第19話 魔王からの贈り物
アスクレスが立ち去り、重い白銀の扉が静かに閉じた。
室内に充満していた張り詰めた魔圧がゆっくりと引いていくのと入れ替わるように、目眩がするほど芳醇で甘い香りが空間を満たしていく。
ソファに座った未亜を後ろから強く抱きすくめたまま、ヴェルラウトは微熱を帯びた吐息を耳元へ落とした。
「……傷の具合はどうだ。奴に……アスクレスにしっかりと診てもらったのだろうな」
低く落とされた声。けれどそこには、去っていったアスクレスに対する隠しきれない苛立ちと疑念が滲んでいるように聞こえた。
怪我の経過を本気で心配しているはずなのに、ヴェルラウトは未亜の顔を見ようとしない。彼女の頭に顎を乗せたまま、真っ直ぐに意味もなく床のカーペットを見つめている。目を合わせられない不器用な仕草に、素直に嫉妬を口にできない魔王の独占欲が表れていた。
未亜は、彼の腕に囚われたまま静かに答えた。
「はい……。傷の痕跡も綺麗になくなっていると言われました」
返事を聞いたヴェルラウトは、抱きしめたまま未亜の右手をそっと取り、その手のひらを覗き込んだ。白く滑らかな肌をひとしきり見つめ、しばらくの沈黙ののち、どこか安堵したように「……なら、いい」と短い吐息を漏らした。
直後、彼の声音から刺々しさが消え、一転してどこか誇らしげな明るいトーンが混ざり込んだ。
「土産を持って帰ってきた」
ヴェルラウトが小さく顎をしゃくると、それを合図に、部屋の隅で気まずそうに直立していた直属の騎士たちが、示し合わせたように機械的な動作で動き出した。
どこから運ばれてきたのか、ソファの前にちょうど良い高さの高級な木製テーブルが素早く据え付けられる。そして騎士たちが抱え込んでいた大きな紙袋から、次々と『土産』が取り出され、テーブルの上へと並べられていった。
そこに広がったのは、色とりどりの、あまりにも異質なパンの山だった。
爪のような装飾が施された、血のように真っ赤な果汁が滴るパイ。
紫色の怪しい蒸気をかすかに立ち上らせる、不気味な肉が豪快に乗せられたピザ。
かと思えば、人間界の童話に出てくる小さな恐竜の形を象った、甘い香りを放つ黄色いカスタードパンまで並んでいる。魔界独特の過酷で凶暴な色彩と、どこか愛らしい造形が混ざり合った、目移りするほどのパンの群れ。
次々とテーブルを埋め尽くしていく光景に、未亜はただ呆然と圧倒されるしかなかった。
「……下がれ」
ヴェルラウトの低い命を受け、騎士たちは深々と頭を下げると、音もなく王妃の間から辞去していった。
二人きりになった静寂の中、ヴェルラウトは未亜を抱く腕を解くことなく、ソファの前に並ぶパンの山を自慢げに見下ろした。
「昼食はまだだろう。……西方で売られているパンの全てだ。好きなものを食うといい」
自信に満ちあふれた声。
テーブルを覆い尽くすパンの山を見つめながら、未亜は呆然としたのち、頭の片隅でひとつの事実に思い当たった。
(この人……私が今朝『パンです』って言ったから……)
ほんの数時間前、朝食の席で、仕方なく口にした未亜の言葉。けれど、ヴェルラウトにとってそれは、大きな意味があった。
たったそれだけの理由で、この魔王は西方視察の途中で街中のパンをこれでもかと買い集め、爆速で城へ舞い戻ってきてしまうほど。
規格外で強引すぎる情熱に呆気に取られる。恐ろしい誘拐犯のはずなのに、あまりにも不器用で真っ直ぐな彼の行動に、ほんの少しだけ毒気を抜かれてしまう。
未亜がただ圧倒されて手を伸ばせずにいると、ヴェルラウトは彼女の反応を待ちきれない様子で、覗き込んできた。
「どうした。どれがいい?」
ヴェルラウトは真剣な眼差しで次々とパンを指差し、少年のように目を輝かせておすすめしてくる。
「この赤く熟した果実のパイは、西方の貴族の間で最も重宝されている。」
「………」
血のような赤い果汁を垂らすパンは、見ているだけで恐怖を煽られた。
「嫌か。……ならば、こちらの肉のピザはどうだ。魔獣の肉の旨味が詰まっているそうだ。……あるいは、こちらの角パンか。どれでも好きなものを選ぶといい」
どれもこれも、未亜にとっては恐怖の対象でしかなかった。滴る赤い果汁も、紫色の肉も、口にする勇気など到底出ない。
「……これが、いいです」
未亜が迷った末におずおずと指差したのは、一番奥にひっそりと置かれていた、飾り気のない素朴で小さな丸いパンだった。
それを見たヴェルラウトは、どこか拍子抜けしたように片眉を上げた。
「……お前は本当に、食い物にも欲がないな」
ヴェルラウトは呆れたような、けれど愛おしいものを見るような眼差しで吐息を漏らすと、未亜が指差した丸いパンを迷わず手にとった。
「ほら、食え」
ヴェルラウトは、その大きな手でパンを一口大にちぎると、そのまま未亜の口元へと差し出してきた。
「あっ……あの、自分で食べられますから……っ」
