第17話 素晴らしい朝
翌朝、深紫色のベルベットが擦れ合う重厚な音を立てて、未亜はサロン・ダイニングの豪奢な椅子へと腰を下ろした。
ステラが音もなく引き、滑らかに押し入れたその席には、まだ何の料理も運ばれていない。
生きてあの温かな人間界へ帰る——そのために『一年』という残酷な猶予を受け入れた昨夜。
けれど、明けた朝の景色が劇的に変わるわけではない。
相変わらず自分は豪奢な鳥籠に閉じ込められた囚人であり、窓の外にはいつまでも見慣れない魔界の不気味な気配が漂っている。
それでも、世界は微かに動き始めていた。
今朝の湯浴みでは、ネルが爪を立てないよう「一割……一割の力だからな……っ」と呟きながら、まるで薄氷を撫でるような手つきで身体を洗ってくれた。
そして、毎朝、命を奪われそうなほど強く締め上げられていたコルセットも、「これも一割でいいんだろ……」と不服そうに唇を尖らせつつも、息ができるゆとりを残して締め上げてくれたのだ。
おかげで今、胸の圧迫感は段違いに和らいでいる。
椅子に座っているだけで呼吸が途切れそうだった日々が嘘のように、今日は胸いっぱいに空気を吸い込むことができていた。
静寂の中、ダイニングルームの重厚な扉が静かに開く。
姿を現したのは、この城の絶対君主である魔王・ヴェルラウトだった。
圧倒的な体躯と、頭上にそびえる漆黒の角。堂々とした威厳を纏いながら歩を進める彼の背後には、執事長兼最高顧問のガルムが影のように控えている。
ヴェルラウトは長卓の主賓席へ向かうことなく、いつものように未亜の座る席へと真っ直ぐに歩み寄った。
その歩みはどこか慎重で、立ち姿には微かな迷いがあった。
琥珀ゴールドの瞳がどこか気まずそうに、けれど熱を帯びた眼差しで未亜を見下ろしていた。未亜が何を一番に望み、どれほどこの城を拒んでいるかを知ってしまったからこその、躊躇いと痛々しさがその表情に滲んでいる。
「……おはよう、ミア」
低く、けれどどこか伺うような声が降ってくる。
その声には、普段の圧倒的な圧迫感とはどこか異なる、微かな躊躇いがあった。
いつもなら、未亜はこの地獄へ自分を閉じ込めた元凶を直視することすら拒み、固く唇を閉ざして完璧な無視を貫いていた。
けれど、昨夜『一年間はこの魔界で過ごす』と誓った。未亜にとってそれは、ただ不服そうに部屋に閉じこもるのではなく、期限付きでこの歪な生活を受け入れるという覚悟の証だった。
そしておそらく、彼が懇願した「そばにいてくれ」の意味も、そういうことなのだろう、と未亜は受け止めていた。
未亜は膝の上で静かに指を揃えると、伏せていた視線をゆっくりと上げた。そして、目の前の巨大な異形の眼差しをまっすぐに見つめ返す。
「……おはようございます」
蚊の鳴くような、小さな小さな声だった。
だが、その一言は、静まり返った部屋にあまりにも鮮烈に響いた。
今朝も拒絶の沈黙が返ってくるものと諦め、自分の席へ向かおうと足を翻しかけていたヴェルラウトが、まるで雷に打たれたかのようにその場で完全に凍りついた。
琥珀ゴールドの瞳が限界まで大きく見開かれ、縦に割れた瞳孔が激しく細まる。この世で最も信じがたいものを見たかのような驚愕が、その表情を駆け抜けた。
やがて、固く結ばれていた唇が微かに震え、隠しきれない歓喜がその美しい異貌を覆い尽くそうとする。彼は己の感情の奔流に激しく取り乱したように、刃物のような犬歯で唇を強く噛みしめ、必死で威厳を保とうと身を強ばらせていた。
冷酷無比な魔王が、ただひとことの挨拶に激しく揺さぶられ、感情の制御を失っている。その姿は未亜の目にもあまりに明白だった。
背後で控えるガルムだけが、ギリッと怒りを込めて黒檀の杖を握りしめ、苦虫を噛み潰したような恐ろしい表情で忌々しげに未亜を睨みつけている。
ヴェルラウトは一度固く目を閉じ、胸を衝く猛烈な衝動を必死に押し殺すと、もう一度未亜を見つめた。
「……あぁ。おはよう、ミア」
繰り返された挨拶の声音には、狂おしいほどの熱が籠もっていた。彼はそのまま、胸の奥から湧き上がる感動を噛み締めるように、ぽつりと呟く。
「……素晴らしい朝だな」
ヴェルラウトは、感無量といった面持ちで、まるで世界の宝物を手に入れたかのように目を細める。
壁際に控えていたネルが、その幸福に満ちた呟きを聞き、ふと白銀のアーチ窓の向こうへと視線を向けた。
疑似天窓の眩い魔導光とは裏腹に、欄干の向こうに広がる魔界の空は、毒々しい紫色の暗雲が渦巻き、禍々しい砂嵐が吹き荒れている。
ネルは怪訝そうに小首を傾げ、ボソッと呟く。
「素晴らしい……? 外、地獄みたいな空模様だけどなぁ……」
