかのように、畳みかけるように早口で言葉を重ねた。


「……迷っていたのだろう。着たい服を見つけ、この部屋へ戻ろうとしたが鏡の道が閉ざされ……広大な敷地で迷子になっていたのだな?」


早口で必死に紡がれる声は、ヴェルラウトが導き出したあまりにも強引な答えに縋っているようだった。「そうであってくれ」と祈るような、あまりにも不器用で哀れな願いが伝わってくる。

廃材集積塔から訓練場を通り抜け、あの凶暴な魔獣の檻の前へと辿り着くには、闇夜の中でも圧倒的な存在感を放つ本城の影に「背を向けて」歩み続けなければならない。

未亜が選んだ足跡が示す答えは、最初から一つしかなかった。

その答えを、ヴェルラウトが知らないはずもなかった。

  

「……はい。道には迷っていました」


未亜が静かにそう答えた瞬間、ヴェルラウトの広い肩がびくりと揺れ、背筋が一瞬にして固くなった。

安堵の息を漏らそうとした彼に、未亜は容赦なく言葉を重ねた。


「でも——向かっている方角に、迷いはありませんでした」


静かな声が、密室の空気を鮮やかに切り裂く。


「私は……人間界に、帰りたかったんです」


言葉が落とされた途端、ヴェルラウトの背中が、まるで石像のように完全に凍りついた。

再び、ふたりを包んだのは音のない世界だった。

未亜は何も言わず、ただひたすらに、彼の背中の傷口へ優しく薬を塗り続けた。

手当てが終わるその時まで、彼が痛みに息を呑む音は、もう二度と聞こえてこなかった。




※今日は、1日2話更新でお届けします。

次回は本日21:10頃に更新予定です。

引き続きお楽しみいただけましたら嬉しいです。

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