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第15話 一年だけ、そばにいて

ヴェルラウトの背中に薬液を塗っていた指先が、静かに離れていく。


「……終わりました」


未亜は薬瓶の蓋をゆっくりと締めながら、小さく息を吐き出す。

 

「せめて今夜は、静かにお過ごしください。手当てをしたばかりですから……お体にも障ります」


傷が痛むはずだ、とは言わなかった。自分が痛みを感じることを認めようとしない魔王へ、ただその傷が早く癒えてほしいという祈りだけを言葉に込める。


ヴェルラウトが、ゆっくりとこちらへ振り返った。

彼の琥珀ゴールドの瞳が、未亜の顔を静かに見つめる。

 

「……お前は、本当に理解しがたいな」


低く落とされた声。それはどこか、途方に暮れたような響きを帯びていた。

痛みなど感じないと言い張る魔王に、誰もが必要ないと笑った手当てを施したことか。それとも、自分を見知らぬ地獄へ攫ってきた元凶だというのに、その傷口を案じていることか。

一体、未亜の何を指して「理解しがたい」と評したのか、ヴェルラウト自身もその理由を解き明かせずにいるようだった。彼は何か言葉を続けようとして、結局は喉の奥で押し殺すように口を閉ざしてしまった。

 

「……変わっているのは、このお城の皆様です。私は、当たり前のことをしただけです」


未亜はほんのわずかに視線を逸らし、彼から借りたままのガウンを膝の上で握りしめながら、小さな声で反論した。 

ヴェルラウトは何かを言いかけ、不器用に言葉を探すように唇を微かに開いた。やがて、深く息を吐き出すと、熱を帯びた眼光で未亜を射抜く。


「……このように俺を案じ、手当てを施そうとした者など、今まで一人もいなかった」


薬を塗っている間、静かに膝の上に落ちていた彼の大きな手が動き出す。迷いのない確かな意思を持って伸ばされた手が、未亜の手首を枷のように強く掴んだ。


「……俺はますます、お前を手放したくなくなった」


ぎゅっと強められた力に、未亜の身体がビクッと跳ねる。

反射的に見上げれば、じっとこちらを見つめるヴェルラウトの瞳が灼けるように熱かった。

逃走を企てた人間に対する裁きは、処刑ではなかった。けれど未亜にとって、これは命を絶たれるよりも恐ろしい宣告だった。

心臓が激しく鐘を鳴らし、あまりの絶望に身体の感覚が遠のいていく。けれど、それすら許さないとばかりに、手首を握る彼の力がじんわりと強くなった。


「俺のそばにいると約束してくれるのなら、俺のすべてを賭してお前を愛し、この命が尽き果てようとも、永遠の贅沢と栄華の中で守り続けると誓おう」

 

重厚で、あまりにも一方的な愛の誓いが『王妃の間』に静かに響き渡る。

未亜の身体は恐怖と絶望で氷漬けにされたように感覚を失っていたけれど、彼に捉えられた手首だけが、焼き尽くされそうなほど熱い。

ヴェルラウトは一度口を閉じ、未亜の反応を待つようにじっと瞳を覗き込んできた。その琥珀色の瞳は、そこに存在してほしいと願う「愛」の欠片を探そうとしているようだった。

 

けれど、未亜の唇は固く結ばれたままだ。

この魔界へ連れて来られてからずっと、彼は過剰な執着という名の愛を差し出し続け、未亜は同じ拒絶を返し続けてきた。それは今も何一つ変わらない。

今さら何を捧げられると囁かれようと、未亜が望むのは贅沢な暮らしなどではない。慎ましくてもいい、大切な家族や友人たちが待つ、あの温かな日常へ帰ることだけなのだ。


沈黙を守る未亜の瞳の中に、求める答えがないことを悟ったのだろう。

ヴェルラウトの琥珀色の瞳から、すっと光が引いていく。


「……それでも。お前が求めているのは、その泥に汚れた服と小さなピアス……そして、お前が生まれ育った、俺のいないあの世界だけなのだな……」


手首を掴む彼の指先にはまだ痛いほどの力が込められていたけれど、その声は、今にも消え入りそうなほどに弱々しく掠れていた。

現実から目を背け続けてきた魔王が、ついに拒絶の事実に打ちひしがれていく。その絶望的な横顔とは対照的に、未亜の胸の奥には、ようやく自分の切実な願いが彼に届いたのだという、一筋の小さな希望が芽生え始めていた。

