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第16話 生死を分けた第一歩

未亜を強く、強く抱きすくめていた腕から、ゆっくりと力が抜けていく。

背中の傷の痛みなど忘れたかのように狂おしく未亜を求めていたその腕は、最後の一滴まで愛おしさを惜しむかのように、名残惜しそうに離れていった。


ヴェルラウトは伏せ目になり、未亜と正面から視線を合わせようとはしなかった。

膝の上に置かれた未亜の小さな手元だけを見つめ、漆黒の前髪の影にその表情を隠している。

自ら口にした『一年』という残酷なカウントダウンの重みに、魔王自身が打ちのめされているかのようだった。

未亜もまた、何も言えず、身動きひとつできなかった。

ただ、彼の胸から伝わっていた灼けるような微熱の名残だけが、冷えていく皮膚に痛いほど残っている。

 

やがてヴェルラウトは、すがるような面持ちで未亜の顔を覗き込んできた。

大きな手がゆっくりと持ち上がり、震える指先が未亜の頬へと伸ばされる。愛おしさに耐えかねたように、その柔らかい肌へ触れようとする仕草。けれど、その指先が肌に触れる直前——ヴェルラウトはハッとしたように動きを止め、苦痛に瞳を揺らしながら、ゆっくりと手を引いた。

傷つけることを恐れるように指先が激しく躊躇い、一瞬だけ固く握りしめられる。やがて、その手は未亜の肌に触れることなく、力なく自らの膝の上へと戻されていった。

 

「……今夜は疲れただろう。……ゆっくり休むといい」


低く、掠れた声は、今にも消えてしまいそうだった。

ヴェルラウトはそれだけを告げると、重い腰を上げ、ゆっくりと純白のソファから立ち上がった。

未亜の視界を遮っていた巨大な身体が退いていく。

背を向けて去っていく彼の後ろ姿——その広大な背中には、凄絶な切り傷が生々しく残されていた。

先ほど未亜の手で丁寧に塗られたばかりの薬液が、疑似天窓から降り注ぐ月光のような淡い光を弾いて、痛々しく湿った筋を描いていた。

彼が庇ってくれたからこそ、自分は今こうして生きている。その無惨で生々しい傷跡が、去っていく背中で冷たく濡れた光を放っている。

 

そのまま、ヴェルラウトは一度も振り返ることはなかった。

彼が大股で去っていく足音が遠のき、やがて——重厚な白銀の扉が、ガチャンと冷たい金属音を立てて施錠された。


「………はぁ…っ……」


静寂が戻った途端、未亜の口から浅い息が漏れ出た。

へたり込むようにソファへ深く沈み込む。

その瞬間、全身の血が一気に巡り出すような感覚とともに、未亜は自分がどれほど全身の筋肉を硬直させていたかを思い知った。心臓が痛いほど脈打ち、指先は氷のように冷え切っている。


手首に、肩に、彼の強大な力が残した微かな痛みがしびれのように残っていた。

けれど、逃げ場のない檻の中で、初めて手に入れた『一年後』という明確な終わり。

恐怖と希望がぐちゃぐちゃに混ざり合い、未亜は胸元をぎゅっと締め付けた。


だが、安らぎの時間は瞬く間に打ち砕かれる。


カチャン、と再び施錠が解かれる音が響き、白銀の扉が開いた。

静寂を破って早足で足音を響かせてきたのは、ステラとネルだった。

 

「……ミア様。身支度を整え、湯浴みにてお身体を清めるようにと、陛下からのご命令でございます」


ステラの声には一切の情緒がなく、淡々としていた。

未亜の疲弊や困惑など意に介さず、ただ魔王から与えられた業務を速やかに遂行することだけを目的とした、隙のない仮面のような態度だった。


「…はい」

 

未亜は弱々しく頷き、重い身体を引きずるようにしてソファから立ち上がった。

肩から羽織っていた暗灰色のガウンの裾が、純白の大理石の床へ無残に引きずられる。ヴェルラウトの体躯に合わせて作られたそれは、華奢な未亜にはあまりにも大きく、裾が引きずるほど大理石の床に力なく広がっていた。


「さあ! さっさと行くぞ……っ、でございます!」


ネルが未亜の腕を掴み、大雑把な手つきで引っ張ろうとする。


「きゃっ……!?」


未亜は足元にまとわりつくガウンの長い裾を踏みつけてしまい、派手に姿勢を崩す

 