「……黙りなさい。陛下は心のお話をなさっているのです」
すかさずステラが冷ややかな小声を投げかけ、ネルの呟きを一蹴した。
ヴェルラウトは威風堂々としたオーラを漂わせながらも、どこか跳ねるような、隠しきれない歓喜を足取りに滲ませて未亜の正面の席へと腰を下ろした。ガルムは不満を全身に漂わせながら、彼の背後の壁際へと佇む。
それを合図に、背中の小さな羽をパタパタと羽ばたかせ、小悪魔給仕族たちが頭上に銀のトレイを掲げて可憐に飛来した。
仕立ての良いミニタキシードに身を包んだ給仕は、静かに宙に浮いたまま、未亜の前に優雅なお辞儀とともに朝食の皿を配膳していく。
「本日のお朝食でございます、姫様」
甲高い声で恭しく差し出されたのは、王宮の朝食に相応しい豪華なワンプレートと、あやしくたゆたうスープだった。
漆黒の甲殻類が怪しく蠢くソテーに、紫色の汁を滴らせる未知の果実。最高級ホテルの朝食のような完璧な盛り付けでありながら、食材のすべてが人間の食欲を激しく拒絶する禍々しさを放っている。
その脇には、透き通るクリスタルの器に入った冷製スープが添えられていた。ドロッとした灰色のスープの上に、細かな氷の結晶が浮いている。
救いなのは、今朝も唯一、プレートの隅に添えられた焼きたての白いパンだけが、人間界のそれと変わらぬ形を保っていたことだ。
人間界のものより少しパサつきはあるものの、怪しげな色彩をしていないそれだけが、未亜の唯一の食糧だった。
未亜は視線をプレートの端へと向け、皿の上の惨状を見ないようにしながら、その白いパンへ手を伸ばした。小さく、小さく指先で千切り、口へと運ぶ。
「……昨夜は、よく眠れたか?」
ヴェルラウトが訊ねてきた。
いつも通りの問いかけだが、今日の彼の手元は、ナイフとフォークを持ったまま止まっている。挨拶を返してもらえたことで、次も返事がもらえるのではないかという切実な期待が、彼の全身から滲み出ていた。
千切っていたパンの手を止め、未亜は静かに彼を見つめ返した。
「……はい」
それは嘘ではなかった。
昨夜はあまりにも多くのことが起きすぎた。思いがけない脱走、襲いかかる魔獣、命がけで自分を庇った魔王の背中の大傷と手当ての末に結ばれた『一年の誓約』。
真夜中を過ぎてベッドに倒れ込んだ未亜は、恐怖を忘れるほどの極度の疲労ゆえに、この魔界へ連れて来られてから初めて泥のように眠りについたのだ。
「そうか……。それは、良かった」
彼は未亜の言葉一つひとつを噛み締めるように頷くと、さらに問いを重ねた。
「足の傷はどうだ。……痛みは残っていないか?」
矢継ぎ早な問いかけ。声には隠しきれない焦躁と心配が混ざり合っている。
未亜は穏やかに答えた。
「おかげさまで、傷はすっかり塞がっています。痛みもありません」
「……そうか」
ヴェルラウトの琥珀ゴールドの瞳に、深い安堵が広がる。
「ならいい。……念のため、昼までにアスクレスを寄越す。しっかり診てもらうといい」
「はい」
未亜が小さく頷くと、会話は一度途切れた。
けれど、未亜は胸の奥に引っかかっていた小さな疑問と、人としての礼儀が胸を突く。
フォークの音すら聞こえない静寂の中、未亜は、ゆっくりと口を開いた。
「……魔王さんは、背中の傷はどうですか?」
心配があったのは事実だ。それに、自分の傷を心配されたのだから、相手の体を気遣うのは未亜にとって当たり前の作法だった。
けれど、その言葉が落ちた瞬間、ヴェルラウトの身体が微かに強張った。
未亜から初めて自発的に案じられたという事実は、彼の胸の奥へとしみ込むような深い波紋を広げていた。
歓喜がじわじわと広がり、瞳の奥の琥珀ゴールドが温かな光を帯びて揺れている。予期せぬ大きな感動に胸を突かれた彼は、自らの内に生じた強い愛おしさを必死に噛み殺すように、表情を硬く引き締めて低く答えた。
「……問題ない」
短く素気なく答えたものの、ヴェルラウトは何かに気づいたように未亜を見つめ直した。それからほんのわずかに肩の力を抜くと、言葉を噛み締めるように足した。
「……お前のおかげで、傷は塞がった。痛むこともない」
それは先ほど、未亜が彼に返した言葉とまったく同じ響きを持っていた。
自分が言われて胸を打たれた言葉を、不器用になぞって返しているのだと気づき、未亜は静かに受け入れた。
「そうですか。それなら良かったです。……でも、大怪我でしたから、あまり無理はなさらないでください」
「……あぁ、わかった」
短いやり取りのあと、会話は一度途切れ、静寂が食卓を包んだ。
けれど、ヴェルラウトの眼差しは未亜から離れなかった。せっかく繋がった言葉の糸を途切れさせたくないのか、彼は琥珀ゴールドの瞳を巡らせ、必死に次の話題を探しているようだった。