未亜の瞳に宿ったかすかな期待の光を逃さず捉えたのか、ヴェルラウトがハッとしたように琥珀色の瞳を見開いた。そして手首を縛っていた力が、力なく解かれていく。

 

うるさいほどの静寂に包まれる中、未亜は息を詰めて次の言葉を待った。

そんなに帰りたいのなら帰してやる———そんな言葉が落ちてくるのではないか。

今まで自分を閉じ込めてきた男に対し、それがどれほど途方もない望みか理解はしていた。けれど、ようやく自分の心の内を認めてくれた彼に縋るしかなかった。

未亜が縋るような視線を向けると、ヴェルラウトはその期待から逃れるように、ゆっくりと顔を伏せた。

 

逃げるように顔を伏せたヴェルラウトの手が、膝の上で躊躇いがちに開いては閉じを繰り返す。怯えるような手つきで伸びてきた大きな手が、未亜の指先をすがるように優しく包み込んだ。


「……一年だ」


低く掠れた声は、喉の奥から苦しげに絞り出されていた。

意図が分からず、未亜が戸惑いの視線を向けると、ヴェルラウトがゆっくりと顔を上げた。


「……一年だけでいい」


前髪の影から覗くその瞳は、傷ついた獣のように切なく揺れていた。


「この魔界で……俺のそばに一年だけいてくれ。……ならば一年後、必ずお前を元の世界へ帰すと約束する。お前の大切な人間どもにも、誓って手は出さん……っ」


そう懇願する低い声はどこか頼りなく、けれど、迷いもない。ただ一目見ただけで胸が痛むほどの、狂おしい切迫感が滲んでいた。

そのあまりにも悲壮な懇願に、未亜は息を呑んだ。

  

「……一年……」


魔王が口にした予想外の提案を、未亜は口の中で小さく反芻する。

すぐには頷けなかった。この見知らぬ恐怖に満ちた魔界は、たった一秒でさえ未亜にとっては耐えがたい檻なのだ。けれど——ほんの数分前まで、未亜はその恐ろしい檻の中で永遠に心を殺されるのだと絶望していた。母の元へ帰ることも、片方残された大切なピアスを取り戻すこともできないと、暗闇の中にいたのだ。

そこに突如として『一年』という明確な終わりが与えられたのだ。

この条件を受け入れれば、失われた日常を取り戻せる。その希望に、未亜は縋るしかなかった。


「……分かりました。一年だけだと約束してくれるなら、……私は、ここにいます」


静かに告げられた承諾。

自分から提示した条件だったにもかかわらず、まさか本当に受け入れられるとは思っていなかったのか、ヴェルラウトは大きく目を見開き、息を止めた。

やがて、溢れ出そうになる感情を噛み殺すように、痛々しく目元を歪める。


「……感謝する、ミア」


感謝の言葉を吐く、掠れた彼の声は、歓喜というよりも、命拾いをした者の痛々しい安堵に満ちていた。

この魔界を統べる絶対君主である魔王が、己のプライドを投げ捨てて、か弱い人間の少女に乞い、感謝を口にしている。

その姿に、偽りなどないように思えた。

それでも——この地獄での恐怖が、未亜に手放しの安心を許さなかった。未亜は揺れる瞳で彼をまっすぐに見つめ返し、念を押すように言葉をかけた。

 

「……本当に、一年後には私を人間界へ帰してくれますね? ……約束してください」


その瞬間、ヴェルラウトの表情が激しく凍りついた。

自ら差し出した『一年』という言葉の重みが、容赦なく彼の胸を穿ったのだろう。痛々しく眉間を寄せ、唇を噛み締める彼の表情に、冷たい絶望が走る。

言葉を失ったまま、ヴェルラウトは未亜の華奢な肩を、乱暴なくらいに強く引き寄せた。


「あ……っ」


抗う隙もなく、未亜の身体は彼の分厚い胸の中へ強く抱きすくめられていた。

魔族特有の微熱のような体温が未亜を包み込み、栗色の髪の中にヴェルラウトの荒い熱い呼吸が埋もれていく。背中の生々しい大傷の痛みなど完全に忘れ去ったかのような、激しい力だった。


「あぁ……約束だ。必ず……必ず、お前をあの世界へ帰す……! 誓う……っ!」


耳元で、胸を引き裂くような切実さを孕んだ誓いが繰り返される。

けれど、未亜の身体が落ち潰されそうなほど強く、その存在を確かめるように何度も何度も力任せに抱きしめてくるその両腕だけは——『一年後など、永遠に来るな』と、悲痛なほどに狂おしく拒絶を叫んでいた。 




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