「ネル!なにをやっているのですか!」


ステラの鋭い一喝が飛んだ。

すんでのところで未亜の肩を支えたステラは、縦長に割れた瞳孔でネルを冷酷に睨みつける。


「自分の力加減を考えなさい! 転倒させてお怪我でも負わせたら、陛下にどう言い訳するつもりですか!?」

「うわあっ!? ご、ごめんなさい……っ!」


ステラのかすかな叱責に、ネルが尻尾をしょんぼりと垂らす。

危うく転びかけた未亜の肩から滑り落ちそうになったガウンを捕まえると、ステラは心底うんざりしたように息を吐き、未亜の身体からガウンをすっと脱がせた。


「まったく……陛下も、このような大きな羽織ものをそのまま与えになるとは」


ステラは手際よくガウンを畳み、純白のソファの上へと無造作に置いた。

その瞬間——未亜の視線が、畳まれた布地の一点に吸い寄せられた。


(……あ、)


未亜の瞳が、小さく見開かれた。

ガウンの背中のあたり。厚手の生地が、まるで巨大な刃物で引き裂かれたかのように、無残にズタズタに裂けていた。

それだけではない。裂けた生地の周囲は、ドス黒く乾いた血がべっとりと固まり、布地を硬く変質させていた。


未亜は吸い寄せられるようにソファへ歩み寄り、ガウンへと手を伸ばした。

震える指先が、恐る恐るそのガタガタに切り裂かれた布地に触れる。

ゴワついた血の感触と、深く裂けた生地の感触が、指先を通じて未亜の胸に冷たく突き刺さった。


(これ……あの時の……)


目の前に、暴魔熊の爪が迫ったあの恐ろしい光景が色鮮やかに蘇った。

巨大な黒い爪が、自分の視界を覆い尽くした一瞬。

疾風のように滑り込んできたヴェルラウトが未亜を抱きすくめ、その背中で凄まじい衝撃を受け止めてくれたときの——耳元で響いた、彼のか細く苦しげな呻き声。

 

(私を……庇って……)


あの瞬間は、混乱のあまり思考が追いついていなかったけれど、未亜は大きく引き裂かれたガウンを見て、改めて突きつけられたのだ。

自分を閉じ込め、恐怖で縛りつける悪魔だと思っていた魔王は、自らの命の危険も顧みず、その身を挺して守ってくれたのだ。


じわじわと胸を締め上げる割り切れない感情に立ち尽くしていると、私設大浴場へと向かいかけていたステラが振り返り、冷ややかに声を張り上げた。

 

「ミア様、何をしておられるのです。早くお越しなさい」


未亜は、ハッと我に返る。


「陛下からは『手短に済ませて早く休ませるように』と仰せつかっているのです。私どもの仕事を増やさないでいただきたい」

「……っ、はい、すみません…っ」


未亜は慌てて、手にしていたガウンを丁寧に畳み直してソファに置き、二人の元へと急ぎ足で駆け寄った。


連れられて入ったのは、広大な『王妃の間』の隣に位置する私設浴室だ。

プールのように広々とした大浴場の脇には、純白の白磁で形作られた美しいバスタブが据え付けられている。そこには回復の効能を持つ魔導温水が豊かに注がれ、甘い薫香を含んだ白い湯気がゆったりと立ち込めていた。

けれど、未亜にとってこの場所は、尊厳を剥ぎ取られる恐ろしい場所に過ぎなかった。


「失礼いたします」

 

ステラの手が伸び、未亜の衣類に触れる。

ガウンを脱いだ未亜の身に着けているものは、泥と煤に汚れ、蔦の棘で破れかけたキャミソールと、履き潰されたスキニージーンズだけだった。

王妃の間にそぐわないその惨めな人間の格好に、ステラは、ほんの一瞬、その猫のような縦長の瞳孔を細めて、侮蔑に近い冷ややかな視線を向けた。

けれど、一切の私情を挟むことなく、テキパキとした無機質な手つきでそれらを脱がしていく。


素肌が湯気の中に晒されると、今度はネルが勢いよく前へ出た。

 

「よし! お湯に入るぞ!」


ネルは雑な手つきで未亜の脇の下に手を差し入れると、まるでぬいぐるみを持ち上げるかのようにひょいと抱え上げ、容赦なくバスタブの中へと放り込んだ。

 

「ひゃっ……!」


バシャアンとお湯が大きく跳ね上がる。

未亜は顔面からお湯を被って激しく咳き込みながら、必死に浴槽の縁を掴んだ。

温かな湯が冷え切った身体を包み込んでいく感覚は心地よいはずなのに、安らぐ暇などどこにもない。

 

すぐに身を洗う工程が始まった。

ステラが未亜の栗色の髪にぬるま湯を含ませ、天然海綿にきめ細やかな泡を立てて優しく髪を洗い流していく。

その隣で、ネルが意気揚々と両手を泡だらけにしていた。

 

(また、始まる……っ)


未亜の背筋に、冷たい緊張が走る。

ネルの指先にある硬い竜の鱗と鋭い爪。本人は親切心で磨いているつもりなのだろうが、その馬鹿力によって、柔らかい海綿すらヤスリのような拷問器具に変貌する苦痛の時間が迫っていた。