驚いた未亜が慌てて手を伸ばし、彼の手からパンを受け取ろうとした。けれど、ヴェルラウトはその手をひらりと交わし、頑なにパンを渡そうとしなかった。
「お前が自分で食べていたら、日が暮れてもパンがなくならん」
毎朝、未亜は、時間稼ぎのために、パンをミリ単位で小さく小さくちぎって食べている。そのことを言っているのだろう。
「いいから、早く食え」
ヴェルラウトは絶対の意志を込めて、ちぎったパンを再び未亜の唇へと近づけた。
至近距離で見つめてくる琥珀ゴールドの瞳。
「食え」と言わんばかりの強い威圧感と、どこか子供のように純粋な期待が、その爛々と輝く金色の光の中に混ざり合っていた。
ここで突っぱねることはできなかった。
未亜は観念し、覚悟を決めて小さな唇を開いた。彼の指先から、小さくちぎられたパンをハムッと口に含む。
その瞬間——。
未亜の唇が自分の指先に触れ、パンを口に含み、飲み込んだのを見たヴェルラウトの身体が、一瞬だけ硬直した。
琥珀色の瞳孔が細まり、彼は耐えかねたように、すっと静かに目を伏せる。
言葉はない。けれど、未亜が一口食べるたびに、ヴェルラウトの表情がわずかに緩んでいった。そして、彼女が飲み込むや否や、また次のパンを小さくちぎり、愛おしそうに未亜の口元へ運んでくる。その手は、妙に嬉しそうに弾んでいる。
「ん……っ」
口に含まされ、モグモグと咀嚼して、飲み込んだ瞬間に次のパンがやってくる。
まるで雛鳥に餌を与える親鳥のように、ヴェルラウトは夢中になって未亜にパンを与え続けた。自分が与えた食べ物を未亜が素直に口にしてくれることが、たまらなく愛おしく、幸せで仕方がない様子だった。
ようやくひとつのパンを食べきり、未亜がほっと息を吐いたのも束の間、ヴェルラウトの手がさらに次のパンへと伸ばされた。
「あ、あの! もう大丈夫です……っ! お腹いっぱいです!」
未亜は慌てて声を張り上げ、彼の手を止めた。
「もう食わないのか。……お前は食が細すぎる。もう少し食べなければ身体が持たんぞ」
本気で心配そうに眉間を寄せるヴェルラウトに、未亜は引き攣る笑みを浮かべながら言った。
「お腹が空いたら、また後でいただきますから……」
やんわりと受け流す未亜の言葉に、ヴェルラウトは不満そうに口を噤んだ。何か言いかけようとする彼よりも早く、未亜は胸の中にずっと溜め込んでいた本題を切り出した。
「それより……魔王さんに、伺いたいことがあるんです」
「……!」
今まで拒絶と沈黙しか返してこなかった女からの問いかけ。
ヴェルラウトの瞳に、ハッとしたような驚きと、隠しきれない歓喜の光が灯る。彼は緩みそうになる表情を必死に引き締め、力強く頷いた。
「なんだ。何でも答えよう、言ってみろ」
未亜は膝の上で指を固く組み、言葉を慎重に選びながら、おずおずと口を開いた。
「……昨日の……あの大きな魔獣さんの遺体は、どうなったのですか? ……まだ、あのままなんですか……?」
予想もしなかった問いかけに、ヴェルラウトの琥珀色の瞳が意外そうに揺れた。
「……アレか。アレは通常よりも異常発達した特級個体だ。城の研究機関が回収し、解剖して調査を行う予定になっている」
包み隠さず正直に答えるヴェルラウト。
その「解剖」という冷酷な響きに、未亜の肩が小さく跳ね、瞳に痛ましげな色が陰った。
命を奪われ、その躯すら切り刻まれることになる、哀れな魔獣。未亜は胸を痛めながら、ゆっくりと目を上げた。
「……解剖の前でも、後でも構いません。……あの子に、お花を供えさせていただけませんか?」
「花……? あの魔獣にか?」
ヴェルラウトの顔に、明らかな困惑が浮かんだ。自分を殺そうとした化け物に対し、なぜ花を捧げる必要があるのか、魔族の絶対君主には理解すら及ばないようだった。
「はい。……昨日はバタバタしてしまったから。ゆっくりと、最後のお別れがしたいんです」
澄んだ未亜の瞳が、切実な痛みを宿して彼を見つめ返す。
ヴェルラウトの表情が、一瞬だけ険しく引き締まった。
昨夜の未亜の脱走、暴魔熊の爪が迫った死の恐怖、そして彼女を失いかけた激しい焦燥が脳裏をよぎり、「ダメだ」と拒絶の言葉が喉まで出かかった。外へ出すことの危険を、彼は何よりも恐れていた。
けれど——今朝、自分に「おはよう」と返し、自分の手からパンを食べ、真っ直ぐな瞳で自分を見つめてくる未亜の悲しむ顔を、彼はどうしても見たくなかった。
ヴェルラウトは深く重い息を吐き出すと、苦渋の決断を下すように低く呟いた。
「……俺の側から、絶対に離れないと約束するなら……許そう」
出された条件に、未亜は静かに、けれど強く頷いた。
「……はい。約束します」
未亜の承諾を聞き届けると、ヴェルラウトは手元にあった上質な毛皮のケープを引き寄せ、未亜の華奢な肩へと優しく羽織らせた。未亜を包み込むのは、彼特有の微熱のような体温と、どこか深い森を思わせる厳かな香り。
白銀の鳥籠の扉が、ゆっくりと外の世界へ向かって開かれようとしていた。