やがて、彼は未亜の皿へ視線を落とすと、探るように問いかけた。
「……今朝は、好きなメニューはあったか」
未亜の胸に、苦い困惑が広がった。
好きなメニューなど、あるはずもなかった。視界に入るだけで吐き気がしそうな魔界の料理の中で、かろうじて食べられるのがこのパサついた白いパンだけなのだ。
けれど、「どれも気持ち悪い」と正直に言えるはずもなかった。未亜は手元のお皿に視線を落とし、小さく答えた。
「……パン、です」
実際には「これしか食べられない」だけだったのだが、未亜の初めて知る「好み」に、ヴェルラウトの瞳がハッと輝いた。
静かな感動から一転、未亜のために「何かをしてやれる」という歓喜が彼の行動力を突き動かす。
「お前は、いつもパンを食べているな」
彼は深い納得を得たように頷くと、迷いのない手つきで、まだ一口も手をつけていない自分用の大きな皿から、焼きたての白いパンを躊躇なく掴み取った。
「そんなに好きなら、俺の分もやろう」
重厚な白磁のプレート越しに、彼の太い腕がまっすぐに伸ばされる。
未亜に『好きなもの』を与えられることが嬉しいのだろう。彼の動作には、迷いや出し惜しみなど微塵もなかった。
壁際に控えるガルムが、絶句したように眉間を激しく寄せ、見苦しいものを見るかのように苦々しく口元を歪める。
未亜は、目の前に差し出された大きなパンと、今日こそは未亜の『好きなもの』を与えることが出来たと信じて疑わないヴェルラウトの琥珀ゴールドの瞳を見つめた。
ここで断って場の空気を凍らせる勇気は、未亜にはなかった。
未亜は小さく息を呑むと、手元のパンを一度皿に戻し、おずおずと両手を伸ばした。
「……ありがとうございます」
大きなパンを受け取ると、ヴェルラウトの瞳が「さあ、存分に食え」と言わんばかりに熱い眼差しで未亜の手元をじっと見つめていた。
逃げ場を失った未亜は、彼からもらったパンを小さく千切り、口へと運ぶ。
その瞬間、ヴェルラウトの琥珀ゴールドの瞳が大きく見開かれた。
自分が差し出したものを、彼女が受け取り、口にしてくれた——。
胸の奥で爆発した凄まじい歓喜に、彼は耐えかねたようにすっとおそろしく不自然に目を伏せた。緩みそうになる頬や、溢れ出そうになる笑みを必死に抑え込もうと、伏せられた長いまつ毛がかすかに震えている。
未亜の目には、彼が急に静まり返り、じっと手元を見つめて固まってしまったようにしか見えなかったが、その身に纏う空気は明らかに熱を帯び、どこか微熱を孕んでいた。
やがて必死に感情を押し殺し、顔を上げたヴェルラウトは、満足気な声を落とす。
「……だが、パンだけでは身体に障る。今朝のスープは栄養も豊富だ。飲むといい、お前の好きなパンにも合う」
ヴェルラウトが促したのは、未亜がずっと視界から外していたあのクリスタルの器だった。
ドロッとした灰色の液体の上に、細かな氷の結晶が浮く不気味な冷製スープ。とてもではないが、口にできる見た目はしていない。
「……ごめんなさい。冷たいスープは、苦手なんです」
気持ち悪くて飲めないとは言えず、未亜は苦肉の策で冷製スープであることを理由にした。
ヴェルラウトの片眉が、不審そうにピクリと跳ね上がる。
「スープとは、冷たいものだろう」
至極当然といった口ぶりの魔王に、背後からガルムが恭しく、けれど隠しきれない棘を込めて口を挟んだ。
「魔族は人間よりも体温が高うございますゆえ、冷製スープが基本でございます。……人間界には、温かいスープなどという軟弱な文化があるようですがな。人間ならではの嗜好でございます」
ガルムの嫌味を軽く受け流し、ヴェルラウトは未亜を見つめた。
「そうか。人間界には、温かいスープがあるのか」
ヴェルラウトは納得したように頷き、未亜をじっと見つめた。
「ならば……温かいものであれば、お前は飲むのだな?」
未亜は言葉に詰まった。
ただ温められたところで、この禍々しい素材のスープであれば、やはり飲むことはできない。
「……人間界にあるような、スープであれば……」
やんわりと、けれど確かに拒絶を込めてそう告げると、ヴェルラウトの表情がわずかに強張った。
彼は何かを深く吟味するように唇を閉ざし、そのまま黙り込んでしまう。
それ以上、ヴェルラウトが口を開くことはなく、ダイニングには再び静寂が訪れた。
未亜は静かな空気の中、黙々とパンを千切り、口へと運び続けた。
いつもと違ったのは、手元に二人分のパンがあったことだ。
パサつきのあるパンではあったけれど、お腹いっぱいになるまで食事を摂れたのは、この城に連れてこられてから、初めてのことだった。