今までなら、未亜は何も言わずに耐えていた。

やめてほしいと訴えたところで、この城の化け物たちが人間の痛みに寄り添ってくれるはずもないと諦めていたからだ。

けれど——未亜の頭裏に、ヴェルラウトと交わした「一年の約束」が鮮明に浮かび上がった。

自分はこの魔界で、一年間生き抜くと決めたのだ。

このままずっと黙って耐えていたら、ネルの加減のない力に毎日肌を削られ、一年が経つ前に自分の身体が壊れてしまうかもしれない。

そんな冗談みたいな笑えない死に方は、御免だった。


(嫌……っ。死にたくない……! 絶対に、生きて帰るために……っ!)


未亜はぎゅっと両手を握りしめ、襲い来る恐怖を押し殺して勇気を振り絞った。

背中に伸びてきたネルの泡だらけの手に向かって、未亜はぎゅっと目を開け、震える声で叫ぶように言葉を紡いだ。

 

「あの……っ! ネルさん……っ!」

「うおっ!? な、なんだよ……でございます!?」


突然声を張った未亜に、ネルが素っ頓狂な声を上げて跳ね上がった。隣で髪を洗っていたステラも、驚いたように細い眉をぴくりと上げる。

未亜は唇を噛み締め、両手を胸の前で固く握りしめた。怯えに震える瞳で、まっすぐにネルを見つめる。


「洗われるとき、すごく…っ、すごく痛いんです! ネルさんの手が痛くて、皮が剥がれそうなんです……っ! お願いです、もう少し……もう少しだけ、優しく洗っていただけませんか……!?」


震える声で、真っ直ぐに訴えかけてくる未亜の瞳。

その言葉に、ネルは目を丸くし、自分のゴツゴツした竜の鱗で覆われた手と、未亜の白い肌を交互に見比べた。

隣で髪を洗っていたステラが、片眉をピクリと上げて驚きを隠しきれない視線を未亜に向けた。これまで何をされても無言で耐えるだけだった『生きた人形』が、初めて意思を示したことが意外だ、と言わんばかりの反応だった。

 

「えぇっ!? 痛いのか……!? だって、ゴシゴシ洗ったほうが綺麗になるだろう!?ボクは、人間を綺麗にしてやりたくて……!」

「ネル。だから言ったでしょう、人間の肌は羽毛よりも柔らかいのです」


驚いて両手を固まらせるネルの横で、ステラはすぐに冷ややかな表情に戻ると、淡々と指の腹で未亜の頭皮をマッサージし始めた。


「……こうか? これくらいなら、痛くないか……でございますか!?」


ネルが、おどおどした手つきで海綿をミアの背中に滑らせてくる。


「っ……あ、えっと……、ごめんなさい、まだ少し、痛いです……」

「はぁ?まだぁ!?」


ネルが信じられないという顔で、未亜を見る。

 

「言われた通りにしなさい。あなたの力の一割にしなさいと、昨日も言ったでしょう」

「いちわりぃ!? 一割なんて、もう触ってるかどうかも分かんないくらいなんだぞ! ……でございます!」

「いいから一割です。ミア様の皮膚に傷をつけたら、責任を取るのはあなたですよ」


ネルは頭を抱えて唸ったが、ぶつぶつと文句を言いながらも、おそるおそる、まるで壊れ物を扱うような手つきで海綿を未亜の背中に滑らせた。


「……こ、これくらいか……?」

「っ……あ……はい。……それなら、痛くないです……」


未亜がホッと安堵の息を漏らすと、ネルはぱぁっと表情を明るくさせた。


「本当か!?これで洗えてんのか!? ……ふーん、人間ってほんっと、羽毛みたいに柔らかいんだな……」


未亜の肌を撫でるネルの手つきは、まだどこか不器用ではあったけれど、さっきまでのヤスリのような激痛はどこにもなかった。

ネルの力の加減が劇的に和らぎ、爪が皮膚を苛むようなあの激痛は二度と襲ってこなかった。

温かいお湯と、海綿の柔らかい泡が心地よく肌を滑っていく。

魔王城へ連れて来られてから十三日目。

いつもは恐怖と激痛に耐えるだけの地獄だった湯浴みの時間が、初めて、肌を温める心地よいものへと変わっていく。

立ち上る湯気の向こうで、未亜はそっと自分の胸に手を当てた。


自分の声で、世界はほんの少しだけ変えられた。

一年という過酷な期限の中で生き抜くための、それが未亜の小さな、確かな第一歩だった。




※シルバーウィーク期間中は、1日1話更新となります。

少しゆっくりの更新になりますが、引き続きお付き合いいただけましたら嬉しいです。

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