第18話 魔王城に広がりゆく困惑
朝食を終え、サロン・ダイニングからリビングへと戻って数時間が経っていた。
未亜は、前日と同じ純白の革製ソファに身を沈めていた。
その足元で、宮廷魔導医長のアスクレスが、毛の長いカーペットに片膝をついて跪き、手際よく未亜の足裏と右の手のひらを診ている。
背中まで届く美しい銀髪を揺らし、銀縁眼鏡の奥のエメラルドグリーンの瞳で未亜の足裏と右手を交互に観察するその容姿は、まるで絵画から抜け出してきたように精緻で美しい。
「……ふむ」
アスクレスの薄い唇から、かすかな呟きが漏れた。
彼は未亜の華奢な足首を片手で支えたまま、美しく整えられた眉をわずかに寄せている。
昨夜、彼は「上質な再生ポーションを塗ったのだから、明日には痕跡もなく綺麗に塞がる」と言っていた。その言葉通り、足裏の不快な擦り傷も、掌の浅い切れ傷も、綺麗に塞がり、痛みは跡形もなく消えている。
「見事な回復だ。……我が秘伝の再生ポーションを塗り込んだとはいえ、傷の痕跡すら残らんとはな。人間というのは、細胞の再生速度がこんなにも速いものなのか。それとも、この娘独特なものなのか」
未亜の肌に残っていたのは、ただの「傷が塞がった跡」ではなかった。傷のあった部分の皮膚は、まるで生まれ変わったばかりのように瑞々しく、微かに澄んだ光を帯びていた。
長年、数多の魔族や異形の生命体を診てきた魔導医としての鋭い直感が、目の前の繊細な人間の肌から漂う「生命力」の波紋を捉えていた。
傷が治ったはずの場所をじっと見つめるアスクレスの反応に不安を覚え、未亜が「何か問題でも……」と尋ねようとしたその時だった。
アスクレスの白衣の首元から、するりと這い出してきた二匹の白銀の蛇が、未亜の膝の上へと滑り込んできた。
「ッ……!?」
息が凍りつく。未亜の手先が激しく強張り、全身の血が引いていく。
「こら、お前たち。すでに消毒も治療も済んでいる。余計な手出しをするな」
アスクレスが呆れたように手を伸ばし、二匹の白蛇を制しようとした。だが、いつもなら彼の忠告に従うはずの魔薬精霊たちは、主の言葉など耳に入らないとばかりに未亜の手元へ群がっていく。
二匹の白蛇は、未亜が膝の上で小さく握りしめていた指先に、ひんやりとした冷たい鼻の頭をすりすりと擦り付けた。そして、赤い二股の小さな舌を素早く覗かせると、未亜の指先をそっと舐め上げ、愛おしそうに未亜の手の甲へと頬を寄せ、うっとりと目を細めたのだ。
「……おや。魔薬精霊が、私以外の者にここまで懐くとはな。珍しいこともあるものだ」
アスクレスが意外そうに眉を跳ね上げた。未亜の手元で気持ちよさそうに身を寄せる精霊たちを見つめ、誰にともなく興味深そうに呟く。
「これも……この娘の纏う、その妙に純度の高い生命力の仕業か……?」
アスクレスは誰に聴かせるでもなく、研究者としての好奇心を覗かせて呟く。
だが未亜には、彼の言葉など耳に入っていなかった。
それどころか、アスクレスが何を思案しているかを気にする余裕など、今の未亜には微塵もなかった。
両手にすがりつくように巻き付いてくる二匹の白い蛇に、未亜はただひたすら困惑していたのだ。
最初は気味悪さと恐怖で身をすくませていた。
けれど、手に巻き付く冷たい体温は決して威圧的ではなく、ただ未亜の持つ温もりに吸い寄せられるように、愛嬌たっぷりに甘えてきているだけだった。
滑らかなうろこの感触が、心地よく皮膚を滑る。
(……怖くない、かも……)
危害を加える意思がないと悟った瞬間、恐怖はすっと引いていった。
代わりに、じっと未亜を見上げてうっとりと喉を鳴らすような仕草を見せる白蛇が、不意に愛らしく見えてきたのだ。
未亜は小さく息を吐くと、おずおずと空いた指先を伸ばし、白蛇の小さな頭を優しく撫でた。
「……可愛い……」
ぽつりと溢れた未亜の言葉に、白蛇は嬉しそうに「シュルル……」と甘えたような掠れ声を上げて擦り寄ってきた。
「さっきまで引きつった顔で怯えていたと言うのに、今度は『可愛い』か。まったく、単純な娘だな」
道具鞄に薬瓶を収め終えたアスクレスが、呆れたような、けれどどこか愉しそうな吐息を漏らした。
彼は立ち上がると、事もなげに未亜のすぐ隣へと腰を下ろした。そして、すっと滑らかな動作で未亜と向き直るように横を向き、未亜の顔を覗き込んできた。
眼鏡の奥のエメラルドグリーンの瞳が、間近で未亜の肌を観察する。美形特有の整いすぎた顔立ちが至近距離に迫り、未亜は思わず肩を竦めた。
「まあ、顔色はだいぶ良くなったな。昨夜はまるで、この世の終わりのような陰惨な顔をしていたが」
医者としての最低限の確認を終えると、アスクレスの顔が静かに離れていく。
だが、直後、彼の薄い唇が意地悪く、愉悦を孕んだ形へと歪んだ。
「まあ、この絶対の要塞から這い出そうと足掻いた挙句、結局は陛下の腕の中に救われて舞い戻ってきたのだ。自分の愚かさに絶望するのも無理はないがね」
アスクレスは、嘲笑を含んだ軽薄な声で言うと、ククッ、と喉を鳴らした。
腕に巻き付いた白蛇を愛おしそうに撫でていた指先が止まる。未亜の表情が、一瞬で曇った。
昨夜の自分の愚かな行動と、その情けない顛末を他人から容赦なく言葉にされ、悔しさと恥ずかしさで頬が熱くなる。
「……たまたま、城の外に出てしまっただけです……っ」
嘘ではない。
でも、思わず口をついて出てしまった、未亜の子供じみた強がりに、アスクレスは全く信じていない顔で片方の口角を上げた。
「へぇ……たまたま、ねぇ」
アスクレスは、ソファの背もたれに腕を乗せると、無造作に頬杖をつき、愉快そうに細めた切れ長の瞳で未亜を見つめる。
「朝から城中がその噂で持ちきりだったぞ? とうとう人間の娘が魔王城の暮らしに耐えかねて、気が触れて逃げ出した……とな」
他人の不幸を心底面白がっているようにしか聞こえない声色だった。
未亜は屈辱に、無意識に唇を小さく尖らせた。その幼くも必死な抵抗の表情を、アスクレスは愉悦に満ちた眼差しで見つめる。
「まあ、私にとっては幸運だったがね。これほど好奇心を刺激してくれる検体は、そうはお目にかかれないからね——」
アスクレスは未亜の反応を楽しむように口元を緩めると、未亜の肩口にこぼれていた栗色の髪を一房、滑らかな指先で無造作に持ち上げた。
その時だった。
ドォンッ……ッ!!
『王妃の間』の重厚な白銀扉が、まるで叩き割られんばかりの凄まじい勢いで開け放たれた。
乱暴に押し開かれた扉の向こうから、息を荒く乱したヴェルラウトが踏み込んできた。その背後には、漆黒の重甲冑に身を包んだ魔王直属の騎士たちが数名、整然と列をなして立ち並んでいる。
そして、扉の先に広がる光景——ソファに肩を並べて座り、未亜の髪に触れるアスクレスの姿を目にした瞬間、ヴェルラウトの琥珀ゴールドの瞳が極限まで見開かれた。
バリバリッ……!!
空気そのものが悲鳴を上げるような、殺意にも似た凄絶な魔圧が爆発的に放たれた。
未亜の栗色の髪とドレスの裾が、不可視の暴風に煽られて激しくなびく。天井の魔導大結晶の光が一瞬明滅し、白磁のテーブルの上に置かれたクリスタルの花瓶が微かに軋んだ。あまりの密度の魔力に、呼吸が一瞬で詰まりそうになる。
怒りの黒いオーラを全身から放ちながら、ヴェルラウトは長い脚で大理石の床を強く踏み鳴らし、大股で近づいてきた。
「ひっ……!」
突如として降り注いだ死の気迫に、未亜は身を竦ませて身体を強張らせた。
けれど、その隣でアスクレスだけは、降ってくる魔圧をまるで春風でも浴びるかのように受け流し、優雅に足を組み直していた。
ヴェルラウトはアスクレスの目の前で仁王立ちになると、見下ろす琥珀ゴールドの瞳をギラギラと激しく発光させた。
「……何をしている」
低く、抑え込まれた声。静かだからこそ、その奥に渦巻く嫉妬と怒りの凄まじさが伝わってくる。
だが、アスクレスは顔色ひとつ変えず、至極飄々とした笑みを浮かべた。
「これはこれは、魔王陛下。お言いつけ通り、姫様の傷の具合を診に伺ったまでにございますよ」
不敵な笑みを崩さず、アスクレスはどこ吹く風とばかりに首を傾げた。
「……それより陛下こそ、そんなに急いでどうされたのですか。本日は西方領土の定期視察だと伺っておりましたが、何故こちらに?」
わざとらしく驚いたように片眉を上げるアスクレスの挑発は止まらない。
「まさか……愛おしい姫様に会いたいがために、公務を投げ出して戻られたわけではありますまい?」
アスクレスの意地の悪い追求に、ヴェルラウトの異形の美貌が、不自然に強張った。
背後に控える漆黒の騎士たちが、互いに気まずそうな視線をチラリと交わし合う。
「……戯けたことを。俺を誰だと思っている」
ヴェルラウトは威厳を取り戻すように力強く否定し、胸を張った。
「西方への視察など、とうに済ませてきたに決まっているだろう」
堂々とした完璧な返答だった。
しかし、次の瞬間——ヴェルラウトはほんのわずかに視線を泳がせると、ボソッと低い声を落とした。
「……残りの雑務は、ガルムに任せてきただけだ」
重厚な兜の奥で、騎士たちが一斉に揃って目を伏せた。
魔王はどうやら、嘘をつくのが酷く下手な質らしい。
本来なら終日かかるはずの西方視察を力任せに数時間で終わらせ、あとの面倒な処理をすべて最高顧問の老執事に押し付け、自分だけ直属の騎士を引き連れて帰ってきたというのが、紛れもない事実のようだった。
「ほう。我が城の最高顧問に、ですか。……それはそれは、実に素晴らしいご判断で」
アスクレスが、称賛の形を借りた最高の嫌味を口にする。
ヴェルラウトの琥珀色の瞳がギラリと光った。
「……黙れ。今すぐそこをどけ」
ヴェルラウトの理性が限界を迎えた。彼は未亜の隣で未だ優雅に寛ぐアスクレスの腕を強引に掴むと、力任せにソファから引き剥がした。
そしてアスクレスが態勢を整える間すら与えず、すかさず自らの巨躯で未亜の隣のスペースをどかっと占領したのだ。
主人が引き離されたことで、未亜の手元で甘えていた二匹の白蛇も「シュル……」と不満げに未亜から離れ、アスクレスの白衣へと戻っていった。
ヴェルラウトは未亜の隣に座るや否や、太く逞しい腕を未亜の背中に回した。引き寄せる力は乱暴なまでに強く、彼は未亜の華奢な身体を自分の分厚い胸の中へすっぽりと抱え込んでしまう。
それはまるで、自分の大切なおもちゃを誰にも渡すまいと必死にかき抱く子供のような、隠しようもない幼い執着そのものだった。
「やれやれ……」
強引に奪い取られたアスクレスは、肩をすくめて呆れたように首を振った。
「主治医としての仕事は完了いたしましたので、私はこれで失礼いたしますよ」
床に置いてあった革鞄を持ち上げると、アスクレスは未亜を庇うように抱え込む魔王へ向けて、酷く意地悪な笑みを投げかけた。
「……どうぞ、心ゆくまで『お仕事』の続きをお楽しみください」
首元に戻ってきた白蛇たちの頭を指先で優しく撫でながら、アスクレスは手をひらひらと振って引き返していく。
そして、騎士たちの横を通り過ぎる際、彼らが両手で大切そうに抱えている、茶色の大きな紙袋をチラリと盗み見ると、鼻をヒクヒクと鳴らした。
「ほう……実に素晴らしい香りだ。お前達、どうやら我が魔王陛下は、西方でとても美味しそうなお仕事をしてこられたようだぞ」
あえてヴェルラウトに聞こえる声量でクスクスと笑い、アスクレスは白蛇に話しかける体を崩さぬまま、優雅に立ち去っていった。
重い白銀の扉が閉まり、静寂が戻ってくる。
室内に残されたのは、騎士たちが大事そうに抱える紙袋から漂う、どこか甘く香ばしい、食欲をそそる素晴らしい香り。
そして、その匂いの正体も分からぬまま、折れそうなほど強く抱きしめられている未亜。
さらには、魔王のあまりにも露骨な溺愛と執着を目の当たりにし、見てはいけないものを見てしまったと言わんばかりに、全員で必死に壁の一点を見つめて固まっている騎士たちだけだった。




